の空気は少し優しく仄かに甘く

 そこは暗い部屋の中。
 非常用の小さな明かりだけがこぼれている。
 美恵はふかふかのベッドの中で、自分の心臓の音を聞いていた。

 ドクドクドクドクドク―――――――――。

 壊れそうに早く鳴っている。
 それも状況を考えれば、仕方ないといえるかもしれない。
 なにしろ彼女はひとりではないのだ。

「ね、ねぇ・・・・起きてる、和矢」

 すると下のほうから、苦笑混じりの声が届いた。
 わずかに寝返りの音がする。

「こんな状況で眠れるわけがないよ」
「寒い?変わろうか?」
「そういう意味じゃなくってさ・・・・ああそれに、和矢、はまずい。
こんなことまでしてバレたらシャレにならないぜ。お互い気をつけないと」
「・・・っていうか、あたしがだよね。和矢が自分を呼び間違えたりするわけないし」
「美恵ちゃん」
「あ」

 美恵は慌てて口を抑えた。

「ごめん、ピーター」

 言い直して、けれども心臓のドキドキは一向におさまらない。
 いくら名前を変えたところで、ここにいるのがアルディ学園生徒会長であることに変わりはない。
 この状況で平然としている方がどうかしている。
 でも・・・。
 美恵はふと疑問に思った。
 こんなこと思ってるのはあたしだけかしら。
 それを聞いてみたい気がしたがさすがにためらわれた。
 彼女は布団を頭まで被ると、さっさと眠ってしまおうと目を閉じる。
 じゃなければ、そのうち心臓が爆発してしまいそうだった。

「お、おやすみ!」

 和矢は下でほっと息をついた。

「おやすみ」

 彼は床に毛布を敷いて、薄地のふとんを着ていた。天井をみながら、いま自分達のおかれている状況の理不尽さというものについて考える。
 とはいうものの、そもそも申し出たのは和矢の方であったし、この状況は付属品とでもいうべきものなのだから、受け入れざるを得ない。
 さすがに寝つきのいい美恵も、居心地が悪いらしく、おやすみといってからも、一向に寝息は聞こえてこなかった。いっそ眠ってくれればこっちも気が楽なのに・・・。
 と、やはり和矢は理不尽なことを考えていた。
 だが、この状況は始まりにすぎなかった。
 日が昇り朝になれば、ふたりは夫婦を演じきらなければならない。
 だからこそこうして一緒の部屋に寝て、信憑性を出しているわけであるし、お互いの緊張を解こうとしているのだが、その成果はといえばかなり疑わしい限りだ・・・。
 一向に結論の出ないこの考えに、和矢は次第に考えるのが面倒になってきた。
 基本的にそれまで、何かを考えるのは相棒の役割であって、彼はどちらかといえば実行派タイプ。もともと頭よりからだを動かす方が好きなのだ。
 和矢は、しばらく会っていない相棒のことを思い出す。思えばいままで、こういった場合に一緒にいたのは常にシャルルであった。そして彼は完全にわが道を行くタイプであったが、気づけば状況は改善され、最終的には解決されているのだ。改めて相棒のすごさを思い知らされる。
 きっとあいつなら、こんな状況に戸惑ったりはしないんだろうな・・・。
 和矢はゴロンと寝返りを打ちながら、そんなことを思った。
 自分を含め、多くのことを理性的かつ無駄なく処理してしまうシャルル。夫婦を演じることなどたやすいに違いない。それどころか完璧に演じきるだろう。いや、その前に、そういう状況にすらならないだろう。もっと知的に、悪く言えば感情論を挟まずに解決してしまうのかもしれない。
 けれどもそれはシャルルのやり方だ。和矢にはできない方法。それは仕方のないことだったし、昔からそんなことは考えたこともなかった。シャルルはシャルル、自分は自分、だ。
 とりとめのないことを考えているうちに、和矢は夢の世界へと誘われていた。
 そこでは和矢もシャルルもまだ幼く、和矢の母親も生きている時代、ふたりは暗い夜を洞窟で過ごしている。過去の記憶と現在の気持ちがミルクとコーヒーのように混ざり合い、その中で和矢は久しぶりに昔に戻ったかのような開放感を感じていた。心が自由だった。まだなにも知らず、なんのかなしみも知らずにただ遊んでいればよかったあの頃。それを幸せと呼ぶには少し安易だったが、それでももう二度と戻れない時間は甘い毒のように彼の意識をゆっくりと奪っていった。
 彼は夢をみる。だから、ベッドに寝ていた美恵が、ゆっくりと身を起こして自分の寝顔をみつめていたことになど、気づくはずもなかった。
 美恵は少し複雑な気持ちだった。
 女のあたしより先に寝るか〜!?
 かなり複雑であったが、あまりにそのときの和矢の寝顔が穏やかだったため、怒りはすぐに溶けて消えた。もちろん起こすことなどもしなかった。ただ愛しいその人の顔をみつめていた。それだけで彼女は幸せな気持ちになれた。
 けれどもその隣で眠りたいという気持ちを抑えることはできなかった。
 美恵は一瞬だけ迷う。
 けれども結論はすぐに出て、彼女はそっとベッドから出ると、布団を持って、彼の隣に寝転んだ。
 毛布をぎゅっと掴んで、目を閉じる。
 隣から規則正しい寝息が聞こえてきて、それが美恵を安心させた。
 ふわっと彼女を眠気が襲う。

 このまま眠っちゃったら、和矢に怒られるかしら。
 でもそれでもいいや。
 そしたらこういえばいいもの。
 先に眠ったあなたが悪いんだって。

 そうして美恵は和矢の呼吸を子守り歌にして眠りについた。


 あなたの過去はシャルルにあげてもいい
 だから現在のあなたはあたしにちょうだいね


 彼女は夢もみないでぐっすりと眠った。


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