は物に在らず,言葉は斯くも美しき哉

 彼の言葉が頭から離れなかった。


『偽りの過去の眠る場所』


 これはいったいどんな意味なのだろう、と、彼女は必死に考えていた。
 言葉を、文法的に分析しようと試みる。
 彼女は純粋な文系人間である。

「えっと、偽りの、スラッシュ、過去の、スラッシュ、眠る、スラッシュ、場所」

 つぶやきながら、紙に書いた言葉に斜め線を書き入れて、彼女は再び考える。
 ふむ。後半部分は問題なし。問題は前半だ。
 偽りの過去というのは、いったい何のことだろう。
 考えれば、これはとても不思議な言葉だった。
 過去というものは、既に存在した結果に過ぎず、それが偽りということはありえない。
 偽りであればそれは、すでに過去ではないのだ。
 そのへんの意味を、彼女は先ほどから理解できずにいた。
 わからない。まったくもって、理解不能。でもそれじゃ、あの人に認めてもらえない…。
 アルディ学園、バラ園の傍におかれたベンチに座って、彼女は流れてくるかぐわしい香りの中、 その言葉と必死に向かい合っていた。

「うーーーーーん、わっかんないなーーーーー」

 思わず、声に出す。そうしても何も変わらないけれど、思考の逃げ道を作ってあげないと 頭がパンクしてしまいそうだった。
 だがこれは、少し違った効果をもらたした。

「なんだ、これ」

 彼女のもっていた紙を後ろからひょいと取り上げた指先は細く長い。

「あ」
「イツワリノカコノネムルバショ?」

 意味を飛ばしてそのままの文字を読んだ声は、低いテナーの声だった。

「おそろしくひねくれた表現だな」

 ほっと吐き捨てて、その紙を持ち主に返す。
 彼女はぼうぜんとそれを受け取った。すごい・・・・美形。
 栗色の髪はショート、少し癖が強いようで、毛先が軽くカールしている。
 秀でた額と、そこにこぼれる前髪、その下にある瞳は心持ち下側があいていて、ただでさえ美しいその瞳をやたら色っぽく彩っていた。

「おまえさんが書いたのか」

 けれどもそのバラ色の唇からこぼれる言葉は、やたらぶっきらぼうで愛想がまるでない。
 彼女はただ首を振ることしかできなかった。

「謎かけにしちゃあ、随分とチャチな文句だ」

 ニヤッと笑ってそう言って、そのまま去ろうとする、その腕を彼女はあわててつかんだ。

「待って!」

 相手はわずかに驚きの表情を浮かべ、振り返る。

「あたしになんか用?」

 その言葉に彼女は、相手が女性であることを、知った。
 だがいまは、相手が男であろうが女であろうが、大きな問題ではない。
 それよりもこちらが先決だ。

「あの、この意味がわかったんですか?」

 そう尋ねると、相手は訝しげに、眉をひそめる。
 不審感を露わにされ、彼女は戸惑った。
 けれども、ここで引き下がるわけにはいかない。
 とてもじゃないけど、自分ひとりでこの言葉を解読できるとは、思えない。

「あの・・・もしそうなら、その意味を教えていただけませんでしょうか」

 そういうと、相手は黙って彼女を見返した。
 彼女は懇願を込めて、相手をみつめかえした。
 心の中で、手を合わせる。お願い、教えて下さい!
 その心の声が、相手に通じたかは定かではないが、祈るようにみつめる彼女の前で やがて相手はふっと笑うと、皮肉げな眼差しを、彼女に向けた。

「おまえさん、礼儀ってもんを知らんようだな。生憎とあたしゃ、礼儀知らずは嫌いなんだ」

 その言葉に彼女は、あまりに焦っていて、自分が名乗ってさえいないことに気づいた。

「ご、ごめんなさい。私は、NAOと申すものです。先日この学園に編入してきました」
「編入?・・・へえ、めずらしい」

 驚いたといったように、まじまじとNAOをみつめる、その瞳には、好奇心が浮かんでいた。

「事と次第によっちゃあ、話を聞いてやらんこともないぞ」
「本当ですかぁ!?」

 ぱっと顔を明るくした彼女に、相手はニヤッと笑うと、グイとそのキレイな顔を近づけた。
 男にもみえる女にもみえる不思議な魅力が、そこにはあった。
 うまく混ざり合っていないからこその、魅力。
 NAOの顔がぼっと赤くなる。その反応を楽しみながら、相手はたっぷり焦らして口を開く。

「ああ、本当だ。あたしゃ嘘もきらいでね。言ったことは、守るさ」
「そ、それで、事と次第って・・・」
「ま、そう焦らさんな。時間はたっぷりあるだろ。まず最初に、お互いのことをもっと よく知り合わないとな」

 その言葉にNAOはびっくりしたような顔をしたが、はっとしてあわてて首を振った。

「時間はありません!」

 あっきーから聞いた話によると、彼は「一週間待て」といったそうだ。
 なにもいわなかったが、彼の中で期限は一週間。
 そして現在、その半分が過ぎようとしていた。
 彼女は焦るばかりである。
 先着順とは思えないが、早いに越したことはない。
 けれども手掛かりさえつかめず、途方に暮れて烏の力も借りたいと思っていた矢先の、出来事だ。

「早くしないと、手遅れになっちゃうんです」

 いやに真剣な顔でそういうNAOに、相手は少し意表をつかれたようだった。
 無理もない。相手にしてみれば、学園祭以降、暇を持て余していて、久しぶりに楽しめそうだというくらいの軽い気持ちでしかなかったのだ。それがこんなにも真剣にみつめられては、とても冗談ごとですましてしまえそうにない。深く関わるには、適さない。
 そう判断して、相手は瞳に浮かんでいたからかいの色を薄め、苦笑して、NAOをみた。

「ずいぶん深刻そうだ。ちょっとあたしの手には負えないな」

 こちらから声をかけておきながら、引き際は潔い。
 多少の申し訳なさがなかったわけではなかったが、軽い気持ちで対応しては、それこそ相手に失礼だと判断した。ならば早い方がいい。その方がお互いのためである。

「悪いな。他の奴をあたってくれ」

 そういって最後にみた、その眼差しは潔く、誠実だった。

「待って!あたし」
「ストップ」

 きっぱり言って、相手はまっすぐにNAOを見た。心持ち下の方があいた三白眼。
 そこにNAOは、自分の縋るような瞳が映るのをみて、わずかに、嫌悪した。
 こんなの、いやだ。自分じゃない。
 思わず、視線を外した。唇をかむ。駄目だ。自分で考えなくちゃ、結局意味なんてないんだ。

「それ以上は言わない方がお互いの為だ。聞いてもあたしゃ、おまえさんの力になってやれないんだから。勘違いするのはおまえさんの勝手だが、なにも意地悪でいってるわけじゃないぜ」

 NAOは下を向いたまま、コクンと頷いた。相手の言うことは正しいと思った。

「サンキュ。じゃあな、せいぜい頑張って謎解きをしてくれ」
「・・・ありがとうございました。そしてすみませんでした」
「いや。あんたが謝る必要なんてないよ」

 ふっと笑って、そういうと、相手は身を翻す。NAOはもう止めなかった。
 その背中はとても均整が取れていて、しなやかに肉づいていた。
 女性のというよりは、男性のそれに近い、肢体。
 すらりと背が高く、無駄な脂肪がついていない。
 熱気を含んだ夏の風に髪を揺らせながら、ゆっくりと遠ざかっていく、そんな彼女に近づいてきたのは、同じように長身の、たぶんこちらは男性だろう。
 その横顔がなんとなく似ている、とNAOは遠ざかるふたりをみながら思った。

「あーあ・・・・」

 意味もなくつぶやいて、大きく両腕を伸ばしてみる。
 からだが少し固まっているようである。
 肩をまわして、首の運動。コキコキと、音がする。そうとう凝っているようだ。

「うちゅうりょこう、いきたいなぁ・・・・」

 切実な思いが言葉となり、空気を揺らした。
 そのとき彼女の脳裏には、彼女の宇宙が浮かんでいた。
 以前合宿で山奥へ行ったとき、彼女は無数の星をみた。
 天の川は地上に流れる川より、より洗練され、より冷たく、深く、そして美しかった。
 そこに手を入れたら、水の冷たさの変わりに何を感じるだろう。
 身震いするほどの冷ややかさか、それとも火傷するほどの熱さか。
 聴こえるせせらぎの音は、星の砂が零れる音?
 そこにあるのは何?
 そもそも宇宙って何?
 わからないわからないわからない。
 イメージだけならそれこそ無限にでも広がっていく。
 けれどもイメージはイメージでしかない。
 本物ではない。
 ってことは偽物だろうか。
 ニセモノ?
 イミテーション?
 いつわり?

「あ」

 なにか彼女の中の深くでピクリと反応した。
 それが何なのか彼女自身、わからず、捕らえようとすると、どこかへ逃げていった。
 思わず手を伸ばした、その手に、何かが触れた。
 はっと我に返る。それまで彼女は彼女の中に眠る宇宙を旅していたのだ。

「ごめんなさい!」

 この学園にきてから、謝るか自己紹介ばかりしているな。
 そう冷静に分析し、苦笑しつつ、彼女は顔を上げて相手を確認した。
 すると相手は、驚いたような顔をしたが、それが見知った相手だったので、ふっとその瞳にほほえみを浮かべ、丁寧な口調で答えた。

「どういたしまして、NAOちゃん」
「み、美馬さん!?」

 NAOは動揺を隠せない。初めてあったその日から、なんだか気になる存在だった彼。
 その本人がいま目の前にいて、自分をみているのだ、しかも周りに人はいない。
 これが動揺せずにいられるだろうか!

「あ、こ、こんにちは」

 頭がパニックなりすぎて、NAOはもっともありきたりな挨拶をする。
 美馬はクスッと笑った。

「こんにちは」

 彼の発音はきれいだった。
 こんにちは、というありふれた表現方法。
 なのに使う人間によっては、こんなにもきれいな音を出すものなのか。
 NAOは感動した。日本語の美しさが、彼の言葉の中にあふれているのを感じて。

「すごい、きれい」
「え?」
「言葉が、きれい。日本語ってきれいですねぇ」

 ほぉっと感嘆のため息をもらしてNAOがそういうと、それがあまりに心の底から、といった感じだったので、美馬はクスリと笑った。

「面白いことをいうね」
「おもしろい、ですか?なにが??」
「君の捉え方がだよ。いままでそんなふうに、満腹感のような表情でそんな言葉を言った人を、オレは知らないね」
「・・・満腹感、ですか?」
「ああ、表現が不適切かな。なんか君を見てて、ふっとそんな言葉が、浮かんだんだ」

 そういって穏やかに笑う。目を細める仕草がやたらと色っぽく、夏のようにからみついた、彼女の心に。

「美馬さん・・・・」

 彼女、いるんですか?
 そう聞きたくて、言葉が出かかった。

「・・・・か」

 無造作に反応する、艶やかなバリトンの声と声。

「か?」
「か・・・・・過去ってあります?!」

 そう言って、息切れがした。酸欠にも似た感覚だった。
 だがそんなNAOの心の動きなど知る由もなく、美馬はきょとんとして、NAOを見返した。
 どう反応したらいいのか、わからない。何を言わんとしているかが、みえなくて。

「そりゃあ、まあ」

 とりあえず、当り障りのない返事をして、様子を窺おうかと咄嗟に判断した、そこに普段はそれほど表に出ることのない彼の用心深さが、垣間見えた。

「過去がなければ、現在はないからね。ないわけはないと思うけど」
「そうですよね」

 あわてて返事をして、愛想笑い。
 NAO自身、とっさのこととはいえ馬鹿な質問をしたと、後悔していた。

「なんでまた突然、そんなこと訊いたわけ?」

 それは当たり前の質問だった。

「その・・・・理事長の言った言葉がずっと気になっていて」

 いわれて美馬は、納得した。なるほど。そういわけか。
 意図がわかれば、対応の仕方はいくらでもある。
 それで今度は、わずかにほほえんで、応じた。

「修学旅行の話だね」
「はい。わたし、どうしても行きたくって」
「偽りの過去の眠る場所、か」
「それって、どう考えても、おかしいと思うんです」

 NAOはさっきまで感じていた疑問を、口にする。

「過去は偽りじゃないじゃないですか。実際にあったからこその、過去なんですから。
 なのに偽りだなんて、変ですよ。もうわたし、何が何だか全然わかんなくって」
「ああ、落ちついて」

 頭を抱え込む彼女に、美馬はほほえんだ。

「オレにも答えはわからないけど、あいつの、シャルルの言葉だから、きっとあいつなりの意味があるんだろうと思うよ。たぶん答えを聞けば、ああそうかって、納得できる正解が、ちゃんと用意してあるはずだ。固定観念や狭い思考に囚われると、抜けられなくなる。いまみたいに思いつめてちゃ、ますます見えなくなる。もっと頭を柔らかくして、広く遠くまでをみて、考えるより感じてみた方がいい。たとえ正解にたどりつけなくても、何か得られるんじゃないかな。オレにはこんなアドヴァイスしかできないけど、本当に行きたいのなら、あきらめちゃ駄目だ。その瞬間、道は閉ざされるんだから、最後まで、自分を信じて考えてごらん」

 助けてあげたい気持ちがないといったら嘘になる。
 けれども自分が手を貸しても、それは彼女のためにならないし、彼女もそれは望んでいないのがわかった。
 ただ少し、疲れているだけだ、だからだれかに寄りかかりたくなっている。
 それも悪くない。けれども彼女はどこか距離を保っていた。
 言葉とは裏腹に、本当の意味で彼女は人の力を借りることを拒んでいるように、美馬にはみえた。
 だから彼女がもっとも言って欲しい言葉を、口にした。
 どんなに自信家な人間でも、不安になることはある。
 そのとき、決して手を貸してもらうことを求めたりはしない。
 ただ、そんな自分を受け入れて欲しいと願うだけだ。
 信じて欲しい。信じてもらえればそれだけで、何でもできるような、そんな気持ちになれる。
 自分で自分が信じられないとき、他の人の信じる気持ちがどれほどの励みになるのか、彼は身をもって体験していた。
 いまでも胸に刻まれている。決して消えることはないだろう。夢は望めば叶う。その言葉こそが、彼の中に在り続ける、夢なのかもしれない。

「すごい・・・・きれい・・・・」

 胸を熱くさせる言葉が確かにあるのだと思った。

「きれい・・・?さっきもそんなこと、いってたね」
「違うわ。さっきなんかとは比べ物にならないくらい。言葉って凄く、すごいんだって、思った」
「ああ、そうだね。言葉は力になる」
「うん!ほんと、そう!」

 嬉しそうに笑うNAOの笑顔につられて、美馬もほほえんだ。

「少しはお役に立てたかな」

 皮肉げにそういうと、NAOはブルンブルンと首を振る。

「とんでもない!少しどころか、エベレストの頂上くらいよ!」

 自分でも意味のわからない表現をして、やはり言葉は不思議だと思った。

「登ったことでもあるのかい」

 からかうような、美馬の口調。

「ないです」
「オレも、ない」

 いって、笑いあった。思考が淀みなく流れ出した、そんな気がした。

「ありがとうございます」
「行けるといいね、修学旅行」

 違います、美馬さん。
 行けるといいね、じゃなくて。

「行きます、絶対!」

 夏の空には入道雲が広がっていた。



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