然の切なさ,微細な甘さ

 ひとりの少年がいた。
 晴れ渡った空のように青い瞳、はにかむような優しい笑顔、澄み切った心を持っている少年。
 けれどもいまは、重いまぶたに遮られて、瞳の色がみえない。
 一緒に彼の心も。
 眠っていた。
 彼の意識はそこにはなく、しんしんと眠っていた。




「マリウスっ!!?」

 明美はすっとんきょうな声をあげた。
 思わぬところで思わぬ人物をみたのだ、無理もない。

「え」

 その声に反射的に振り返ったなつきは、けれどもそこに彼の姿をみることはできなかった。
 いたわるような目をむける。

「明美さん・・・」

 そんなに彼のことを、心配しているの。
 けれども明美はぶんぶんと首を振った。

「違う。確かにいたのよ。間違いないわ」
「・・・でも」

 同情するような眼差しは、彼女の言葉を信じていないことを物語っている。
 明美にしても、信じられない光景だったのだが、けれどもみたものはみたのだ。
 夢にしてはあまりにリアルすぎた。
 一瞬だったけれど、閉じられたまぶたの重さとか、下向き加減で心細そうだった細い首とか、前で組まれた小さな手とか、はっきり思い出せた。
 暗いその空間の中に。
 たしかに彼はいた。
 明美は、いまは自分を姿を映すだけの鏡を凝視する。
 その中に再び彼をみつけようとして。

「夢でもみたのよ」

 なつきの言葉はしごくもっともに聞こえた。
 けれども明美は、自分のみたものを信じていた。

「絶対、いたわ」

 そのとき、ふわんと鏡面が波打つように振動した。
 驚くふたりの前で、鏡は何かと共鳴するように激しく揺れ、やがてそこに映し出されたのはひとりの男性だった。
 明美は声がでない。しばらくして、なつきがかろうじてその名をつぶやいた。

「カズ、ヤ・・・・?」

 すると、その声が届いたのだろうか、鏡の向こうにいた男性は、ふぅっと視線をさまよわせた。
 だれ?
 そのつぶやきが、脳裏に直接響いて、瞬間、3人はそこで出会う。
 鏡の向こう側とこちら側、3人の視線がただ一点に集まって、そしてそれらが幻ではないことを同時に悟った。
 明美はまだ、声を出すことができず、ぼうぜんとその人を、自分の兄をみつめ続ける。
 彼は驚いたように彼女をみていたけれど、彼女があまりに目を大きく見開いているので、そこからきれいな雫がぽとりと落ちてしまいそうなので、安心させるようにほほえんでみせた。

『そのうち目が落っこっちまうぜ。おまえの大事なチャームポイントのひとつだろ。気をつけないとな』

 今度ははっきりと響いた。低くて優しい感じのする彼の声。明美はまるでかなしばりが解けたかのように自由になって、やっと口を開くことができた。

「お兄ちゃん」

 彼は返事をするかわりに頷いて、ちょっとだけ笑った。

『もう少ししたら、戻るから』

 明美は頷く。それが具体的にどれくらいか、見当もつかなかったけれど、じゅうぶんだった。
 彼は約束を守る人だ。それに元気そう。良かった。
 あたりまえのことだけれど、ちゃんとあたしのことを覚えてる。心配してくれてる。
 それだけで充分だった。
 ちょっと恥ずかしく思う。
 結局あたしって、甘えてるんだ・・・・・。

『ん?どうかしたのか』

 表情の変化を敏感に感じ取る兄に、明美はあわてて笑顔をみせた。

「んーんっ、なんでもない。お兄ちゃんもしっかりね」

 そして、向こう側の世界にいる人たちのことも思い出す。

『シャルルがいるんだから大丈夫か。それに』

 美恵ちゃんもいるもんね。
 そう言ったとき、鏡面に波紋が生まれた。
 明美は驚いて、あわてて声を出す。

「おにいちゃん?!」

 いくつもの波紋が生まれては広まって、兄の顔がゆがんでいった。

「なんで。待って、もっと話したいことが」

 つぶやくようになつきが言う。

「こんなことがおこるなら、マリウスがいたってのも夢じゃないわね・・・」
「違う!」

 鏡はもはや、壊れたテレビのようだった。ひびのようなノイズが無秩序にはしって、兄の顔を判別することができない。そもそも、向こう側に今も本当に彼がいるのか、それさえ判断できないほど映像は乱れきっている。
 それをみながら、明美はさっきみたマリウスの様子を思い出す。

「いまのとは全然違うわ。彼がいたのはもっと」

 いまさらながら、ゾクッとした。一瞬かいまみえたその空間。鏡の向こう側の世界ではなく、あれは・・・

「ずっと暗くて、何もなくて、光も影もなくて、なのにあの子だけがはっきりと浮かび上がっていたのよ。だってあたし覚えてるもの。細かいことまではっきり。恐いくらい鮮明に思い出せる・・・・・閉じこめられてるみたいだった」
「閉じ込められる?マリウスが?どうして?」
「知らないよ!」

 悲鳴のように叫んで、明美は鏡に苛立ちをぶつける。
 いまはただ、何事もなかったかのように、その鏡は彼女自身を映していた。
 険しいなつきの表情も一緒に。

「もうわけわかんないよ!なんなのいったい。おにいちゃんは、美恵ちゃんもシャルルも本当に大丈夫なのっ?」

 不安は、あのタイミングだった。あの一瞬、どんな表情をしていたのかがみえなかった。
 笑っていたの?何も起こってはいないの?シャルルも美恵ちゃんも、ちゃんと無事なの?
 いなくなってから何日も経って、やっと心がその状態に慣れてきた。
 なのに突然、何の前触れもなくこんなふうに対面して、わずかでも言葉をかわしてしまったから、瞬く間に不安が増殖される。忘れていたはずのことまで思い出して、心が不安定に落ち着かなくなる。

「残酷よ・・・・・こんなのって」

 ふっと力が抜けてしゃがみこんだ。膝が床のつめたさを感じて、それが運命のつめたさのように思えた。
 なつきは隣に屈んで、震えるその肩を抱き寄せる。
 そのときふわっと、香りが舞った。明美は反射的に彼女をみた。

「なつきさん。これって」

 肯定するかわりに小さな容器を取り出す。

「あなたの大切な人の香り、でしょ」
「・・・どうしてなつきさんが?」
「どうしてかしらね」

 クスッと笑って彼女は、しゅーっとそのスプレーを空に向かって吹きかけた。
 香りが舞う。身につけている本人をそのまま表わすかのような、冷ややかでエレガントで、気品に満ちた硬質な甘さ。
 明美は目を閉じた。そうすると彼が近くにいるような気がして、少しだけ心が落ち着いた。

「お守りにしてね」

 なつきはそういって、彼女の手に透明な容器を握らせた。

「・・・もらっていいの?」
「ご遠慮なく」

 ほほえみながら、彼女も目を閉じる。
 はじめて会ったとき、忘れられなかったのはこの香りの方。
 多分もう一生、忘れられないような気がする。

「エゴイスト・プラチナム、か・・・」

 白金の王子様。今夜は誰の為に、エゴイストになっているの?
 そのつぶやきさえ、いまは粒子となって、微細な甘さの中にとけていった。









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