和矢もといピーターの妻としての最初の一日は、滞りなく過ぎようとしていた。
多少のトラブルは、いや、かなりの事件が起こりはしたものの、それはさほど問題ではない。
大切なのは、ここにピーターがいないと気づかせないことなのだ。
そういう意味ではまったく上手くいったといえた。
「・・・で、なんであたしがあなたと一緒に寝ることになるかな・・」
ふとんを敷きながら、美恵はティナをみた。
彼女はお風呂上りで、濡れた髪が胸にこぼれおち、美少女に色っぽさまで加わって磨きがかかっていたが、もちろんのこと性格が変わろうはずもなかった。
それはこっちの台詞といわんばかりにジロッと美恵をみた。
「さあね。けれども案外、お兄様に迷惑がられてるんじゃないの、奥様」
「なっ、そんなことあるわけないじゃない」
ティナは枕を整えながら、ひとりごとのように続けた。
「そうかしら・・・。だっていままでこんなことなかったのに・・・お兄様があたしを追い出すなんて」
「あなたが来たから、ピーターは照れたんだわ」
「ご冗談を」
冷ややかに言い放ち、彼女は立ち上がる。
「お兄様はね、あなたと一緒に寝るのがいやだったから、あたしが来たのを口実に追い出したんだわ。そうに決まってる。でなければ、お兄様があたしを追い出したりしないもの」
美恵は言葉に詰まった。たしかに一緒に寝るのを彼はいやがっていた。まあ無理もないと言えなくもないが。でも夫婦がバラバラに寝るのはあまりに不自然だからということで、なんとか妥協してもらったのだ。それなのに、そこにティナが入ってきたものだから、彼の我慢も限度だった。
珍しく大声を出して、ふたりを追い出したのである。
それでこうして、一緒の部屋に寝る羽目になった。
美恵は不満だ。おいだすなら、ティナだけにして欲しい。
ぽんぽんと枕をたたくと、その音に釣られたのか、ポポとモモがやってきた。
枕をトランポリンみたくして遊んでいる。
けれどもふたりは軽く、落下するのに時間がかかって、ほとんど宙に浮いていた。
キルトの話では、もともと宙に浮ける生き物らしい。
「あんたたちは気楽でいいわねぇ・・・」
思わず漏らした美恵の言葉を、ティナは聞き漏らさなかった。
あら、とイヤミな笑顔を向けてくる。
「あなたもずいぶん気楽そうに見えるけれど、お・ね・え・さ・ま」
最後の単語を区切って発音したところに、それが明らかな皮肉であるのがわかった。
美恵はうんざりする。
「別にいいけどさぁ。もう少し仲良くなれないものかしら、あたし達」
ティナはじぃっと美恵をみていたが、やがて軽く笑うと
「そうね、ローズさんの挑戦に見事打ち勝ったなら、あたしも認めないことはないわ」
そういって、明日の下ごしらえがあるから、と部屋を出て行った。
「え?まだ寝ないの?」
驚く美恵に、遠ざかる足音と彼女の皮肉げな声。
「だからあなたは気楽だっていうのよ、おねえさま」
返す言葉もない美恵だった。
ティナがいなくなると、その部屋は美恵一人だった。
そこはティナの部屋だ。特に何もない。必要最低限の家具と、女の子らしく大きな鏡と、せいぜいその程度。けれどもマメに掃除がなされているらしく、チリ一つなくすっきり整えられていて、彼女がマメな性格であることがわかった。
天井の一部が傾いて、天窓がはめられていた。
そこに大きな月が見えた。
いや、それは地球からみえる月とは違うものなのだろう。
けれども姿形が良く似ていた。その大きさと色の違いを覗けば、の話であるが。
それは薄い桃色だった。
ほとんど白に近い、けれども目を凝らせばわずかにうっすらと色味がかっているのに気づく。
美恵はその色が気に入った。
やわらかい色。月は金色が時々まぶしくて圧倒的に思えたりもするけれど、この世界の月は、もっとずっとやわらかで謙虚だった。そして曖昧。靄がかかっているのか、その輪郭がよくわからない。
彼女はしばし見惚れていたが、やがて窓越しではなく、じかにみたいと思い、上着を羽織ると、そっと部屋を抜け出した。もうひとつの窓から・・・。
お行儀が悪いかしら、と思いつつ、寝巻きの裾を捲り上げて、窓の縁をまたぐ。
幸運にもすぐ下に地面があり、美恵は無事外へとでることができた。
思ったよりあたたかかった。
「あれ、美恵ちゃん?」
そのとき、予想外の場所から声が降ってきた。
あわてて上をみる。屋根の上に和矢がいた。
「何してるの?」
美恵が聞くと、和矢は答えようとしたが、ふっと口を閉ざすと、かわりにニヤッと笑っていった。
「君こそ、泥棒の練習でもしてたのか、窓からご登場とは」
「み、見てたのね。悪趣味だわ!!」
「不可抗力だよ。突然足が出てきたから、何事かと思った」
そういってクスクス笑う和矢に、美恵は顔を真っ赤にする。
よりにもよってなんて現場を・・・。ああ、穴があったら入りたい。
「あ、そこ少し低くなってるから、気をつけ」
「きゃあっ!!!」
ドンと軽い音が響いた。あちゃーと和矢は額に手をあて、よっと地面に飛び降りる。
予想通りというか、美恵がくぼみに足を引っ掛けて転んでいた。
「遅かったみたいだね・・・ほら、大丈夫?」
苦笑しつつ、和矢は手を差し伸べる。
美恵は恥ずかしさのあまり、和矢の顔を凝視できなかった。
やん。なんでこんなんばっかり!
主催者、恨むわ!
と、心で憤慨する美恵の気持ちを知る由もなく、和矢はつぶやくようにいった。
「ごめんな・・・」
美恵は彼に引き起こされながら、その言葉を聞いた。
本当に申し訳なさそうな和矢の表情。
「なにが?」
「転ばせちゃって」
「はいい?」
美恵はビックリした。
「何言ってんの?あたしが勝手に転んだんだよ?」
自慢できたことではないが、いまはそんなことを気にしている場合ではない。
「なんで和矢が謝るの。おかしいよ」
一気にまくしたてる美恵に、和矢は首を振った。ほっと息をついて、空を見上げる。
「オレはさ、君を守るために来たんだろ。君自身が選んでくれたんだ。
なのに思えば、君に苦労しょいこませてる気がしてさ、せめて支えなきゃって思うのに、いまみたいに転ばせたりしちまう。そんな自分に呆れてたとこ」
参ったといったように首を振って、和矢はゆっくり振り向いた。
桃色の光がふわっと彼を包み込む。
それは彼自身から零れる優しさとあいまって、そこに本当に優しい空間が生まれるのを美恵はみていた。
「ごめんな。ちゃんと守ってやれなくて。オレ、君のナイト失格だな」
そういって彼は少しさびしげに笑った。美恵は慌てて首を振る。
「そんなことないよ」
彼にこんな顔をさせるために来たのではない。それじゃあまったく逆になってしまう。
「あたし、全然苦労なんてしてないよ」
和矢は首を振った。
「いいよ。無理しなくて。わかるから。ピーターはよほど皆に好かれてたんだな。そんな彼が突然新しい人を連れ帰ってくれば、他の人たちの反応も、ティナの反応だって頷ける。突然最愛の兄が、奥さん連れて来たんだもんな。嫉妬くらい、するさ。そう言うの全部考えれば納得もできるけど、でも君から見て、この場所は少しも君に優しくない。それくらいわかるよ。オレより君の方が何倍も大変だってことがね。できることなら、変わってやりたいくらいだ」
それで一瞬美恵は、自分がピーターになって、その妻和矢を考え、噴き出してしまった。
予想外の反応に、和矢は驚いた。
美恵は声たてて笑いながらいった。
「やーだ。和矢ってば心配性なんだから。いったじゃん、苦労なんて、してないって」
さっきと変わらない言葉で、美恵は言う。和矢はその明るさに、戸惑うような視線を美恵へと向けた。
そんな和矢に、美恵は安心してもらいたくて、ニコッと笑った。
「それはね、あたしだってティナの気持ちわかるよ。だから平気。それに何より、そうやって心配してくれる人がいるんだもん。ぜんぜん辛くなんてない。優しくないなんてないよ。だってそんなに和矢が優しいんだもん。ちょうどいいよ」
「美恵・・・」
「あたし、嬉しかったよ。昼間だってかばってくれたでしょ。ちゃんと守られてるって、わかったよ」
「本当に平気か?この状況がもうしばらく続くんだぜ。そう長くはないと思うけど、短い保証もない。それでもこのまま続けられる?いやならやめてもいいんだ」
美恵はビックリした。
「やめるって・・・・・本気で言ってるの?!」
和矢は静かに、頷いた。
「うそっ。駄目だよ。だって約束したのに。それにこっちから言い出したことだよ」
「わかってるよ」
何も言うなとでもいうように、和矢は強い口調で言う。
それはまるで自分に言い聞かせているようでもあった。
「約束破るなんてサイテーだって思ってる。けどオレが勝手にした約束のせいで、君にひどい思いをさせるのはいやだ。それくらいなら、サイテーでもいい。君がいやなら、すぐにでも美女丸ん達のところへ戻ろう。オレのことは考えないで、君の素直な気持ちを教えて欲しい」
そういって、美恵をみた。その眼差しは闇夜を切り裂くほど真摯でまっすぐだった。
なんだか泣きたくなった。彼が自分をそんなふうに大切にしてくれるのが、嬉しかった。
彼の優しさは時々痛いほどだ。美恵はそんな彼を愛しく思い、少しでも傍にいたいと思って、口を開いた。
「ここにいるわ」
和矢は気づかない。彼女の小さなわがままに。もう少しだけ彼とふたりの時間を紡ぎたい。そして彼の姿をみていたい。ふだん、学園ではみれない素に近い彼の姿を、ここにいれば、それができる気がする。
「本当にいいのか?帰るなら、早い方がいいよ。せめて多くの人を騙す前に」
「決めたの。ううん、もうとっくに決めていたんだよ」
あなたが何を選択して、何を守ろうとするのか、何を大切に思うのか、それを知りたいとずっと思ってきた。いまそれが少しでも叶うなら、妹に嫉妬されるくらい問題にはならない。それに思っていたより、いろいろな人が親切だ。カルアもキルトも、なんだかんだと彼女の力になってくれる。
ティナだって、結局は彼女を部屋へと泊めてくれた。根は決して、悪い人じゃない。
「和矢がピーターと契約を交わした時から、あたし決めてたの。この結末を見届けたいって。途中で逃げ出すのはいやだよ」
和矢は黙ってそんな彼女の言葉を聞いていたが、彼女が本気でそう思っているのを知ると、ふっと表情を和らげて、小さな声で、いった。
「感謝」
美恵は嬉しそうに笑って、大きく頷いた。
「任せてよ。楽しもう、せっかくだもん」
和矢はまぶしそうにほほえんだ。
「そうだな。そして一緒に見届けよう」
いってから、けどなぁ、と思い出して苦笑した。
「あのローズって女、響谷に恐いくらいそっくりだな。表情なんか瓜二つだ」
ああ、と美恵も息をつく。
「勝負しかけられたんだっけあたし。何させられるんだろう・・・」
「ちょっと予想がつかないな。かなり本気だったみたいだし」
そういって目を細めた和矢だったが、ふと、自分に向けたローズの表情を思い出して、つぶやいた。
「けど・・・・なんか悪いことしたな・・・・・・」
その言葉に、美恵は驚く。
「なに、言ってるの?」
「ん。・・・・彼女が本気でピーターを好きなのは、わかったんだ。けど拒絶はオレがすべきじゃないだろ。彼が彼女をどう思ってたかなんて、本当のところは本人以外知らないわけだしさ」
「でも彼はたったひとりに夢中だったよ?振られるのは同じことじゃん」
「かもしれないけど」
いって和矢は、ローズの瞳を思い出す。強気の裏に隠された不安、不器用な告白、支配者としての傲慢さ、彼女は一生懸命生きていた。それに対する態度としては、あまりにこちらが不誠実だ。
「状況は変わるよ。それにやっぱり、彼女を振るにしてもさ、その権利はピーター本人以外持ってるはずがないんだ」
わずかに肩を落とす和矢をみて、美恵は妙な心配に取り付かれた。
たしかにローズはきれいだった。それにあの激しさは、男心をくすぐるのかもしれない。
そう思うと、相手が薫似であることも手伝ってか、まるで彼が彼女を庇っているように思えて、美恵としては複雑な気持ちだった。
彼の優しさに限度はない。
美恵は黙ったまま、すっと窓に近づく。
「美恵?」
「あたし、もう寝る。おやすみなさい」
そしてあっけにとられる和矢を尻目に、さっきあれほど恥ずかしいと思ったはずの行動、つまり窓の縁に足をかけて部屋の中へと入ると、窓を閉め、ついでにカーテンまでしめた。
そして何も考えたくなくなって、上着を脱ぎ捨てると、そのまま布団にもぐりこんで、やがて疲れもあってか彼女は眠ってしまった。
こうして和矢もといピーターの妻としての一日は、幕を閉じようとしてた。
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