昼になっても明美となつきは姿をみせなかった。
「約束だ、ピーター」
あの一方的な押し付けを、そんなふうに呼んだら約束が気を悪くするとは思うが、そういって美女丸は鋭い視線をピーターに向けた。
ピーターはその視線をそのまま受け止め、軽く息をつく。
「わかった」
自分でいっておきながら、少し意表をつかれたのか、美女丸の動きが止まった。
そんな彼にかすかな笑みさえ浮かべて、ピーターは口を開いた。
「君の言うことはもっともだと思う。たしかに彼女との約束は大切だけれど、あまりひとつのことに捕われすぎてたら、もっと大事なことを見落としそうな気がする・・・・全部、話すよ」
無言で美女丸が頷く。アンドリューが、他の人も呼んでくるといって出ていった。
「・・・ねぇ、あなたの大切な人の名は?」
ルイがイスに腰掛けながら訊いた。
皆はキッチンにいた。
ここには大きなテーブルと人数分のイスがあるため、話し合いには都合がいい。
「――エミリィ」
つぶやくように、ピーターがいう。
思い出すように目が細まって、彼が彼女をみているのがわかった。
「生まれた場所も知らない。彼女のことはほとんど知らないんだ。知ってるのはこの名前と、そして」
そこまでいったとき、ちょうどアンドリューがNAOとマリウスを連れてきた。
「おまたせ」
「これで全員揃ったな」
そういう美女丸の表情は、少し固かった。
グルリと見回して、最後にピーターに視線を向ける。
彼は小さく頷いた。
「何か手掛かりになるかはわからないけれど」
そうして始まった彼の話は、かなり意外なものだった。
「彼女と出会って間もない頃、森に出かけて、夜を迎えたことがあった。もちろんひとりでね。そのとき、彼女と再会したんだ。そう、いまなら思い出せる。最初は彼女にただ、出会って、そのまま別れた。そのあと、森で再会して、それからずっと一緒にいたんだ」
NAOは素朴な疑問を口にする。
「一目惚れとは、違うんでしょうか」
ピーターはちょっとだけ笑った。
「最初は風みたいに通り過ぎていった人だったから、つかまえることができなかったんだよ」
わかるような、わからないような説明。
「でもあなたは、好きになったの?」
迷いもなく頷いた。
「赤い実をくれたんだ」
懐かしそうに、目を細める。
その表情はただ優しくて、彼の想いがそこに吸い込まれていった。
「最初の出会いも森でだった。その中にある小さな泉のほとりで、僕は眠っていた。いろいろ考えているうちに・・・いつの間にか眠ってしまって、気づけばもう薄暗かった。でも僕はもう少しそこにいたかった。泉に映った輝きがあまりに綺麗で、目を奪われて、夜空がさ、そこにあったんだよ。すぐ目の前に。本当はあんなに手の届かない遠くにあるのに、いまは触れられるくらい近くにそれがあって、僕は動けずに、ただその落っこちてきた空を、見つめていたんだ」
目を閉じれば、光景がそこに広がる。
闇と静寂の支配する空間。
そこに訪れる星の光。
かさかさと風に揺れる葉の音。
清らかな水。
そして・・・。
「気づくと、いつのまにかひとりの女性が立っていた。彼女はにっこり笑っていて、それは夜に太陽が降りてきたような笑顔で、僕は見惚れたんだ。あっけにとられる僕に、彼女は両手で何かを差し出した」
「それが赤い実?」
アンドリューの言葉に、彼はゆっくりと頷いた。
「どうぞ召し上がれっていわれて、僕はそれを食べた。甘酸っぱい実だったよ。そしてその間中、彼女は僕をみていて、こんなところで何をしていたのと訊かれて、僕は答えた。泉に映る夜をみていたんだよって。すると彼女は、とても不思議そうな顔をして、それだけ、と聞いた。頷くと、ますます不思議そうな顔をして、本当にそれだけなのって、何度も、聞いてきた。それでそのうち、僕の方が不思議に思って、なぜそんなに聞くのって、逆に尋ねたんだ。そしたら・・・」
その台詞を思い出す。彼の胸に深く刻まれている、その言葉を。
「だって、おかしいんだものって。・・・そう彼女が言ったんだ」
マリウスが静かに言葉を繰り返す。
「おかしい・・・んですか」
ピーターは小さく笑った。
「彼女にとっては、そうだったんだろうな。本当に目を大きくして、心底不思議そうに、いうんだ。オレはますます驚いて、なにがおかしいのって、そう聞いたよ。そしたら彼女は、少し首を傾げるようにしていうんだ。なにがって、みているだけで満足できるあなたが、おかしいに決まってるじゃないってさ。すぐにわかる。手を伸ばせば、ここにはただ泉があるにすぎないってことが。いっそのこと、入ってみればいい。そうすれば、全身ずぶ濡れになって、映った夜は散って消えて、あなたは自分の間違いに気づくからって。でもそれはみているだけよりも、ずっと有意義な事だと思うわってね」
いいながら、そのときのことを思い出したのか、クスクス笑い出した。
「すごい女だな」
美女丸が尻上がりの口笛を吹く。
「だろ」
ニヤッと笑って、けれどもその目が優しさに満ちていた。
「聞きながらさ、ああ、そうかもって・・・・不思議に納得できたんだ。それで頷こうとしたら、もう彼女はそこにいなかった。僕はぼんやりとその実を食べ続けて、やがて食べ終わると、むしょうにその泉に入ってみたくなって」
「入ったのか?!」
ピーターは、笑って頷いた。
「泳ぎは得意だからね。あたたかい夜だったし、服を脱いで、夜中の泉に飛び込んだ。気持ち良かったよ。彼女の言うように、そこにあった夜は水飛沫にかき消えて、波紋が広がって星を揺らすのを、僕はその中央でみていたんだ」
次第に彼の言葉が熱を持つ。
気づけば皆が、引き込まれるように、彼の言葉に聴き入っていた。
「そのとき、思った。見ているだけじゃだめなんだって。どんなに考えても、思っても、迷っても、それは必要なことかもしれないけれど、それだけじゃ絶対足りないんだって。できるかできないか、そんなことは問題じゃない。やってみるか、それだけがまずは必要なんだって。あのまま見ていたらきっと、僕はその星を揺らすことはできなかっただろう。何もしなければ、何も動かせはしないって、そのとき強く感じた。そして、教えてくれた彼女に惹かれていた。どうしようもなく惹かれて、もう一生、忘れられないと思ったよ」
最後はため息のようでさえあった。
想いが強すぎて、声さえ焦がすかのように。
瞳には甘い光が浮かんで、同時に切なげな思いがあふれて、やるせないほほえみが彼を覆っていった。
けれども話は終わらない。彼はまだ、大事なことを話していない。
「それで・・・・僕はもう一度彼女に会いたくて、自然と森へ行く回数が増えた。何もかも投げ出してもいいくらい、彼女を求めていたんだ。自分でもわけがわからなかったよ。あの頃は本当に、自分で自分が信じられなかったな。彼女のことばかり考えている自分がね…」
浮かんだほほえみは、ほんの少しだけ自嘲的で、彼がそのときの自分を、まるで他人のように遠くに感じているのがわかった。
あの頃は、まだ自分という人間を誤解していた。
炎を隠して生きていたから。いや、自分でさえ、それに気づかずに、生きていた。
だからローズと約束したときも、それほど気にしていなかった。
あのまま彼女と生きるのもいいと、本気で思っていたのだ。
・・・もしあの出会いがなければ。
「彼女に恋をしたのね」
ルイがいうと、ピーターはわずかに目を細めた。
「コイ?」
「あら、この世界にはない言葉なの」
意外そうなルイのかわりに、NAOが説明をする。
「だれかを欲しいと強く感じる気持ちのことです。いつでもその人のことが頭にあって、その人のことを考えてしまって、その人のすべてが欲しいと思う・・・まるで奪うような、少し狂暴かもしれないその気持ちを、私たちの世界ではそう呼ぶんです」
いいながら、ドキンと胸が鳴った。
なぜかとても恥ずかしい。
彼の前でその台詞を言う事が。
美女丸がほほえむようにNAOをみる。
「ずいぶんと気持ちがこもってるな」
からかうような口調さえ、いまは恥ずかしさを増長させるものでしかなかった。
「い、一般論です」
美女丸はそれ以上は追及せずに、ふっと笑うと、その視線をピーターへと向けた。
NAOはほっと息をつく。心臓が・・・もたないわ・・・。
「それで、おまえは彼女に再会をしたわけだ。やっと最初につながったな」
ぼんやりとNAOの言葉を反芻していた彼は、美女丸の言葉を肯定するように、ゆっくりとうなずいた。
「そう・・・そしてあの夜、僕はようやく彼女に再会して、・・・彼女の名前を知ることができたんだ」
「エミリィね」
相槌を打ったルイに、けれどもピーターは静かに首を振った。
ルイは驚いた顔をする。
「だって、あなたさっき」
「確かに、みんな彼女をそう呼んでいたし、僕もそう呼んでいた。・・・でもそれは、本当の名前じゃないんだ。僕もずっと忘れていたけれど、全部思い出した。彼女の本当の名前も」
「それって一体…」
ピーターはしばらく黙っていたが、やがて大きく息をつくと、振り切るかのように首を振った。
「順番に話すよ。そうすればきっと・・・・その意味がわかると思うから。それでいい?」
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