の意外な使用法,やはり天下の潤滑油?

 そっと伸びる優しい腕がある。
 それは優しく優しく彼の頭を撫でて、その深い慈しみを湛えた瞳は、穏やかな視線を注いでいた。

「眠ったか?」

 美女丸の声に、小さく頷く。

「ったく、あまり驚かせるなよ」

 参ったといって首を振った美女丸に、ピーターは申し訳なさそうな顔をした。

「すまない」
「いや、おまえのせいじゃないけど」

 謝ってもらいたかったわけでもない美女丸は、苦笑混じりにつぶやくと、けれども、とその切れ長の瞳に考え深げな光を浮かべた。

「おまえ、マリウスを知っているのか?」

 いまここにいるのは、美女丸とピーター、そして断固残ると言い張ったアンドリュー、眠るマリウスの4名。
 他の者達は朝食の支度をするといって、部屋を出ていった。
 気を利かせたつもりである。
 ただ、ルイだけが、ふらりと外へと出て行くのを、美女丸は窓から偶然みていた。

「マリウスか、この少年が、あの」

 だいたいの事情をピーターは既にきいていた。彼を助けるために彼らがこの星へと来たことも。

「もちろん、初対面だよ。僕はいままで、彼にあったこともなければ、名前を知ったのもつい先日だ」
「そうか…」

 美女丸は腕を組む。アンドリューが、心配そうに振り返った。

「ねえ、美女丸さん。マリウス、大丈夫かな」

 さっきの彼は、明らかにそれまで聞いたこともないような声を出し、まるで夢遊病者のように危うくみえた。もしかすると彼は病気かもしれない。そんな不安がアンドリューの心を脅かす。
 そんな彼を安心させるように、美女丸はわずかにほほえんでみせた。

「平気だろ。こうみえて、あの明美と張り合えるくらいだ。なかなかどうして、見直したぜ」

 その言葉に、リューもちょっとだけ笑った。

「そうだね。うん、きっとそうだ…。ああ、早くシャルルが戻ってくればいいのに」

 ここにはいない甥のことを、思う。甥とはいっても、彼より年上の、彼よりよほど大人の彼。

「いない奴を頼るのはやめておけ」

 ほっと息をついて美女丸は、その視線をピーターへと向けた。

「で、おまえの意見は?さっきのことといい・・・オレにはおまえが、何かを隠しているように思えてならないんだが。ここへ来てまだ、オレ達が信用できないなんて言うなよ」

 わずかに細められた眼差しに、苛立ちが混ざるのを、ピーターはみていた。
 たしかに、そうかもしれない。すべてを明らかにして、隠し事はなしにして、そうしてしまうのがいちばんいいのかもしれない。
 けれども、彼女の声が、ピーターにその一歩を踏み出させないのだ。
 彼女が泣いたときのことを、彼は思い出していた。
 無意識に忘れていたのか、彼女の望みがそのまま封印となったのか、いまとなってはどうでもいいことで、ただその約束が、今度は彼を縛る鎖となった。
 あの声で。
 あの瞳で。
 望まれた願い。
 それを彼は破れない。
 ふと、脳裏をよぎる言葉があった。

『君も私を信用する必要などない』

 生命の揺らぎを感じさせない透明な声。
 静かな煌めきを秘めた青灰の瞳で、淡々と告げた彼。
 いまとなれば、あのときの彼の言葉はまるで予言とも思えた。
 ピーターは彼らを信用していないわけではない。
 けれどもいえないのなら、それは同じこと。
 そして同時に、そんなピーターを認める言葉とも取れた。
 すべてを明らかにする必要はないと。
 手を組めるところだけ組めばいいのだと。
 まるでそう示唆しているようにさえ、思える。

「美女丸、と呼んでいいかい」

 ピーターはできるだけ正直であろうと思って、そう声をかけた。
 呼ばれて、美女丸は少し驚いた顔をした。

「なんだ、突然」
「僕はあなた達を信用している。それは信じて欲しい。けれども彼女と約束したんだ。それをさっき思い出したけれど、僕はそれを言うことができない。なぜなら、僕にとって何より大事なのは、彼女との約束だから。たぶん、最初で最後の」

 なぜ泣いたのか。
 それは彼女のかなしみを思い出したからだった。
 自分と彼女との間にある、決定的な違い。
 それをあのときはじめて、彼女は自分に告げたのだった。
 美女丸は黙って聞いていたが、やがて苦笑まじりに答えた。

「その約束が彼女を救う手掛かりになっても、言えないわけか」

 無言で頷くピーター。

「そんなの、おかしいよっ」

 聞いていたアンドリューが信じられないといった声をあげたけれど、嗜めるような視線を美女丸に向けられた。

「でも…」
「仕方ないさ」

 ほっと息をついて、皮肉げな視線を向ける、ピーターへ。

「それにしてもはっきりいうな。信じて欲しいときたもんだ。そのあとにそんな台詞続けられちゃ、正直参るね。何も、いえん」

 もちろんピーターに何ら意図はなかった。
 不思議そうな顔をするピーターに、美女丸はもう一度ため息をついた。

「似てるのは姿形ばかりじゃないってことか」

 その真っ直ぐな心もまた。それが人を信用させてしまっている、既に。
 やっかいなことだ。
 内心でつぶやくと、けどな、と美女丸は続けた。

「そういう話はあまりしないほうがいいぜ。かえってややこしくなる。言う気がないのなら、余計な抜け道を残しておかない方がいい。その約束ってやつは、おまえの胸だけにしまっとけ。なぁに、見つけてみせるさ」

 力強くそう言いきった、彼の瞳は強い決意に満ちていた。
 だが彼は思い出すかのように、ふっとその声のトーンを落として、ピーターにきいた。

「さっきのあれは、なんだったんだ?」

 もちろん、マリウスとの一件を指している。ピーターは首を振るしかない。自分でも何が何だか全然わからないのだ。

「ただ・・・なんだかあの子が、自分の息子のように愛しくてたまらなくなったんだ。理由はわからないけれど・・・」
「息子って」

 アンドリューがビックリした声を出す。

「だってマリウスにはお母さんがいて、父親の話は聞いたことないけれど、まさかここまできて子供を産んでったなんてことないでしょう?ピーターの想い人って、実はマリウスのお母さんだったってオチ、いやだよ僕…」

 ポコッと軽く頭をたたかれた。

「おい。それは無理があるだろ。だいいちなんでマリウスの母親がこんなとこにいるんだ」

 アンドリューは恨めしそうに美女丸を見上げつつ、ありえないことじゃないですよぉ、と脅すような声を出した。

「相手は、あのシャルルだもの。今回の修学旅行なんて、最初からおかしなことばかりだったじゃない。もしかしてここは、シャルルの別荘地のひとつで、今回のはすべて余興なんてのでも、僕は驚かないな。実際僕ら、地球を飛び立つ瞬間をみたわけでもないし、すべて騙されているって思えば、それはそれで辻褄があったりしませんか」

 妙に説得力のあるアンドリューの意見に、ふむ、と美女丸は頷いた。

「一理あるな」

 わけがわからないといった顔をしていたピーターに、ジロっと視線を向ける。
 じぃぃぃぃっとその顔をみつめられ、ピーターは怒ったように言った。

「あまり人の顔をジロジロみるなよ」

 うっすらと、顔が赤くなる。そんな反応も、小さな頃からみている和矢にそっくりで、美女丸は疑わしそうな顔をする。

「おまえ、本当に和矢じゃないのか?」

 うんざりといった顔の、ピーター。

「だから、最初からずっとそうだっていってるよ」
「証拠は?」
「どうすれば満足なの」

 むっつりした顔でピーターが言う。
 だれでも自分の存在を否定されれば、そりゃあ怒りたくもなるというものだ。
 だが彼は、本当に自分と同じ和矢という人物に出逢っているだけに、疑われるのが仕方ないことだと納得してはいた。

「おまえが和矢じゃないってことがわかれば、さ」

 美女丸は少し離れて、ピーターを上から下まで眺めた。
 ほんと、和矢そのものだ。
 いったいどうして、これが別人と言うのか、たしかに信用する方が間違っているのかもしれない。
 いけ好かないフランス人の顔が脳裏に浮かぶ。
 あの男なら、表情一つ変えずに、ここにいる皆を騙すくらいはやってのけるであろう。
 ただ、もしそうなら、いったいなぜそんな必要があったのか、それは疑問であるが。

「口でならいくらでも嘘をつけるよな…」

 そのつぶやきに、さすがのピーターもむっとした。

「どういう意味だよ。僕が嘘ついているとでも言いたいのかい」

 険悪なムードが立ち込める。

「ちょっと、まってよ、ふたりとも落ち着いて―――」

 アンドリューが慌てて仲裁に入るが、ふたりの耳には届かないようだった。
 いままで我慢していたピーターだったが、嘘つき呼ばわりされたことに、不愉快さを抑えられなくなる。
 彼は優しくはあったが、それは向かってくる者に容赦をする、という意味においては違っていた。
 牙を向けられれば、やり返すくらいはする。卑屈と優しさは決して同義語にはなりえない。

「それを言うなら、君こそ、僕と友人との区別もつけられないんじゃないか。たいした友情だね」

 だがしかし、世の中には言っていいことと悪いことと言うのは、確かに存在した。
 ピーターの一言は、美女丸のプライドに深く突き刺さり、その痛みが彼から思慮を奪った。

「なんだと、きっさま―――」

 気づけば胸倉を掴み上げていた。こうなるともはや、どちらもあとには引けない。

「離せよ。図星をつかれて怒るなんて、認めていると同じだぜ」
「友情を侮辱されて黙っていられるかっ!」
「ちょっとやめてよふたりとも」
「おまえはどいてろ」
「そうだ。君には関係ない」

 ニヤリと美女丸が不敵に笑う。

「上等だ。外に出ろよ。決着つけようぜ」

 手を離しながらそういうと、負けずにピーターもニヤッと笑った。
 いつも穏やかな光をたたえている漆黒の瞳に、勝ち気な光が浮かび上がり、まっすぐに美女丸を射る。

「勿論。いつでも相手になるぜ。来いよ」

 親指で窓の外を指した。

「ちょっ、何考えてるの、こんなときに」
「馬鹿、こんなときだからだろ。こいつと和矢が別人だって、はっきりさせておかないことには、寝覚めが悪い」
「教えてやるよ」

 軽く笑ってピーターは、窓の縁を飛び越える。

「君の言う和矢というのがどんな人間かは知らないが、オレはピーターだ。おまえのからだに教えてやる」

 アンドリューはあきれ返る。

「美女丸さん。もう絶対、これは和矢さんじゃないと思いますよ。こんなに勝ち気で強引な人じゃないじゃないですか」

 美女丸は縁を越えながら、ふっと視線だけをアンドリューへと向けた。

「それはわからんな」

 目を丸くするアンドリューに、美女丸は皮肉げに笑うと、その視線をゆっくりとピーターに向けながらつぶやくようにいった。

「あいつは、ああみえてかなりの負けず嫌いだ。もし同じ立場にたてば、これくらいのこと、やってのけると思うぜ…」

 アンドリューは首を振る。
 彼の知る和矢は、とてもこんなむちゃな人間ではない。
 けれども幼馴染だという美女丸がいうのだから、そうなのだろうか。
 そうしてアンドリューが考えているうちに、すでにふたりはケンカを始めていた。
 もはや止めるタイミングを失ったアンドリューは、ただ部屋で、傍観するしかなかった。
 けれども、こういっては不謹慎かもしれないが、殴りあう様子は、どこか扇情的で、アンドリューは見惚れるほどだった。
 どちらも、同じくらい強い、そして殴りあいながらも、楽しんでいるようにみえる。
 次第にそれは、ケンカというよりは、コミュニケーションの一環にみえてきた。
 彼らはああして、お互いを知り合っているのかもしれない。
 きれいな頬に傷がつく。そこに血が滲んだが、そんなふたりはとても色っぽかった。
 そしてふたりは楽しそうに(?)殴り合いを続けていたが、やがて戻ってきたルイが、そんなふたりにあきれ返ると、どこからか樽を持ってきて、それをふたりにぶちまけた。
 それで、戦いの幕は下りた。

「ーー、おいっ、これ酒じゃないか!?」

 なんとそれは、かつて学園祭の劇でつかった酒樽の余りものだった。
 ペロッと舌を出しながら、美女丸がルイをにらむ。
 彼女はニッコリと凄味のある笑顔をみせながら、あらぁ、と語尾を伸ばしていった。

「それはもったいないことしたわぁ。でも、こんなところで状況も場もわきまえず、それこそ見境もなく激しいスポーツに身を投じているのを止めないとと思って、必死だったんだから、あたしが悪いんじゃないわよねぇ〜!?」

 そこにこめられた痛烈な皮肉に、美女丸はいやそうな顔をする。
 が、反論できるものはなにもなかった。
 惜しそうに唇を舐める。かなり上等の酒である。

「頭を冷やすのね、悪ガキども」

 冷ややかに言ってルイは、その樽をぽんと投げ捨てた。

「怪力…」
「何か言ったかしら」
「――悪かったよ」
「ま、可愛くない。反省が足りないようね。・・・そちらは?」

 ピーターに視線を向けると、彼はまだ何が起きたのかを把握してないようだった。
 が、その液体の甘美な味に、すっかりご機嫌のようだった。
 ずぶ濡れになった上着を脱ぐと、それを絞りながら、唇についた酒を舐める。
 満足げに一言。

「ん。上手い。いままで飲んだことのない味だ」

 ルイは呆れたといった顔をし、美女丸の方を向いて、思わず訊いてしまったのだった。

「ほんとに彼、和矢じゃないの?」

 彼がはじめてこの酒を飲んだときと、まったく同じ反応をしたピーターに、和矢疑惑は強まるばかりか!?







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