ピーターはひとり星をみていた。
先ほどひとりの少女にみつかりそうになって、あわてて逃げてきて、気づけば彼がこちら側へ来た最初の場所―湖―にいた。底なし沼に見紛うかのようなそこは、こちら側の世界とあちら側の世界への連絡路であった。
話を戻せば、美恵と和矢はここに落ちることで、あちら側の世界へ偶然足を踏み入れた。
その世界でみえる空とは、つまりこの湖を通した向こう側の、こちら側の世界の空。
この二重構造は、もちろん自然にできたものではない。
むかしはだれもが、上の世界で暮らしていた。
直接日の光を浴びて、もちろん下の世界が悪いというわけではないけれど。
「どうしたんだ」
みると、白金の美貌の持ち主が、自分を見ていた。
彼がこちらにきて初めて出会った、自分と良く似た人物の友。
シャルル・ドゥ・アルディと名乗った男性。
雰囲気が硬質で冷たくて、他者を寄せ付けない。
「何を考えていた?」
少し離れた場所で立ち止まり、彼は幹に背をもたせるように寄りかかった。
そうして冷ややかにみつめる、その瞳は彼を分析しようとするかのように冷たい光を湛え、ピーターは少し嫌な気分になった。
「そんな眼で僕をみるな、シャルル・ドゥ・アルディ」
「それは私の勝手だな。だいいちこうもカズヤに良く似たおまえを、そう簡単に信じろという方が無理だ」
「どういう意味だい、それは。まるでカズヤという男を信じていないというようだね」
すっと空気の冷たさが増した気がした。ゾクッとする、彼の瞳の冷たさに。
シャルルはただピーターに視線を向けただけだった。けれども強い怒りがそこに潜み、それは熱をもつよりは氷つかせた。ピーターは自分の失言に気づく。
「随分と威勢がいいようだな。が、口は災いの元だと覚えておくがいい」
静かな口調とは裏腹に、彼の言葉はピーターを突き刺した。シャルルはうっすらと笑う。
「説明する気はないから、どう取ろうとも君の勝手だよ、ピーター。だが忘れないでくれ」
シャルルはゆっくり身を起こすと、闇の中に立った。
「君の仲間になるつもりは最初からない。一緒に行動するとすれば、それは私自身の目的のためにということだ。私は君を信用していない。君の手助けをするつもりもない。私は私の望みを叶えることにしか興味がないんでね。よって君も私を信用する必要などない」
淡々といって、かすかに笑んだ。それは反論を許さない、ある種傲慢ともいえる笑みだった。
ピーターは信じられないといった顔でシャルルをみつめた。
彼はいままでこんな言葉をいわれたことがない。
「あなたは・・・僕に何が言いたいんですか」
その意図がわからなくてそう聞くと、シャルルはふっと眼を向けた。そこに浮かぶ、嘲るような光がピーターを射る。
「君には耳がないのか。私はこれ以上はないというくらい明確に告げたつもりだが?」
「そうじゃなくて!」
むっとしてピーターは言った。黒い瞳に浮かぶのは、明らかな苛立ち。
「その意味を知りたいといってるんです。信用してないとか、信用するなとか、では一緒に行動する意味などない。さっさとオレを放っておいていったらどうですか」
「君の考えは浅はかだな」
わざと神経を逆なでする言葉を選んでいるのか、それはわからなかったが、ピーターがますますむっとしたのはいうまでもなかった。
「ええ、そうですね。ですがあなたからみれば、どんな人間もそうみえるんじゃありませんか」
嫌味を込めてそういった。彼はこの男を好きになれないと感じた。どうもルイから聞いた彼の像とは異なってみえる。それとも単に自分が嫌いなのだろうか。
「浅はかという意味は、思慮深さに欠けるという意味だ」
つぶやくようにいってシャルルは、その眼を湖の中へとむけた。ピーターはてっきり嫌味を返されるとばかり思っていたため、そうはならなかったことが意外で、そして自分の大人げなさに気づいた。
彼はすぐに感情的になる。最近特に。以前は決してそうではなかったのに、彼女と出会ってから変わっていった。そしていまその彼女を失って、心は不安定になり、ますます自分が制御できない。それくらい失ったものは大きく、彼はその心の透き間を埋める術を知らなかった。
だからこそ、取り戻しに来た。自分の手で決着はつけなければならない。
例え何を捨てても、何を失ったとしても、そのひとつさえ取り戻せれば、彼にはそれで構わなかった。
だがだからといって、感情的であることは賢いことではなかった。
ピーターは反省を込めてシャルルをみた。
「すまない。バカなことを言った」
シャルルはその言葉に、ふっと振り返った。
そこでピーターは恥ずかしげな顔をしていて、自分の失言を後悔しているようだった。
シャルルは特に彼の言葉を気にしてはいない。そういう言われ方に慣れているからだ。
それくらいでいちいち傷ついていたのでは、とても生きてなどいけないだろう。
彼は自分の異質さをよく理解している。それよりは、彼の謝罪の方に興味を引かれた。
いままで自分になぜか彼は丁寧語で話していた。それが、無くなった、いい兆候か、それとも。
「その謝罪は、己の浅はかさを認めたと受け取っていいのかい」
少し柔らかくなる彼の眼差し、それには気づかず、ピーターは頷いた。
「あなたのいう通りだ。自覚はしていた。けれども・・・・気持ちばかりが焦って、ほとんど八つ当たりだった。本当にすまなかった」
もともと素直な性格の彼は、一度非を認めれば、意固地な主張を繰り返したりはしない。
シャルルは眼を眇める。なるほど、子供の心、か・・・。
目の前のことに捕われ、己の感情に執着し、世界がまるで自分中心に動いているかのような錯覚を抱く時代。
それはやがて終わりを迎える。その切っ掛けは様々であろうとも。
けれどもそれは本当の形の終わりではない。
あきらめを知ったとしても、それらは様々な変化を繰り返して残るものだ。
いまのピーターのように。
「もういい。気にしてはいない」
静かに言って、シャルルは再び視線を湖へとむけた。
ピーターの話では、あるとき目覚めると、まったく違った景色があって、そこが下の世界だったということだった。その曖昧さにシャルルはうんざりしたものだが、そうかといってここで情報は彼の自由にならず、新聞やインターネットがあるわけでもなく、彼の話をとにかく聞くしかない。そうして得られた情報は、要領を得ず、あいまいで、そこから結論を導き出すのはほとんど不可能だった。
なにしろ彼の話といえば「気づけば」とか「いつのまにか」とか、時間的情報をいっさい含まず、おまけに「たしか」や「かもしれない」という信憑性さえ危ういものである。そのうえ、客観的というよりはかなりの意味で主観的といえた。だがそれ自身は、シャルルの障害にはならなかった。なぜなら、シャルルはピーターという存在そのものを、ひとつの鍵とみていたからだ。よって彼の感じたことを聞くのはそれほど無駄なことではないと判断していた。
その無表情な外見とは裏腹に、シャルルは内部で激しいまでの思考に没頭していた。発作にならないのは、情報不足によることが大きい。まだ結論を得るための部品が集まっていないためだ。
だがそう長くこの星にいるつもりは彼にはなかった。なによりマリウスがいつまでもあの状態でいることはきわめて危険である。解決は早いに越したことはない。とすれば、必要なのは情報だ。
「あなたの大切な人は」
ふと心配そうな声が耳に届いた。
「大丈夫だったんですか」
みればピーターが自分をみていた。シャルルはかすかに笑う。
「突然オレの心配までしてくれるとは、どうしたんだ」
ピーターははにかむような笑みを浮かべた。
「ん。・・・改めて、大変なのは自分ばかりじゃないんだなって、思い出して」
「ルイに聞いたのか」
彼は頷いた。
「みんな誰でも、多かれ少なかれ、何かの不安と闘っている。僕ひとりで不幸がるのは、まさにあなたのいうように浅はかな行為でしかない。教えてくれて感謝します」
「彼は・・・大丈夫だよ。強い子だ」
ふっとシャルルの瞳が細まり、そこに優しさが滲んだ。そんな彼にピーターも笑みを零す。やはり自分は浅はかだと思えた。表面上の彼しか、判断できなかったのだから。彼が自分を見破ったのとは違う。その瞳は自分よりよほど多くの真実を映し出すのだろう。
「あなたのような人に愛される人は幸せですね」
気づくとそう口にしていた。シャルルは驚いたようにピーターをみる。彼は無邪気に言う。
「それだけできっと、自分に自信が持てる。あなたの瞳が自分を守ってくれると思えば、恐いものなどないように僕なんかには思えます」
その言葉に、シャルルは眼を伏せると、だといいけどね、とつぶやいた。
それはピーターには届かなかった。
けれどもやがて、シャルルは顔をあげた。
ひとつの仮定が生き物のように彼の中に浮かび上がり、瞬く間に成長を遂げたのだ。
そのきっかけは、ピーターの言葉、それがシャルルにインスピレーションを与える。
彼はいつもの物憂げさを捨て、鋭く言った。
「用事ができた。君はルイや他の皆と合流し、すべての事情を話して姫君の救出に向かえ」
そういった彼の瞳は強い輝きを宿し、けれども彼はピーターよりは何もない宙を見据えていた。その一点に、仮定が火花を散らし、彼の進むべき道を指し示す。彼にしか、みえない。
「え、おい。君は一体」
だがそのピーターの言葉は、最後までシャルルには届かなかった。
次の瞬間には、まるで吸い込まれるように、その湖の中へと姿を消したのだから。
ピーターはその展開のはやさについていけず、ただぼうぜんと、その湖の波紋をみつめていたのだった。
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