れよ旅人,目が覚めるまで

「アッキ!アッキってば!!」

 アンドリューは肩を揺するようにして、明美に呼びかけた。
 けれども彼女が起きる気配はない。
 それどころか、次第に彼自身の意識が遠のいてきて、ついには彼女の隣に眠るように倒れた。
 体中がとても重くてだるい。
 吐き気こそないが、自分自身の重さに耐えられないのだ。
 それは重力の乱れが原因だったが、リュ―はあまり物理は得意ではなかった。
 といえば、シャルルに

「物理?・・・それ以前の問題だな。君は何を勉強してきたんだ」

 と、冷ややかな視線を送られたのはほぼ間違いないが。

 質量のあるところに重力が生まれる。
 地球上でいうところの「重さ」は「重力によって地球中心に引っ張られる力」のことだ。
 質量と重さは明らかに違う。
 よくいわれるのが「上皿天秤」ではかれるのが質量で、ばねばかりではかれるのが重さということだ。
 要するに質量は基本的に変化しない。けれども重さは月に行くと小さくなる。
 それは月が物を引っ張る力が弱まるからである。
 そしていま、地球を離れ他の惑星に行こうとしている状態で、重力はランダムな変化を繰り返し、それに耐えられない彼らは、意識を失うことで身を守ろうとしていたのだった。

「明美か?」

 しかし世の中には常に例外というものが存在するのを忘れてはいけない。

「アンドリューまで・・・まあ無理もないな」

 美女丸は両手に抱えていたNAOをふたりの隣にそっと横たえると、その前に屈みこんだ。
 両手をひざの上において、少しだけ、目を細める。

「しばらく寝てろ」

 つぶやくようにいった美女丸の耳元には、ほとんど肌と同色のピアスが彼を守るようにきらめきを放っていた。

「あら、あなたはよく平気ね。なんともないの?」

 少し低めの女性の声に、美女丸は振り向いた。
 そこには平然としたルイの姿があって、彼を驚かせる。
 信じられないといった顔で、美女丸は口を開いた。

「それはこっちの台詞だ。おまえは何ともないのか?」
「あらやだ。そんなわけないけど、気合で持ちこたえているのよ」

 それに重なるかのように、彼女の右肩に手が乗り、なつきが顔を出す。

「同じく」
「気合っておまえらなぁ・・・」

 あっけにとられる美女丸の前で、ルイとなつきは顔を見合わせ、クスッと笑った。

「王子様に助けられる姫には憧れるけど、ちょっとあたし向きじゃないのよ」

 なつきがいえば、ルイも神妙に頷いて

「まあね。他の名前のときは別にして、ルイとしては倒れたりなんてできないってところ」
「あら。ルイさんは他の名前をお持ちなの?」

 それにはほほえみだけを返し、とにかく、とルイは強い口調で言った。

「原因はわからないけど、なりゆきはおおかた想像つくわ。首謀者を見つけましょう」

 けれども明らかに顔色は悪く、無理をしているのが一目瞭然だ。
 なつきにしても同様で、強がりを言うものの、いまにもグラッと倒れそうだ。
 体力の違いは明白。美女丸は痛々しそうに頬を歪めた。

「おい。大丈夫か。無理するなよ」
「だーいじょうぶよ。全然平気な」

 全然平気なんだから。
 とルイはいったつもりだったが、からだは正直だった。
 ふっと意識が遠のきそうになり、足元がぐらつく。
 美女丸はあわてて支えようとしたけれど、距離的に間に合いそうもなく、それでも彼女に近づこうとしたとき、まさに彼女の言うところの「首謀者」が間一髪で彼女を支えた。

「・・・なにが大丈夫なんだ」

 冷ややかな声に、聞き覚えがある。
 ルイは遠のきそうな意識のなかで、最後に彼の瞳をみた。
 宇宙の果てより遠い青灰色のそれは、けれどもたしかに心配から生じる不安定な光を浮かべ、まっすぐに彼女をみていた。彼女の心に直接差し込む光。彼に抱かれていることよりも彼に見つめられたことが嬉しくて、その眼差しに安心して彼女はふぅっとほほえみ、眠りについた。
 シャルルはほっと息をつくと、両腕で抱きかかえるように彼女を運び、マリウスと美恵の横に彼女を寝かせた。和矢がそこに立っていた。まるでふたりを守るかのように。

「彼女も頼む」
「わかった」

 和矢はすやすやと眠るルイをみつめる。とても安心した表情を浮かべている。
 そういえば彼女の休んでいる姿をみたことがなかったと、ぼんやり思った。
 いつでも精力的に活動しているイメージが、彼女にはある。
 けれども休息を必要としない人間などいるはずがない。

「・・・良かったな」

 気づくとそうつぶやいていた。
 シャルルはその言葉を、聞かない振りをして通り過ぎた。
 けれどもそこにはわずかな自嘲が浮かんでいた。
 軽く首を振る。白金の髪がさらっとこぼれて、彼を一瞬外界から遮断したが、彼は邪魔そうにそれをかきあげ、現れた瞳は、冴えた青灰色をしていた。

「シャルル。こいつら放っておいて平気か?」

 その声に目を向ければ、明美の隣になつきが眠っていた。
 やはりふつうでは、この過酷な条件に耐えられるものではないらしい。
 シャルルは、膝をつくようにして脈を調べたりしていたが、やがて顔をあげていった。

「異常はみられない。眠っているだけのようだから問題はないだろう」
「そうか」

 ほっとしたように美女丸がほほえんだ。

「だったらいい」

 彼は自分以外の人間の苦痛に、弱い。
 自分に課せられる苦痛なら限界まで耐えるだろうが、身近な人たちが同じ目に会えばたちまちに降伏するだろう。彼はそういう人だ。
 シャルルはわずかに笑った。

「おまえが辛そうだな。睡眠薬でも提供しようか」

 美女丸は軽く首を振った。

「いらん。それよりも、なぜオレ達は平気なんだ?」

 たしかに体を鍛えてはいる。だがそんなに差があるものだろうか。
 訝しげな美女丸に、シャルルは浅い笑いを返すと、右手で自分の耳たぶに触れた。

「たぶんこのせいだろう」
「?」

 同様の動作をした美女丸の手に、少し硬い感触が伝わる。

「このピアスのことか?」

 思い出して顔をしかめる美女丸に、シャルルは、たぶんね、と繰り返した。

「確かめたわけではないが、この成分は少し特殊なんだ。オリジナルはすごい力を宿すとされる月光のピアスで、持ち主を守るという話をレオンハルトから聞いたことがある。この異常な空間の中で何らかの力が働いていると考えるのは、それほどおかしな話ではあるまい」

 言葉とは裏腹に、その口調からは揶揄が感じられた。
 それで美女丸は疑わしそうな顔をする。

「本気でいってるのか」
「だから、いったろう。たぶんと」
「たぶん、ね」

 美女丸はニヤッと笑ってシャルルをみた。

「ずいぶんお粗末な言葉だな、アルディの坊ちゃま。天才の名が泣くぜ」

 その言葉に、シャルルは冷ややかな眼差しを向けると、唇の端に嘲笑を浮かべた。

「生憎だが、甲府の若造に言われたくらいで泣くような名は、持ち合わせてない」
「なんだと!?」

 むっとする美女丸を、シャルルは侮蔑をこめて見つめ返した。

「かわいそうに。頭だけじゃなく耳まで悪いのか」

 美女丸はシャルルをにらみ返す。

「おまえほど根性が悪くないことを、オレはいま心から神に感謝するぜ」
「ほぉ。神か」

 ふっと笑ってシャルルは、両腕を軽く組むと、少し気怠げな眼差しを、美女丸に向けた。

「面白いな。ぜひ教えてくれよ。君の言う神とはどの宗教の神だ。日本的に仏教かい。だがそれでは神ではなく仏だな。それとも君はクリスチャンか。あるいは他の神かい。何にしても興味深いね」

 美女丸はそれに対する答えを持たず、歯ぎしりしたい気分で目の前の悪魔のような男をにらんだ。
 時々どうしようもなく気が合わない。
 悪い奴ではないと知っているが、それとこれとは別問題だ。

「どうした。答えられないのか」

 相手を怒らせたいとしか思えないシャルルの口調だったが、彼にその気はなかった。
 たしかに美女丸の言葉にむっとしてやり返したのは事実だが、その感情はそう長くは続かない。

「おまえら、こんなところでケンカするなよ・・・」

 和矢の仲裁のタイミングは、まさに絶妙といえた。

「文句なら向こうに言え」

 不愉快そうに言って、シャルルは美女丸に視線を向ける。

「先に侮辱してきたのはあっちだ。降りかかる火の粉を払って何が悪い」

 けれども、美女丸にも言い分はあった。

「おまえが真面目に受け答えをしないから、少しからかっただけだろ。こっちが真剣に聞いてるのにだな、おまえはいつもそうやって人を馬鹿にしたような態度で、いったい何様のつもりなんだ」

 シャルルは鼻で笑った。

「オレは正直に答えただけさ。自分で確かめてない事実を断言できるほど自惚れちゃいないんだ、自信過剰な君とは違ってね」
「ああそうかい。そいつは悪かったな。おまえの知らないことを聞いたオレが悪かったよ」

 その言葉に、一気に状況は悪化、シャルルはすぅっと笑みを消し、美女丸をみた。
 青灰の瞳に剣呑とした光を浮かべている。
 どうやら彼の自尊心を刺激してしまったらしい。

「おい。ふたりともその辺でやめとけよ」
「君には関係ない。黙っててくれ」
「シャルル」
「そうだ。和矢。こいつとは一度決着をつけなきゃならんと思っていたところだ。黙ってみてろ」
「美女丸まで・・・」

 見てろといわれて、はいそうですかというわけにはいかない和矢である。
 が、ふたりのことを彼は小さな頃から良く知っていて、こうなってはどちらも引かないだろうという結論が容易に導き出された。
 こんなときに仲間割れとは、いったい何を考えているやら。
 あきれる以外にどうしろというんだ。
 このまま好きにやらせるのが一番かもしれない。
 いくらなんでも決闘にまではいかないだろうから、気が済めば適当に仲直りでもするだろう。
 自分が出て行っても、もうどうしようもないんだから。
 そう結論づけ、和矢はわかったといったように手をあげ、ふたりをみた。

「おまえらの意見を尊重するよ。思う存分やってくれ」

 その言葉にふたりが頷こうとしたとき、突如、ものすごい振動がその空間を揺り動かした。

「なんだっ!?」
「移動完了だ」

 その場にそぐわない、シャルルの落ち着いた声が響いた。

「どうやら勝負はお預けのようだな。美女丸」

 ふっと笑って、振り返る。そのとき彼が静かな瞳をしていたのが、美女丸は意外だった。
 頭に血がのぼりやすい性格ではあるが、やはりそれも長く続くものではない。

「ああ。全部終ったら、おまえとの決着をつけてやる。覚悟しとけよ」

 口ではそういうものの、すでに先ほど彼の中で荒れ狂っていた激しい感情は収まっていた。

「それはこちらの台詞だ」

 そういったシャルルに美女丸がニヤッと笑う。

「それじゃ、ま、修学旅行と参りますか」
「その前に皆を起こした方がいいか?」

 和矢は眠る7人に目を落としながら、シャルルに訊いた。

「まずは敵情視察だな。眠らせておけ」

 その声に、女性の声が被さった。

「あら。連れてってよ。せっかくの修学旅行なのに」

 そういってよっこらせと起き上がったのは、美恵。

「んー、よく寝た。気分爽快」

 あぜんとする3人の前で、美恵は両手を広げて伸びをし、にっこり笑うと、さあ行きましょうと出口へと向った。
 シャルルの冷ややかな声がする。

「まだシールドを解除してないから、ここからは出れない」

 その言葉に美恵はズッコけた。

「だったら早く解除してよぉ」
「君はここに残ったほうがいいよ」

 心配そうな和矢に、美恵はとんでもないと首を振る。

「それじゃ何のために来たのかわかんないわ」
「何があるかわからないんだよ」
「だから冒険なんじゃない」

 和矢は頑として頷かない。こういうところは意固地であった。

「とにかく君はここにいて。オレ達で見てくるから」
「やだ。一緒に行く。置いてってもひとりで出て行っちゃうんだからね」
「駄目だ」
「行くもん」
「美恵」
「行くの!」
「来るな」
「行く!」

 なんとも埒のあかない話し合いが続き、結果、

「いい加減にしろ」

 シャルルのこの一言で場が静まった。
 美恵は不服そうにシャルルをみる。

「止めたって無駄よ。あたしは行くったら行くからね」
「別にオレは反対してやしない。説得ならカズヤにしろよ」

 予想外の答えに、美恵は一瞬虚をつかれた。

「あれ。そうなの?」
「なぜオレが君を止めるんだ。そんな理由は思い当たらないね」

 そういわれると、それはそれでなんだかいやな美恵だった。

「意地悪・・・」

 シャルルは浅く笑う。

「止めて欲しいわけか」
「そうじゃないけど・・・」

 上目遣いにシャルルを見ると、彼の冴えた月のような瞳が視界に入った。
 少し、恐かった。彼の心がつかめなくて。自分をみてもらえてないようで。
 いままでそんなふうに感じたことがなかったのは、彼女が理事長に興味を示さず、特に関わったことがなかったからだ。
 傍にいればいやでもわかってくる。
 彼の圧倒さ。冷ややかさ。そして普段、物憂げと評される青灰の瞳が、時々恐いくらい冴えていることに。

「とにかく。さっさと決めてくれ。行くか行かないか。カズヤ、おまえが譲れよ」

 その言葉に、美恵は驚いた。
 それはいわれた和矢にしても同じだったらしく、信じられないといったようにシャルルを見返した。
 シャルルはその視線を冷ややかに受け止める。

「どうした。目が落ちそうだぞ」
「そりゃ、落ちるさ」

 美女丸も、信じられんといった顔でシャルルをみていた。

「カズヤより彼女の味方をするつもりか?」

 シャルルはかすかに笑う。

「いったろ。オレは女性には敬意を表すると」
「おまえ・・・本気か」
「どちらにせよ、彼女が譲らない確率は君が折れない確率より高いよ。カズヤ、彼女が君を選んだのを忘れたのか。一緒に来たのは何のためだ?」

 その問いかけは同時に通告だった。
 おまえが彼女を守れよ。
 和矢はその言葉を翻す理由をもたない。

「大丈夫だよ。和矢。あたしがあなたを守ってあげるから」

 暢気にそういって笑顔をみせる美恵を、和矢はしばらくみていたけれど、やがて参ったといったように首を振り、降参のポーズをした。

「わかったよ。一緒に行こう」
「え?ほんと?やった〜♪」

 嬉しそうな美恵とは対照的に、苦笑を浮かべる和矢。
 どんな危険があるかもわからないのに、無邪気に喜ぶ彼女がほほえましくもあり、その油断が心配でもある。

「けど、オレから離れるなよ。ひとりでいなくなるなよな」
「あったりまえじゃん。それに皆で行くんでしょ。美女丸とシャルルと」
「いや」

 答えたのはシャルルだった。

「そんな野暮なことはしないよ、美恵ちゃん」

 独特の笑みを浮かべ、シャルルは言う。

「カズヤとふたりで行ってくるといい。どうせ彼女たちを置いてここを離れられないしね。美女丸には頼みたいことがあるんだ。それでいいかい」

 最後の言葉は、和矢への問いかけだった。
 和矢は多少戸惑いつつも、構わないけど、と答えた。

「それじゃ、シールドを解除する。気をつけていっておいで」

 いつになく優しいほほえみを浮かべてシャルルは、操作室へと入っていった。
 美女丸を含めた3人は、不思議そうに顔を見合わせる。

「なんだか機嫌いいね。良い事あったのかな」
「さぁ・・・」

 和矢も首を傾げる。

「とにかく行くしかないだろ」
「気をつけろよ、ふたりとも」
「おまえこそ。シャルルとまたケンカするなよ。ふたりしかいないんだからさ」
「・・・・できるだけ気をつける・・・」

 ほっと息をつき、美女丸は苦笑した。
 そのとき、一気に光が弾け、ぱっと周囲が明るくなった。

 どうやら目的地に到着したようだった。






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