れてしまった手

 ピーターはよほど人気者なのだろう。
 和矢が歩いていると、たくさんの人たちが笑顔で声をかけてくる。
 お年寄りから子供まで、年代も性別も超えて、皆が彼を知っていた。

「やあ、いい天気だね、ピーター」

 木の実をかごにたっぷりとつめた男もそのひとりで、横にいたちっちゃな女の子も、ぺこりと礼儀正しくお辞儀した。

「こんにちわ」

 和矢は相手がだれかもわからなかったが、優しいほほえみを浮かべて答えた。

「こんにちは」

 しゃがんで、よしよしと頭をなでて。そうすると女の子はきゃっきゃと喜んだ。

「市場へ行くのかい」

 娘の様子をみながら、にこやかに尋ねる男に、和矢はあいまいに頷いてみせる。

「うん。ちょっと」
「だったら今日はイチマリがおすすめだよ。ほら、私なんかもこんなに買ってきて」

 そういってみせてくれたのは、オレンジ色をした、柑橘系の薫りをもつ木の実だった。
 なるほど。ゆうに20個は超えている。よほどお買い得だったのだろう。

「メイナももってるよ。ほら、メイナみたいにちっちゃいからって、おねえちゃんがおまけにくれたの」

 父親のまねをするように、女の子もその実をみせてくれた。
 小さなてのひらをそっと広げるようにして。
 和矢はニコニコ頷いて、よかったねと、その手の中をみつめながらいった。
 女の子はその言葉に無邪気に喜んで、うん、良かったの、と繰り返した。
 その様子を父親はやさしい目でみつめている。
 和矢はその表情を知っていた。遠い記憶の向こう、まだ自分も妹も小さかった頃のこと。
 仲の良い両親だった。よく祭りに連れて行ってもらったのを覚えている。
 しっかり手を握ってもらって安心してた。
 人ごみにまぎれないように、はぐれないようにと。
 けれどもいまは、ふたりともとても遠くにいる。
 自分はいつの間にあの手を離してしまったのだろう?

「・・・にいちゃん、ピーターおにいちゃんっ」

 その声に、はっと我に返った。和矢はまだ彼女のてのひらをみつめていた。

「どうしたの、おにいちゃん。そんなにこの実が気に入ったの?」

 まあるい大きな目。和矢はとっさに視線をそらしてしまう。

「だったらあげるよ。はい」

 何も知らないきれいな瞳だった。そこに自分を映して欲しくないと彼は思う。
 女の子はその両手を和矢にさしだして、にっこりと笑っていた。
 彼はさびしそうな笑いを隠して、静かに首をふった。

「ごめん。そうじゃないよ。これは君がもっておいで。おにいちゃんはその気持ちだけでじゅうぶんだから」

 そういって、そっとその手を握らせる。

「いいの? でも、おにいちゃんが欲しいのなら、メイナは大丈夫だよ?」
「ありがとう。いい子だね、メイナちゃん」

 しゃがみこんで、もう一度頭をなでると、和矢は優しい口調で続けた。

「けど、これはメイナちゃんの手の中がおうちなんだ。だからメイナちゃんに持っていて欲しい。しっかり握ってるんだよ」

 そっとつつみこむようにして、彼女の手を上からにぎる。女の子は迷いもなく、うんっ、と嬉しそうに頷いた。

「わかった。メイナ、ちゃんと持ってる」

 和矢はほほえむと、身を起こしながら父親の方をむいた。

「こんなに可愛くっちゃ、手放せないでしょ、お父さん」
「いやいや。甘ったれで困ってるよ」

 言葉とはうらはらに、その顔はとてもしあわせそうだった。
 和矢はそれをみて、どこかさびしげなほほえみを浮かべた。
 自分の父親が厳しかったとは思わない。けれども長男だったこともあり、甘やかされた記憶はなかった。
 仕事で留守がちな父親と、夢をかなえるために家を出て行ってしまった母親。
 残された家族を守るのは彼しかいなくて、気づけばそれらを背負ってた。
 まだ彼自身、誰かの保護を必要とする年齢だったのに、守られる立場を飛び越えて、一気に守るべき立場へとなってしまっていたのだった。
 生徒会長を務めるだけあって、責任感は言うまでもなく、人望も厚い。彼を嫌いという人は聞いたことがないし、実際彼は誰とも仲良くつきあえる性格だった。
 けれどもそれは、彼が自分をそのように育ててきた結果にすぎない。子供は親に育てられるものだと、世間一般では思われているが、世の中には自分で自分を育てなければならない子供もたくさんいる。そういう子達は、いつのまにか背負ってしまった荷物をおろすすべも知らず、自分を鍛えながら背負い続けるか、あるいは途中で投げ出すか、どちらかにしても、知らなくてもいい辛さを知るはめになるのだ。
 まだ小さなうちから大人びて、甘え方も教わらずに大きくなる。幸運にも、それを共有しあえる人に出逢えることもあるかもしれないけれど、そのときさえ、頑なに遠慮して背負い続けてしまったりするのだ。彼のように。

「それじゃあ、私たちはそろそろ行くよ」

 右手を軽くあげて、男はゆっくりと歩き出した。反対側の手に、大切な宝物をにぎりしめて。
 女の子はその反対側の手で、小さな木の実を握っていた。大切な彼女の木の実。
 彼は無意識に、手のひらをみつめていた。
 いつのまにかはぐれてしまった子供の手。
 誰の手を、いつ離したのか、そんなことはもうどうでもいい。
 問題は、その後遺症を自分がいまだ引きずっているという事実。
 こんなふとしたことにさえ、心が平静を失いそうになっている。
 いままでだったらこうはならなかった。けれども、もう誤魔化せない。思い出してしまったから。本当の自分を。それまでずっと忘れていて、とっくに消えてなくなったかと思っていたむかしの自分。
 小さくて、幼くて、まだ失うということを知らずにいたあの頃、欲しいものは望めばすべて手に入ると思っていた。すべては自分の力で切り開くことができるのだと、疑いもせずに信じていた。純粋だったのか、それとも無知だったのか。どちらにせよ、そのことで多くのものを失い、大切な人を傷つけた。だから二度とそうはしないと、大人になろうと誓ったはずなのに、気づけば同じことを繰り返している自分がいる。守りたいと、自分のすべてを懸けて守ろうと思ったはずの人を、いつのまにか傷つけて、傷つけたことさえ気づかずにいる自分勝手な男。
 彼は苦しそうに呼吸した。過去が亡霊のように甦る。あの頃と同じだ。何をしても裏目に出る。助けたいと望む気持ちが、その人を絶望へ追い込んだりする。もうどうすればいいのかわからない。
 頭がズキンズキンと脈打つように痛んだ。次第に大きくなるその鼓動は、彼を責めるように襲ってきて、底へ底へと追い詰めていく。彼の精神は皆が思うほど成熟してはいない。彼の中には、まだ成長途中の少年が棲んでいて、静かな目で監視を続けている。
 彼は無意識に、森へと足を運んでいた。ピーターと最初に出会ったその森には、光を遮るように木々が生い茂っている。
 その中に自分もすっぽり隠してしまいたい。
 そう思って、そう思う自分を自嘲して、天を仰ぎながら目をつむった。
 瞼の裏の光がまぶしかった。










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