――あっ・・・・
そう思ったとき、すでに彼女のからだは傾いていて、自分のからだを支えることができなかった。
落ちる!!
その考えは間違いではなかったけれど、誤算があった。
抱きしめられる。
強い力で。
でもそんなわけにはいかなかったから、叫んだ、心から。
――駄目っ、手を離して!
けれども力は強くなるばかり、彼女を守ろうとするかのように。
「バカヤロウ」
その言葉がとても彼らしくて、彼女はかすかに笑ったかもしれない。
泣き笑いみたいな表情で。
でもすぐに落下の速度に耐えられなくて彼女は意識を手放した。
なぜ水の中で落下しているのか、そこまで考える余裕はなかった。
彼女は夢をみていた。
何度も何度も繰り返し同じ場面が流れる。
彼女は足を滑らせる。
彼は彼女に走り寄る。
まるで映画のようにそのシーンはリフレインされて、その度に彼女は悲鳴にも似た叫びをあげる。
来ちゃダメ!!
あなたまで落っこちちゃうよ。
けれども彼は首を振るばかりで、あの黒い瞳をやさしく細めていうのだ。
大丈夫だよ。
心配しないで。
彼女が何度叫んでも彼の表情は少しも変化なくて、それどころかますますやさしさを増していく。
彼女は苦しくなる。
水の中の苦しさではなくて、けれども苦しくて苦しくて、ゴホゴホとむせる。
喉に何かが入り込んで苦しい。
ごっほごほごほごほごほ・・・・・・。
たまらず目を開けた。
「―――だいじょうぶ?」
最初に視界に入ったのは、夢とまったく同じ顔だった。
それで彼女はとりあえずほっとして、少しだけほほえむことができた。
「良かった・・・」
けれどもその言葉に、相手はひどく驚いているようだった。
「頭を打ったのかい?」
「ううん。平気だよ」
「だったらいいが。だいぶ水を飲んでいたようだから心配した」
「やだ。なにかしこまってんの」
おかしそうに笑って、彼女は彼を見上げる。
そんな彼女を彼は不思議そうにみた。
「君は僕を知っているのか?」
「知らないわけないじゃん。こんな時に冗談はよしてよ、和矢」
そういうと彼はとても奇妙な顔をした。
それで彼女もさすがに不安になる。
「和矢?どうしたの?あたしのこと分かるよね?」
彼はまじまじと彼女をみていたが、やがてほっと息をつくと、苦笑していった。
「どうやら君は僕を誰かと勘違いしているようだね」
「そんなわけない!」
叫んで、彼女は身を起こす。
そのときまで彼女は砂浜に寝かせられていた。
波の音が耳に届くのに、そのとき彼女は初めて気づくことができた。
「ねえ。どうしちゃったのよ、和矢。あなたはアルディ学園の生徒会長よ。それも忘れちゃったの!?」
「・・・少し休んだ方がいい。君はまだ記憶を混乱しているんだ」
「違うよ!そんなことない。それは和矢の方だよ!あたしは正常だよ」
彼はまるでその言葉をいうのが辛いかのように少しかなしそうに目を伏せたけれど、やがてゆっくりと顔をあげ、まっすぐに彼女をみつめていった。
「僕の名はピーター・クルゥス。残念だけど君とは初対面だよ。用事があって西の森を抜けようとしたとき、すごい水音がして行ってみると、君がこの浜辺に打ち上げられていたんだ。それで溺れたんだと思って、水を飲ませていたら君が目を覚ましたというわけ。これで納得がいったかい、お嬢さん」
「・・・・美恵、よ」
「ミエ、か。いままで聞いた事のない、不思議な響きだ」
そういって彼はほほえんだ。
強いクセのある前髪が額に零れ落ちている。そこからのぞく黒い瞳はやさしさをたたえ彼女をみつめている。どれもこれも彼女の知っている生徒会長と同じ。なのに彼は別人という。
美恵は混乱した。
「えっと・・・ピーターさん・・・」
「ピーターでいいよ」
「うん。・・ピーター・・・その・・・・あなたは本当に和矢じゃないの?」
彼は困ったような顔をした。
「違うと何度言えば信じてもらえるのかな」
「だって本当にそっくりなのよ。姿形ばかりでなく、声まで、彼とそっくり」
「それについてはわからないけど・・・僕はたしかに君とは初対面なんだよ、ミエ」
「本当に?昨日のことを覚えている?どこかあやふやな記憶はない?」
容赦のない問いに、彼は苦笑すると、首を振った。
「残念だけど・・・」
「・・・そっか・・」
明らかに肩を落とした彼女に、彼は申し訳なさそうな顔をする。そんな彼がおかしくて、彼女は小さく笑った。
「どうしてそんな顔するの。あなたは別に何も悪くないよ」
いってから、大事なことを思い出す。美恵は丁寧に頭をさげた。
「どうもありがとう」
彼は再び首を振った。
「礼なんていらない。人が倒れていたら助けるのは当然だ」
「ううん。でも当然のことでも、してもらえばお礼はいわないと」
そういうと彼は驚いたように彼女を見て、そしてクスッと笑った。
それは彼がはじめてみせた明るい表情だった。
「不思議な人だな。名前といい、君はどこの出身だい」
「どこって・・・地球から来たんだけど」
「チキュウ?聞いたことのない地名だな」
その頃になって、ようやく彼女は、相手がはじめて会うこの星の住人であることに気づいた。
最初は和矢だとばかり思っていたせいで気づかなかったが、良く考えれば、地球以外に生命体がいたということだ。しかもそれは言葉を話す知的生命体で、なぜか日本語が通じてしまっている・・・。
冷や汗を浮かべる美恵には気づかず、彼は興味深そうに尋ねてきた。
「場所はどこ?南の森かい?それとも東の森かな」
彼女は正直に答えた。
「もっと遠くよ」
「じゃあ北の森のはずれ?」
「いいえ。もっともっとずぅーーーーーっと遠くなの」
彼は疑わしそうに美恵をみる。
「ここにはそれ以上遠い場所なんて存在しないよ。僕がこの目で確かめてるんだから」
「ここじゃない場所から来たのよ」
そういうと彼は、不信感を露にした。
ひそめられた眉の下の瞳に、それまでなかった緊張が浮かぶ。
「ミエ・・・君は魔女の仲間か?」
いわれて、美恵はビックリした。
よりにもよって、魔女とは!
「ひどいよ!そんなふうにみえるの?」
恨めしそうにそういっても、その疑惑を拭えていないのは明らかだった。
「ならば嘘はよせ。この世界に僕の知らない場所はない。君がどこからきたかいえない以上、信用できない」
「まー、なんて傲慢な人なの」
その言葉にあきれ返り、美恵はいう。
「自分がすべてを知ってるだなんて、なんで言えるのよ。この広い宇宙に、あなたの知らない場所なんて星の数ほどあるのよ。あたしはその無数の星のなかのひとつから来たの」
「そういって不安を抱かせるのが魔女の手口か。僕はそんな手にはのらないぞ」
「だから魔女じゃないっていってるでしょう!」
「いいや。もう疑い様もない。そんなにおかしなことばかり口にするのが何よりもの証拠だ」
彼は少しも美恵の言葉を信じようともせずに、敵をみるような鋭い目つきで彼女をにらんだ。
見た目は和矢そっくりのその男性、けれども話しているうちにそれは外見だけなのだとわかった。全然似ていない。もっとずっとせっかちで、人の話を聞こうともしない。
「あなたなんて全然、和矢になんて似てないわ」
むっとしてそういえば、彼はニヤッと笑いを返した。
「それも手口のひとつか。なるほどな。そうやって僕に近づいて、今度は何を奪うつもりだ、魔女よ」
「だーかーらー!!」
地団太を踏みたくなる美恵に、けれども彼はより苛立っていたらしく、黒い瞳に刃のような冷たい光を浮かべると、吐き捨てるようにいった。
「おまえらは僕の心臓をもいでいったんだ!これ以上、何も奪えるものか」
ギラッと瞳を底から光らせて、彼は美恵をにらみつける。
彼女はビクッとした。その目が恐くて、彼の瞳に宿る憎しみが彼女を震わせた。それくらい、彼の瞳は暗く彼女をとらえていた。
「僕を連れて行け」
「ちょっ・・・だから誤解だって・・・」
「いい加減正体をあらわしたらどうだ」
「だから・・・違うって・・・」
「すべて奪っていけばいいさ。なんでもやるぜ。僕の命が欲しければそれもやる。けれども・・・」
そういって彼は、ぎゅっと目をつむった。
「・・・あの人は・・・あの人だけは返して欲しいっ!」
最後の叫びは、魂の叫びだった。
美恵は一瞬、恐いのも忘れ、彼に見惚れた。
そのとき彼女は気づいた。
憎しみの裏に行き場のない哀しみが溢れていることに。
彼の言葉のすべてが、あるひとつの感情から来ていることに。
そしてそれが、彼の瞳から伝う、一筋の流れであることに。
美恵は何と言っていいのか分からず、ただ黙って、彼を見ていた。
和矢とまったく同じ姿形を持ち、その内に全然違う魂を宿した人。
なのに、やはり似ているのかもしれないと彼女は思った。
そのとき、砂の沈む音がした。
さくさくさくさく――――。
はっとして振り返って、彼女はそこにみつける。
いちばん会いたかった人を。
「・・・・和、矢」
彼は名前を呼ばれ、ふっと顔をあげると、ゆっくりと砂浜に歩いてきた。
「良かった。気がついたのか。意識がなかったら、飲み水を探しに行ったんだけどみつからなくて」
そういいながら和矢は、何気なく彼女の横にいた人物に目をやり、
次の瞬間、動きが止まった。
「え・・・・」
その声に、美恵の隣で彼も振り返り、やはり動きが止まる。
立ち尽くす。お互いに。
見詰め合う。鏡を見るかのように。
息詰まる緊張の中、先に口を開いたのは和矢だった。
「だれ?」
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