和矢が過保護だということを、美恵はこの5日間で身に染みて感じていた。
「美恵ちゃん!?」
いい加減、からだがなまりそうで洗い物などしていると、カルアと出かけていたはずの和矢がちょうど戻ってきて彼女をみつけた。
「何してるの、こんなところで」
美恵は素直に答えた。
「みてのとおり、後片付け」
その言葉に、和矢はあわてて木の皿を取り上げる。
「駄目だよ。君は病人なんだから寝てなくっちゃ」
少し怒ったような彼の瞳。
「シャルルも言ってただろう。無理は禁物だって」
「むりじゃないよ。もう全然大丈夫だって」
「ダメったら駄目。ほら、まだ少し熱がある」
そういって和矢は、美恵の額を包むように手をあてた。
男っぽい大きな手。彼の体温は少し高めだということを美恵は知っている。
そして手を当ててから一瞬、神経をそこに集中するかのように目をつむることも。
「・・・ほんと平気なのよ」
和矢はゆっくり手を話すと、駄目だよ、と繰り返した。
「あまり夫を心配させるもんじゃないぜ」
そういって、いたずらっぽく笑う。けれどもそれはどこか力のないほほえみだった。
美恵の心がツキンと痛む。
彼は最近、よくこんな表情をする。
自分を責めるような瞳。
まえみたいにお手本のような笑顔をしなくなったのは、素直になったと喜ぶべきなのだろうか?
それとも・・・
「ねぇ・・・カズヤ」
だれもいないとき、美恵はその名前を呼んだ。
彼の本当の名前。他の誰でもない、世界でたったひとりの和矢。
「ん?」
無防備に見つめ返してくるその黒い色が切なかった。
「夫は妻をそんなに甘やかさないものよ?」
和矢はきょとんと美恵を見て、やがて困ったように小さく笑う。
「別に君を、甘やかしてる気はないよ。ただ心配なだけ。また倒れられそうで、それがどうしようもなく恐いんだ・・・」
「・・・カズヤ・・・」
ごまかすように和矢は笑った。やはり力のない笑顔だった。
「ごめんな、頼りない夫でさ」
その言葉に、美恵は猛然と首を振る。
「何言ってるのよ。そんなことは絶対ないよ!」
「けど、だから君は頑張りすぎるんだろう?オレはわかるんだよ、美恵ちゃん。君を無理させてるのが自分だって。なのに何もできなくて、いまもこうして君を働かさせてる」
「違う!!」
いったいなにをどう解釈すれば、そんな結論に達するのだろう。
美恵はあきれを通り越して、怒りすら覚えた。
「今、自分が何を言ったかわかってる?それはあたしに対する最大の侮辱よ!?」
強い言葉に、和矢は驚いて美恵を見た。
美恵は水で手を洗うと、ティナに借りていたエプロンで拭き、ばっとその両手を和矢の前に突き出した。
きりりと彼をにらむ。
「これはあたしの手。欲しいものは自分で探すし、みつけるし、つかみとるわ。あたしはあたしのしたいようにするの。だれのせいでもないし、カズヤがそう思うのなら、それは自惚れよ。どうしてあたしがカズヤの為に苦労するの?どうしてあたしが倒れたのがカズヤのせいなの?そんなのおかしいよ。そういうのは優しさじゃない。あなたはそうやって何でも自分のせいにして、罪悪感のなかで安心したいだけなのよ。勝手にあたしの気持ちを決めないで!」
瞬間、彼の瞳がクッと屈辱に歪んだ。
それをみて、美恵ははっと我に返る。
あたしいま、何を言ったんだろう・・・。
それさえ思い出せないほど、彼女の頭の中は真っ白で、目の前にある和矢の、厳しい顔が幾重にも重なって広がっていくばかりだった。
そのとき和矢は、食い入るように宙を見据えていた。
ただ、じっと、身動きひとつしないで、まるでそこに滅ぼすべき何かがあるとでもいうように、睨みすえるように強く、引き裂くように激しく。
その感情は彼の意志によって吸い寄せられ、やがてゆっくりと瞳のなかに凝縮されていった。
いつも優しい光を浮かべている漆黒の瞳。けれどもいまは、夜の森のように出口がなくて、その暗さを闇が飲み込んでいく。
彼はしばらく黙って、何かと闘っているようだったけれど、やがてふっと笑って美恵をみた。
その笑いは、ひどく自嘲的なものだった。
「君の言う通りだよ・・・・・・ごめん」
美恵はとっさに首を振った。取り消そうと口を開きかけて、けれどもそれより早く和矢に遮られる。
「この上、謝らないでくれよ・・・返す言葉もないんだからさ。・・・オレ、ひとつのことに夢中になると、何も見えずに誰かを傷つけていたりするんだ。むかしからそうだったんだよ・・・・・・結局何も変わってないってことなんだ」
笑みを浮かべる和矢の表情は、壮絶という言葉がよく似合った。
なぜそんな顔で笑えるのか、むしろ泣いてくれればまだ救われる気がするのに、和矢はそんな弱さも甘さも自分に許したりはしない。
美恵はそのとき深く和矢を呼吸していた。皮肉なことだが、こんなときだからこそ、感じる事ができる。ああ、この人はこういう人なんだと。どんな言葉も飲み込んで人に返したりは絶対しない。どんなに傷つけても、どんなに傷ついても。そして・・・・・どんなに愛しても。どれほど愛されているのかに気づかない。ただスポンジのように吸収して終わらせてしまう。それが和矢という人だ。
あんなにも知りたいと思っていた本当の彼の姿に触れて、こんなときなのに、いや、こんなときだからこそ、美恵はよりいっそう心が傾くのをおさえることができなかった。
とめどなく惹かれる。その頑ななまでの優しさに。かなしいくらい強すぎる心に。
けれどもいまさら何が言えるのだろう・・・。
美恵は泣きたくなる。
海より深く後悔しても、一度口からでた言葉は取り戻せやしない。
いくら悔しかったとはいえ、あたしはいったい何てことをいったんだろう。あれじゃあただのやつあたりだ。カズヤは何も悪くないのに・・・ローズのことを、責められはしない。
「・・・ちょっと外にいって、頭冷やしてくる・・・・」
彼の顔を直視できず、つまさきをみつめていた彼女に、感情を感じさせない静かな声が届いた。
はっと顔をあげた美恵の視界に、彼の広い背中が映る。そこに、ひとりにしてくれという彼の意志がはっきりと表れていて、美恵はあとを追うことができなかった。
「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・・・・怒ってる?」
こんな聞き方はずるいと思ったけれど、どんなに卑怯になってもいいから許して欲しかった。彼は背中を向けたまま首を振ると、ちょっとだけ笑っていった。
「図星を指されて怒ったら、オレはほんとにガキになっちまうよ」
そして彼は、戻ってきたばかりの玄関を、再び出て行った。
開けっ放しのドアが、風にカタカタ揺れている。
美恵は、その淋しい音を、滲んだ視界の中で聞いていた。
まるで彼の心が震えているように思えた。
カタカタカタと、音をたてて――。
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