その異変に最初に気づいたのはアンドリューだった。
「マリウス?大丈夫?」
顔色が悪い。心なしか呼吸も乱れているようで、瞳がすこしぼんやりしていた。
「部屋で休んでるか?」
心配そうに美女丸が言う。
マリウスは、大丈夫、とでもいうように笑ってみせたが、その笑顔には力がなかった。
「熱は・・・ないみたいですけど」
隣にいたNAOが、額に手をあててつぶやいた。
「でも健康者の顔色じゃないわね」
ルイがいいながら、立ち上がる。
「寝てた方がいいわ。部屋まで送ってくる」
「オレが運ぶよ」
同時に美女丸が立ち上がって、マリウスに近づいた。
ピーターの瞳が心配そうにまたたく。
「あ・・・大丈夫ですから・・・僕は」
その色がとても切なくて、マリウスはそういったけれど、顔色は明らかに悪くて、その言葉がかえって痛々しかった。
「このままここに、いさせて下さい。話を最後まで、聞いていたい・・・」
美女丸は彼をすでに抱き上げていたが、そういって見上げる瞳がとても真摯で、彼が心からそう望んでいることのがわかった。
「・・・・だったら、場所を移動しようか?お前の部屋に」
同意を求めるように他のメンバーを振り返ると、みんなが頷いた。
ふっと笑って、最後に視線をマリウスに戻す。
「全員一致みたいだ」
その優しさに、マリウスの青い瞳が柔らいだ。
思わず笑顔。
「ありがとうございます」
それでぞろぞろと、マリウスの部屋に移動した。
キッチンよりはだいぶ狭かったが、全員入っても少しスペースが余った。
みんながベッドを取り囲むように集まった。
枕もとに、ピーターが座る。
やさしくマリウスの頭をなでる。
ふと、アンドリューはデジャヴを覚えた。
まるでつい先日、ここで同じ光景をみたような。
そしてそのときいたのは、ピーターではなくて・・・。
・・・夢に違いない。
アンドリューはその人を思い浮かべて、そう思った。
それはとても幸福な夢だったが、彼を頼ってしまっている証拠のようにも思えて、少し反省した。
「中断させちゃったけど、続きを話してもらえるかな」
ピーターはルイの言葉に頷くと、視線をマリウスに向けたまま、ゆっくりと、話し出した。
まるで彼に聞かせる寝物語のように。
「僕が彼女に再会したのは、やはり日がすっかり落ちてしまった夜だった。木の実を取りに出ていたんだけど、その日は不思議にいつもの半分もみつけられなくて、ついつい森の奥まで入ってしまったんだ。気づけば、すっかり辺りは暗くて、夕暮れというよりは夜の中にいた。それであわてて帰ろうとしたとき、ふと、匂いがしたんだ」
「におい?」
美女丸の言葉に、軽く頷く。
「そう。とても甘酸っぱい匂いがした。それはちょうど、彼女にもらった赤い実の味と似ていて、気づけば僕は、それが流れてくる方向へと歩き出していた。もちろん、もう一度彼女に会えるんじゃないかと思って。都合のいい考えだけれど・・・彼女が呼んでいるような気がして、歩いた」
そのときのことを思い出す。
たとえどこに辿りつこうと、構わなかった。
もう二度と戻って来られなくても、良かった。
それくらいの気持ちで、暗い森の中を進んだ。
願いはただひとつだけ。
もう一度あの人に会いたい。
もう一度言葉を交わしたい。
まるで呪文のように彼女のことばかりが頭をめぐって、それが叶えば、他の何も要らないと思うほどに、強く彼女を求めていた。
だから決めていたのだ。
もしも再びめぐり会えたら、ためらわずにこの気持ちを伝えようと。
この手に抱きしめて、一生を共にしたいと。
彼の運命はそのときすでに、分ちがたいほど深く、彼女と結びついてしまっていたのだった。
「ぽとん、と赤い実が降ってきた。歩いていた僕は足をとめて、上をみた。するとそこに彼女がいて、最初に出会ったときと変わらない笑顔で僕をみながらいったんだ。何をしてるのって。だから僕は言った。あなたを探していたんだよって」
彼女は驚いた顔をしていた。
最初の時と同じように。
けれども彼はあのときとは違っていた。
いまはもう、大切なことを知っていたから。
「僕は彼女にはっきり告げた。あなたにもう一度会いたかったと。だからそれを望むだけじゃなくて、こうして自分の足で歩いてきたんだよって。すると彼女は、僕の前に立って、はにかむように笑って、わたしも…って言ったんだ。意味がわからなくて首をかしげた僕に、今度は少し怒ったような顔をして、わたしもあなたに会いに来たのって。今度は赤い実じゃなくて、私の名前をもらってくれるって、そういったんだ。そのときはもう・・・彼女の唇をふさいでいたけれどね」
思わず、聞き手の方が赤くなった。
けれども彼の顔色は変わらず、美女丸は、たしかにこいつは和矢じゃないな・・・などと、こんなときに納得していた。
照れ屋の彼なら、こうも平然と話したりはしないだろう。
耳まで真っ赤になるに違いない。
いや、その前にこんなふうに話すこと自体、しないだろうが。
「そして僕たちは結ばれた。彼女の連れて行ってくれた城で誓い合った。運命を重ねあうことを」
ぽつりとルイがたずねる。
「結婚式をあげたということ?」
「・・・少し違うよ」
淡いほほえみを浮かべて、ピーターはいった。
「そんな形式的なものじゃないし、永遠の愛を誓ったとか、そういう綺麗な話とも違う。なんていえばいいんだろう………もっと切実に、もっと境界線みたいな場所で、僕と彼女は………まるで生と死が強い引力を持つように惹かれあったんだ。彼女は僕を狂わせたし、彼女は僕に狂わされた。愛し合うよりもむしろ滅ぼし合うといったほうが近いかもしれない。あのときはね………本当にそれくらいの変化があったと思うよ。いまの僕はその延長上にいるけれど、彼女に出会うまでの僕はもうどこにもいない。僕は、彼女に出会えてやっと自由を手に入れられたんだと思う。彼女がたとえ、人ではなかったとしても」
あまりに彼がさらりというものだから、みんな思わず聞き流した。
が、ふと、違和感に気づく。
アンドリューが、驚いたように繰り返した。
「人ではなかった?」
そしてこの言葉に、ピーターは軽く笑って頷いた。
「ああ」
頷かれても、ああそうなの、と相槌が打てるわけもなく、その場にいた皆が、反応に困る。
「えっと、あの、それはぁ…」
しどろもどろにNAOはいうし、美女丸はただ信じられないと険しい顔をしているし、アンドリューは目をパチパチなんども瞬きし、ただルイだけは、他の人よりはだいぶ冷静にみえた。それほど表情を変えもせず、なにやら考えるように腕を組む。
マリウスは、ベッドの中からじっと、ピーターを見つめていた。
それに気づいたのか、ふっとピーターが顔をあげてマリウスをみる。
視線がぶつかる。
瞬間、マリウスが苦しげに目を閉じた。
「――――うぅっ・・・・・」
うめき声のようなものをあげながら、毛布の端を握りしめる。
「マリウス?」
とっさに美女丸が近寄って、彼に呼びかける。
「おい。どうした。苦しいのか」
マリウスは首を振ることもできず、ただ何かに耐えるように必死に毛布を握りしめていた。
「マリウス君・・・」
NAOの震えた声が、事態の深刻さを物語る。彼の顔色は真っ青を通り越して白い。まるで生命を宿さない者のように。額にはびっしり脂汗が滲んでいて、呼吸は信じられないほど早かった。
「ちょっと、シャルルはどこよ」
思わずルイの口から、そんな台詞がもれる。
「おいっ、しっかりしろ!」
その小さな手を重ねるように握りしめて、ピーターが叫んだ。
「くっそ、どうなってんだよ。このままじゃマジでやばいぜ」
切れ長の瞳がクッとつりあがって、いつも以上の迫力をたたえながら、美女丸はギリッと空をにらみすえた。何もできない自分への苛立ちが募って、行き場のないその感情は彼の中で膨らんでいく。
その瞳は燃え立つような怒りに染まって、彼自身を飲み込んでしまいそうだった。
「ねえ、どうしよう、どうしたら・・・」
NAOも反対側の手を握りしめながら、必死にマリウスに呼びかけるが、彼の症状が悪化する一方なのは明らかだ。
アンドリューはたまらず、その華奢なからだを抱きしめた。
「しっかりしてよ、マリウス。マリウス・・・」
思わず瞳からぽろりと涙がこぼれて、それを拭うのも忘れて呼びかける。
「がんばって。もうすぐきっと、シャルルが戻ってくるから、それまで、君ならできるから!」
ぴくっと、マリウスの手が動いた。
「マリウス?」
祈るように呼びかけるアンドリューに、震えるようにマリウスの瞼が持ち上がる。
うっすらとのぞいた青の瞳が、なにかを求めるように揺れていた。
「そうだ、マリウス」
美女丸が、その命の輝きを繋ぎとめようとするかのように、声を出す。
低くて、優しい声が部屋に響く。
「がんばれ。シャルルが好きなら、ヤツのためにもしっかりするんだ。あいつがおまえを大切にしてるのは、おまえがいちばんわかってるだろ、マリウス」
「そうよ、マリウス君」
NAOも必死で呼びかける。
「きっと絶対彼がなんとかしてくれるわ。それまで」
ただ気持ちが伝わるようにと。それだけを祈って。
「愛しているわ」
ルイは手を伸ばして、彼の額に触れた。
「彼はあなたを、愛しているわ。あなたを失うなんてヘマを彼がするはずない。でしょう?」
マリウスの瞳から、涙があふれて、彼の頬を塗らしていく。
それは皆の声が彼に届いている証のように思えた。
けれども体力の限界か、ゆっくりと瞼が閉じられていく。
「マリウス」
彼の瞳が最後に映したのは、その声の持ち主、ピーターだった。
最後に彼はほほえんだ。たしかに。
そしてまるで魔法のように、マリウスの姿は、そこから消えてしまったのだった。
あとかたもなく。
誰も事態を理解できず、美女丸もアンドリューもルイもNAOも、そしてピーターも、ただぼうぜんとベッドの上をみつめていた。
けれどもそこにはなにもなく、ベッドは空で、息遣いも聞こえず、あの青い瞳もみることはできず、アンドリューは空を抱きしめていて、彼の存在を示すものは何一つ残されていなかった。
「・・・・う、そ・・・・・」
そうしてマリウスが消えたということを常識な脳が理解するまで、だれもその場を動くことができず、五人はそこにいるべき人の姿を、いつまでも探していたのだった。
いつまでも、いつまでも・・・。
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