険の始まりは底なし沼

――うわっ、何これ!?

 それが美恵の第一感想だった。
 視界に映るもの、森でしかない。
 緑の風景。
 空には雲の変わりに魚が泳いでいた。

「さすがに地球とは・・・違うな」

 和矢も始めてみる光景に、目をパチクリさせていた。
 なんとなく似ている気もするが、よくみれば空の色が綺麗な海のようなエメラルドだったり、光を散らす恒星は太陽よりよほど大きかったり、見慣れない植物がアマゾンの奥地のように広がっていたりする。
 空気、と呼んでいいのかはわからないが、そのようなものはあるらしく、呼吸に影響はなかった。
 酸素は足りているようだ。
 歩くにおいても重力は地球と大差ないようである。
 けれども地球にいるときより、緑の色が鮮やかだったし、また、においがあった。
 草の匂い。光の匂い。風の匂い。どれもさわやかで残らない。
 なのに強くそれらを感じるのだった。

「生きている惑星だね」

 美恵の言葉に和矢は頷き、それにしても・・・とつぶやいた。

「誰もいないな。そんなわけないと思うけど」
「でも見つかって捕まってもまずいよね」
「そうだな。こっちが相手を見つけて様子を見れるといいんだけど」

 真剣な和矢の横顔。少し考えるようにアゴに手をあてて、美恵を振り返る。

「先に見つかったらやばいな」
「うん。人の気配には注意しないとね」

 その言葉に、和矢はわずかに首を振る。

「注意するのは人だけじゃないぜ。むしろこういう場所じゃ、足もとや頭上に注意した方がいいよ。なにしろどんな生き物がいるかわかんないんだから」
「生き物って・・・」

 たちまち不安そうな顔をする美恵に、和矢は口を開きかけ、直後それをぴったり閉ざして人差し指を唇に当てた。

「シッ・・・・・何か聞こえる」

 え、と美恵も耳に手をあて、音を捉えようとする。が・・・

「何も聞こえない」
「黙って」
「・・・・・・」

 美恵は口を閉ざし、再び耳を澄ました。すると今度は何やら水音のようなものが聞こえてきた。

「川?」
「かもな」

 いって和矢は歩き出す。

「行ってみよう」

 美恵に異存はなかった。
 そうしてふたりはその音の方へと近づいていったのだが、次第に足もとがぬかるんでくるのがわかった。乾いていた土の色が濃くなり、湿ってくる。ついには沼地のような場所に出て、ふたりは足を止めた。

「もしかして底なし沼とか・・・」

 いやそうに美恵が言う。和矢は近くにあった木の枝をつかむと、「ごめん」といいながらポキリと折った。美恵は不思議そうに首を傾げた。

「なんで?なんかした?」

 和矢はその枝を沼につっこみながら美恵をみる。

「なに?」
「だって、ごめんって」
「ああ、君に言ったんじゃない」
「?」

 少し頬を赤くして、和矢はぶっきらぼうにいった。

「木に謝ったんだ」
「・・・・・そっか」

 笑ってはいけないと思うと、人は笑いを押さえられないものである。

「いいだろ、別に・・・」

 声をたてて笑う美恵に、和矢は不満そうな声を出した。
 美恵は、笑いながらいった。

「違うよ。そうじゃなくって」

 和矢は少し不機嫌だ。

「そうじゃないって、なにがそうなんだよ」

 いつになく彼女の言葉尻をつかまえる。

「怒んないでよ。いい意味で笑ったんだからさ」
「別に怒ってないよ」

 明らかにむっとした顔でそういわれても、信憑性があまりなかった。
 美恵はそんな和矢に、ますます笑い出しそうになって、なんとかこらえた。
 やーん、和矢ってば可愛い〜。
 なんて言おうものなら、このまま彼女を置いてどこかに行ってしまいそうだ。

「思ったより深いな」

 そういった和矢は、もうすっかりいつもの彼だった。  彼の持つ枝が、彼の手ごと沼に入ってしまっている。少なくとも1メートルはある。

「これより長い枝はないから確かめられないけど、ここを通るのは無理そうだな」

 美恵は何気なくポケットに手を入れ、そこに意外なものをみつけた。

「ねえ、和矢。これ使えるかな」

 そういって取り出したのは、ソーイングセットだった。
 和矢は感心したといったように美恵を見返した。

「さすが女の子だね」

 たまたま入っていたとはいえない美恵だ。

「まあね。一応これでも女みたい」

 笑っていうと、和矢はふっと、目を細めた。

「一応なんていうなよ。どこからどうみても君は女性だろ」

 突然みつめられて、美恵は視線の置き場に困る。
 不意打ちだ。
 和矢はまったくの無頓着で、屈託のない笑顔をみせる。

「この糸、もらうよ。おもしをつけて落とせば、深さがだいたいわかると思うんだ」

 それは少年のような無邪気な表情だった。

「楽しそう」

 その言葉に和矢は顔をあげ、クスッと笑った。
 彼はちょうどいい大きさの石を探しているところだ。

「損だろ。楽しまなきゃ」
「そうだね」
「オレはシャルルと違って頭脳派じゃないからさ、ひとところにじっとして考え事は苦手なわけ。こうやってとにかくなんでもやってみるのが好きなんだ。失敗してもいいからさ。そしたら上手くいくまでやり直せばいいだけだもの。ガキの頃から、そういうところ、シャルルと全然違ったな。あいつは考えがまとまるまで絶対動かないタイプだろ。そのせいで何度家に帰れずオフクロに怒られたことか」

 そういう彼の瞳は、想い出に満たされて穏やかだった。
 彼はいいながらも石を探し、やがてちょうどいい形のものをみつけ、それを拾おうと手を伸ばす。そのとき彼を手伝おうと一緒に石探しをしていた美恵も同じものをみつけ、手を伸ばしたものだから、ふたりの手はその石の上で重なった。

「「あ」」

 声もついでにデュエットする。

「ごめん」
「ううん」

 上になった和矢の手はすぐに離れ、美恵はその石を拾うと立ち上がり、同じく立ち上がった和矢に、はい、といって手渡した。彼のひろげた手のひらにぽとんと石を置いた。

「サンキュ」

 クセの強い前髪がカールして、形のいい額にこぼれ落ちる。風が通り過ぎてわずかに揺らせば、彼は気持ち良さように目を閉じた。
 閉じられた瞳は美恵を安心させた。それで彼女は和矢を見続けることができた。
 少し日焼けした健康そうな肌。適度に色の抜けたジーンズは細身で、上にはおっただけのランニングは彼の髪と同じ色。そこからのぞく肩はたくましく、二の腕には程よく筋肉がついていた。首なども細いと思っていたのだが、こうしてみれば意外に太く、がっしりした印象を受けた。

 ――男の人だ。

 男性特有ののどぼとけが、そんな彼女の思考を増長する。
 さらさらと風が彼の髪を揺らした。
 そのたびに影の形が変化して、そのひとつひとつを美恵はフィルムにして切り取りたかった。
 時間の流れはゆるやかだったが、たしかに彼は同じ姿を留めてなくて、そのすべてを保存しておきたかったのだ。
 やがて和矢は、ゆっくりと目を開けると、美恵をみて、少し驚いた顔をした。

「どうか、した?」

 それくらい彼女の顔は赤かった。
 彼女はあわてて首を振ると、クルッと後ろを向いた。

「なんでもないよ」
「そう?」
「ん」

 心を落ち着け、美恵は再び振り返る。そしてソーイングセットを彼に渡した。
 和矢は頷いて受け取ると、そこから糸を取り出して、その先に石をつけた。

「少し弱いな」

 携帯用では、そう太い糸も入っていない。

「二重にしたら?」
「だな」

 頷いて、クルクルと糸をほどくと、適当な長さで折り返す。それでも切れそうだった。

「この糸全部使っていい?」
「もちろん」
「じゃあ四重にしよう」

 そうしてできあがったものを、和矢は慎重に沼へと落とした。
 糸の端を持つ。2メートルはあるだろうその糸を、けれども沼の水はどんどん吸い込んで、それでも底に届かなかった。

「まだ?」
「そうとう深いな。落ちるなよ」

 結局石を引き上げて、和矢は首を振った。

「通るのは無理そうだ。別の道を探した方が早い」

 美恵は頷くと、そうだね、といってもと来た道を戻ろうとした。
 そのとき、彼女はつい足を引っ掛けて、バランスを崩した。

「きゃあっ!」

 重心が後ろにあったため、そのまま後ろへと引っ張られるように倒れかける。
 そこにあるのは、ぽっかりあいた底なしの沼。

「危ない!」

 和矢があわてて手を伸ばし、美恵の腕を掴んだが、彼女の倒れ込む反動の方が強くて支えられなかった。

「駄目っ、手を離して!」

 落ちる瞬間、そういったけれど、掴む力は弱くなるどころか強くなるばかりで

「バカヤロウ」

 怒ったような彼の声が彼女にかぶさり、彼女は彼に頭を抱えられるようにして、ふたりは淀んだ水の中へと姿を消したのだった。



 ――ポチャン・・・

 水面にはしばらく波紋が広がっていたが、それもやがては消え、そこには何事もなかったかのように、穏やかな時間が流れつづけていた。






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