濡れた糸が落ちていた。
四重にも重ねられ、先に石のつけられた糸。
それを拾う手があった。
そしてすぐ目の前には、底の見えない沼があった。
みえないのは濁っているからではない。
それは今は、湖といってもいいくらい透明度を増していて、ちょうど真上にこの惑星の太陽が、何かを待ち望むかのように昇って照らしている。
空には魚のようなものが気持ち良さように泳いでいて、
水は光を吸い込んできらめきを宿していた。
「・・・・・」
彼は無言で手にとった糸と目の前の水の集合体を交互にみつめ、あいている方の手で軽くアゴをつまんだ。それは思考するときの、彼の癖だった。
森のような場所とはいえ、ほとんど一本道といってもいいケモノ道。他に行く場所はなく、その行く手を阻むかのように佇んでいる水の集合体。先に出たはずのふたりの気配はない。
これだけの事実で、つい先ほど起こったであろう出来事は、容易に想像がついた。
彼は苦笑するでもなく、かえって意味深なほほえみをその形のいい唇に浮かべると、青灰の瞳にどこか満足げな光を浮かべた。
「どうやら彼女は名探偵のようだな」
起こった出来事の結果から、その原因を推測するのはそれほど難しいことではなかった。
好きで落ちる人間はいない。となれば、どちらかが誤って落ちたということになるだろうが、彼は自分の親友がそんな失敗をするとは思えなかったし、彼女のクセを知っていた。そういえばあの扉に気づくきっかけを作ったのも彼女だった。・・・へえ。面白いね。
思ってもみなかった展開に、彼は自然にこぼれる笑みを隠そうともしなかった。
彼が最初に白羽の矢をたてた人物は、予想以上の働きをしてくれているらしい。
たとえ偶然であろうとも、それは一種の才能かもしれなかった。
興味は、ある。良い意味で。彼は自分に興味を抱かない人間に興味を抱くのだ。そして彼女の興味が、彼の親友である男に向いているのもまた、興味深い。自分を好きだという人間を、彼はあまり信じられない。その才能に惚れる人間、あるいは媚びる人間ならいくらでも知っていたが、彼自身を好きだといわれると、彼はいつものクセでそこに理由を求めようとしてしまう。
なぜオレを好きになる?
そうすると彼にはその答えをみつけることができず、よって、そう思う相手がなにか誤解をしているか、都合の良く自分を作り変えているか、要するに相手が思い込みをしているのであろうと結論づけてしまうのだった。
だがたしかに、恋愛という感情そのものが思い込みという呪縛を断ち切ることができないのは事実であり、彼自身、そういった感情を知らないわけではなかったので、結局彼にはどうすることもできず、放っておくしかなかったのだ。
そういった点で、美恵という女性は、彼にとっては少し興味の対象が異なった。
誰にはばかることなく、和矢に愛情を浴びせ掛ける彼女。
面白いのは、そうまであからさまに好意を示されている本人が、まったくそれに気づかないことである。
だがあえて、彼はそのことを本人に告げるつもりはなかったし、ましてや仲立ちをする気など微塵もなかった。
今回のことにしても、ただ自由行動を確保したかったにすぎない。
相手は意外に勘が鋭いので、一緒にいるよりは彼女といてもらったほうが彼には都合が良かったのだ。
が、しかし、世の中そうそう思い通りになるものでもなかった。
彼は、軽く舌打ちすると、そのままの姿勢で冷ややかにいった。
「いつまで隠れているつもりだ。いい加減、見張られているようで不愉快だね」
その言葉に、ガサッと木々がざわめいたかと思うと、ルイが上から現れた。どうやら木にのぼっていたらしい。
「あら。バレてたの」
「当たり前だろ。尾行にしては気配が消えてない。そろそろ本業も潮時じゃないのか」
「それについて、あなたに指図される覚えはないわね」
ピシャリと言い返されて、彼はかすかに笑った。
「まあ、そうだな。なかなか的を得た回答だ」
「それはどうも」
「で、ついてきた目的は?」
「それも、いわなきゃいけない理由はないと思うけど」
その言葉に、はじめて彼は彼女の方を向いた。
髪をかきあげる仕草が、少し気怠げだ。
「では質問を変えるとしよう」
言って彼は、ふぅっとその瞳を彼女に向けた。射るような眼差しだった。
「今後も君は、行動を改めないつもりかい」
遠まわしに彼の声が聞こえる。
まだオレについて来るつもりかと。
彼女は頷くでもなく、そうね、と考える仕草をした。
「なんともいえないわ。あたしはあたしのしたいようにするだけだし。たまたまあなたと方向性が同じなら、この先もこういったことは起こりえるでしょうね」
「減らず口をたたく」
ふっと笑って彼は、目を細めると、燻るような視線を彼女に向けた。
「では訊くが、君のしたいこととは何だ」
彼女は一瞬迷い、けれどもすぐに適切な返答をみつけてゆっくりとほほえんだ。
「知りたい?」
「ああ、是非知りたいね」
その解答に満足して、彼女はいった。
「あなたと恋をすること」
思ってもみなかったその答えに、彼は絶句、けれどもすぐに、浅い笑みを浮かべ、彼女をみる。
「面白くない冗談だな」
「あら。本気よ」
笑って答える彼女に、彼はいやぁな顔をする。
「食えない女だ」
「あら。おいしいのに」
彼は鼻で笑うと、その目に嘲笑を浮かべ、揶揄するようにいった。
「それは残念だ。ところでルイちゃん、オレとの恋をお望みなら、邪魔をしないでくれ。早く美女丸達のところに戻って、合流しろ」
彼女はにっこり笑う。
「い・や・よ」
「あくまで自分の意志で行動するっていいたいわけか」
「ええ。その通り。それにあなたに指図される覚えはないっていったでしょう」
「オレも君に邪魔されるつもりはないね」
「だったら手を組まない?あたしはあなたの邪魔をしないって約束する」
「・・・・すでにその約束は破られているな」
「いつ邪魔をした?」
「たった今だ」
「・・・・」
やはり彼が相手だと、一筋縄ではいかないようだった。
彼女はほっと息をつくと、しゃーないわねぇ、とつぶやいて、無造作に髪をかきあげ、その視線を水の集合体へと向けた。
「論より証拠が必要かしら」
ひとりごとのようなつぶやきを、彼は、聞き逃さない。
「何をするつもりだ」
「あなたがいま思ったこと」
「君が?」
「知りたいんでしょう。この中に何があるのか。・・・違うわね」
そういって彼女は、水の中を覗きながら、付け足すようにいう。
「確かめたいんだわ。もう貴方の頭ではおおよその結論は生まれている。あとはその確認が必要なだけ。いまは和矢も美女丸もいないものね。そのためのからだが欠けている。違う?」
彼は冗談じゃないといったように、首を振った。
「それで借りを作るくらいなら、自分でする」
瞳には、わずかに苛立たしげな光が浮かんでいる。彼女は静かに笑う。それは、彼女の素直な気持ちがみせた、それまでとは違う種類のほほえみだった。
「バカね。だれも恩に着せようなんて、思っちゃいないわ」
「結果的にそうなる。君の意図とは関係なしにね」
その言葉に、彼女はクスッと笑う。
「変なところで律儀な人」
「君がこの中に入る理由なんて、なにひとつないんだってことを、頭のいい君がなぜわからない?」
「理由なんて、たったひとつで十分よ」
彼女はまっすぐに彼をみつめる。好奇心は、もちろんある。この中に何があるか。もし彼女の考えた通りなら、それはそれで面白いことになるだろう。けれども、そんなのはたいした理由ではない。
目の前に、青灰の瞳があって、それは黄昏のような不思議にかなしい色をしていた。
この表情をさせているのが、もし自分であるのなら、彼女には恐いことなんて少しもない。
むしろ光栄なくらいだ。彼女は笑いを返す。
「少しオーバーよ、シャルル。このあたしが、こんな池にもぐったくらいでどうにかなるわけないじゃないの」
シャルルは黙って首を振った。
「君だって気づいてないわけじゃないだろう。本当にこれがただの池や沼、湖の類なら、オレはとっくに君を行かせているね」
ああ、やっぱり・・・。
その言葉に、彼女は納得する。
相手も同じ考えだと。たしかに、そうでなければ、ここまで彼が真剣な顔をするわけがない。
そう思う彼女の前で、シャルルは参ったといったように首を振ると、少し悔しそうに、けれども仕方がないといった顔で口を開いた。
「もういい。わかった。君と手を組もう。それでいいか」
彼女は驚いた。シャルルはますます不愉快そうな顔をする。
「芝居はもういい加減にしろよ、ルイ。君の願いは叶ったんだろ」
いわれて、やっとルイは思い出した。この話の発端を。
そういえば、たしかに自分は手を組もうと持ちかけ、あっさり断られて、だったら証拠をみせるという話の流れから、今の話題になったのだった。
彼女はとっくにそんな経緯は忘れていたのだが、どうやら彼は誤解したらしい。
自分にウィといわせる手口だと。
けれども、そう思ってなお、彼女が本当にこの中に入ってしまう可能性を否定できず、彼は仕方なく妥協したのだ。
・・・・・。
ルイは信じられない思いでシャルルを見つめた。
彼はえらく不機嫌で、むっとした顔をしていたけれど、結果的に彼は自分の主張を曲げたことになる。
ああ・・・・。
言葉にならない気持ちは、言葉ではやはり表現できない。
彼女は必死にまばたきして、浮かんでくる涙を散らすと、いままでで最高の笑顔をシャルルに向けた。
もう心は決まっていた。
「やっぱりあなたって、最高ね」
そういって彼女は、そのまま水の集合体へと足を入れる。
シャルルの表情が変わる。
「おいっ!?」
「大丈夫。待っててね」
そういって、中へと入ろうとしたときだった。
突然水しぶきがたって、そこから人が現れたのは。
仰天するルイと、それと止めようとしていたシャルルの目の前に、突如として人の手が現れた。やがてそこに続く二の腕、たくましい肩などがあらわれ、その手は陸地をつかむようにすると、次いで、その本体が頭から腰までゆっくりと水の中から現れた。
ルイとシャルルは、絶句する。
そんなふたりをよそに、彼は手をつくようにして、プールから浮かび上がる要領で、身を水中から出すと二本足でしっかりと立ち、ぽたぽたと垂れる雫を気にする様子もなく、気持ち良さように、空を見上げた。
輝く光。それが水面に乱反射し、彼は光の洗礼を受ける。
そしてしばらく目を閉じていたが、やがてふっと目を開けると、初めて気づいたといったように、自分をみつめるふたりの人物に視線を向け、わずかに、ほほえんだ。
「やぁ」
そんな彼に対し、シャルルは腕を組んだまま何もいわず厳しい目を向け、ルイはといえば、信じられないといったようにぽかんとしつつ、つぶやいたのだった。
「・・・かず、や・・・?」
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