の夜の奥に

「あ。・・・リュー、眠ってる・・・」

 明美がささやくようにいって美女丸をみたのはついさっき。

「しょうがないな。連れ帰ろう」
 苦笑まじりにつぶやいて、美女丸はリューを腕に抱く。

「お姫様だっこだ」
「・・・男が男にされて嬉しいか」
「あたしは嬉しいなぁ」
 だって美女兄ってもてるんだよ、知らなかったでしょ。
 軽口をたたく明美だったが、声は抑えられていた。
 その脇を通り過ぎてマリウスへと近づくNAO。
 呼吸がさっきよりだいぶ安定していることに気づいた。

「良くなってきているみたいです。汗もかいてるみたいだし」
「着替えさせなくていい?」
「・・・・起こすの、かわいそうだな」

 結局美女丸の言葉にふたりは頷き、目を覚ましたら、ということになった。
 その間に美女丸はマリウスを部屋へと運び、明美は大きな欠伸をして部屋へと戻った。
 NAOは目が覚めていたので、ふらり、外へと出る。

「女の子ひとりじゃ危ない」

 いって美女丸がついてきたのは言うまでもない。
 外は満天の星空だった。
 地球で見るのとかわりない。
 いる場所が違うことなど、何の問題になろう?

「壮絶だな―――」

 ひとりごとのように美女丸がつぶやいた。
 NAOはただその闇に鏤められた宝石の美しさに、見惚れていた。
 人工の明かりは存在しない。
 そのなかでのみ真の輝きをみせる星々。
 偽物では駄目なのだ。つくりものでは本当の姿をみせはしない。
 あるいは、見る方が、気づけない。
 遠慮しているわけでもないのに、揺らぐ空気に惑わされるが如く、光はぼんやりと薄れていく。


「・・・・・臆病なのかしら」

 そのつぶやきは、美女丸には届かなかった。







 ルイはまだ夢の中にいるかのように、その木のところにいた。
 何もない。あるのは古くて太いこの樹木と、その上に無限に広がる宇宙だけ。
 彼女はわずかに震えていた。
 寒いからではなかった。
 かすかに音がした。
 それは足音で、振り返れば彼が、こちらへ歩いて来る。
 それは闇に白金を纏うひとりの男性だった。
 この世でただひとりしかいない、奇蹟のような存在。
 でもきっとそう呼ばれるのは嫌いだろうと、ルイは彼をみながら思った。
 やがて彼は彼女の前へと立った。
 わずかに首を傾げると、さらさらと白金の髪が肩へとこぼれた。
 さらさらと。まるでその音が聞こえるように。
 彼は景色に溶け込みはしなかった。
 まるで異物でもあるかのように闇夜に浮き立っている。
 その存在に圧倒された。
 同時に安心できた。
 なによりも信じられるものがそこにはある。

「月夜の散歩か」

 冷ややかな声は、眼差しの冷たさとよく似合う。
 繊細で透明な、拘泥を感じさせない彼の声。

「マリウス君は大丈夫だったの」

 そう尋ねるルイに、彼はかすかに頷いた。

「ただの疲労のようだ。薬を飲ませたから、朝には熱も下がるだろう」
「そう。よかったわ」

 いって、ほほえんだ。彼女は少し疲れてみえた。

「どうかしたのか」
「なにが?」
「いや。君の様子が少し変だと思ってね」

 ルイは驚いた。

「どうして?なんでわかるの?」

 彼は心外だといわんばかりに、眉をあげる。

「どうしてわからないんだ」
「だって別に・・・見た目に変化はないはずなのに」

 そういうと彼は軽く笑った。

「それは君の思い込みだ。自分で気づいてないだけさ」
「そう・・・・かな・・・」

 納得しかねるといった顔で、彼を見返す。
 彼は透明な眼差しをルイへと向ける。
 そこにあるものを、ありのままに切り取る瞳。
 ・・・そうだろうか?
 彼の瞳は、その心を媒体にして、より深くを、より底まで、感じ取れるのではないか。
 それは人が人にしかできない行動であり、人が他の生物とは違う、知的生命体である証ともいえた。

「実はね…」

 ルイはいましがた自分が体験したことを話した。
 あの桜吹雪の残像が、鮮やかに焼きついてしまっている。
 まるで狂気の中にひとり置き去りにされたような気がして、彼女はそこを動くことができなかったのだ。ここにいる自分が、一瞬夢なのか現実なのか区別がつかなくなって、恐かった。そして舞い散る桜の桃色が、苦しかった。
 彼は黙ってルイの話を聞いていたけれど、聞き終わると、その唇に皮肉げな微笑を浮かべた。

「なるほど。この木が突然女に姿を変え、花を咲かせたと、君はそう言うわけか」
「本当よ。あたしだって信じられないけれど、でも実際この目でみたわ」
「この目で?」

 彼はすっと瞳を近づける。彼女の瞳に移る彼の瞳。視線が交錯する。

「・・・・・信じてくれないのね」

 彼は静かに首を振った。白金の髪がわずかに揺れた。

「君が嘘をいっているとはいわない。だが実際にあったことか、それを確かめる術はない。ここに桜の花びら一枚でも落ちているなら、少しは現実味もあるが、残念ながら今のところその形跡は見当たらないしね」
「・・・・そう、ね」

 彼の言うことはもっともすぎて、ルイは頷くしかなかった。
 そんな彼女に彼はかすかに笑った。

「がっかりしたのか」
「まあ、ね。少し」

 正直な彼女に、彼はふっと笑うと、軽く腕を組みながら、言った。

「オレが信じるか信じないかと、君が嘘を言っているかいないかは、まったく別問題だ。君は自分を信じていればいい。それが間違いとは言わない。オレはオレの方法で答えにたどり着けるよう考えるだけだ」

 その言葉を聞いて、ルイは不思議に思う。

「答えって」

 彼は夜を立っていた。瞳はいつもより冴え、この世の真実がそこにつまっているように、彼女には思えた。
 いや、少し違う、それは真実を見極める瞳だ。
 そこに彼という媒体を通して、けれども彼は決してジャッジを下しはしない。
 彼はそれほど傲慢な人間ではなかった。

「この世界の、真実だ」

 そういった彼は、少し自嘲げだった。
 彼は裁きを与えるものではない。ただ、愛する人を救いたいと願う挑戦者。
 自分の持てるすべてを使って、この世界を見極め、最善の道を見つけたいと願う者だ。
 本当はだれも傷つけたくなどない。けれども必要なら容赦なくそれをしてのける人。

「綻びは、繕わなければならないのかしら・・・」

 明らかな異常現象、それはこの世界の崩壊を意味するのか。それとも

「変化には常に痛みを伴うものだ」

 いって彼は、静かにほほえんだ。その瞳のなかに一筋の哀しみが通り過ぎた。

「けれどもそれを恐れれば先へは進めない」
「でも、歩を止めたいと望む人もいるわ。早すぎる変化に着いていけないこともよ」
「だからそういう人たちは、何かに縛られているんだよ」

 皮肉げにいって、視線を外す。そのまま振り仰ぐように、空をみた。
 白金が闇に散り、まるで光が弾けたような錯覚を、ルイはおぼえた。

「まるで身に覚えがあるみたいな言い方ね」

 背中にぶつける声。彼は彼女の方をみないまま答える。

「受け取るか否かは問題じゃない。大事なのは、変化が訪れる、ということだ」
「必ず?どんなことにも?」
「そう。時間軸が消えない限りはね。けれどもそれが消えれば、時は止まる。何も動かず、生まれず、そして滅びない。それはもう宇宙とはいえない。ただの穴だ」
「・・・・ううん、違うわ」

 ルイは大きくかぶりを被った。

「変わらないものだってあるでしょ。人の気持ちとか、愛情とか、そういうのはずっと変わらないわ」

 その言葉に、彼はゆっくりと振り返る。

「それさえ、変わるよ」

 瞳に切なげな光が浮かび、その上に浮かんだほほえみは、ただただ淡かった。

「愛情さえ時間と共に姿を変える。言葉にすらならない想いがあると、君は思わない?」

 ふわっと風が舞った。そのなまぬるい風は、彼の髪を弄んだ。
 無造作に髪をかきあげれば、端整な美貌が露わになる。
 夜というフィルタさえ、彼は簡単に通り抜ける。

「ええ・・・・そうね、わかったわ」

 ルイはしっとりとほほえんだ。彼の言葉の意味に気づいて。
 勝手な早とちりをした自分に苦笑する。

「あなたの言う通りね。好きという気持ちさえ、フラクタルのように様々な形を描くわ」
「フラクタル、か・・・・・意味深だね」

 ふっと笑った、その向こうに夜がみえた。






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