「お兄ちゃん!」
突然目の前に現れたその姿に、明美は信じられないといったように大きく目を見開いた直後、
飼い主をみつけた子犬のように駆け出していた。
ぱっと顔を輝かせて抱きつく。ゴロニャン、と声が聞こえてきそうな甘えっぷりだった。
ここに凱がいたら、参ったといったように首を振ったことだろう。
「どうしてここにいるの?」
明美の言葉に、和矢の方が参った、と首を振って、わずかに妹をにらんだ。
「それはこっちの台詞だ。どうしておまえ、こんなところにいるんだ。おまけにアンドリューまで連れて」
「散歩よ。さーんーぽー」
嬉しそうにいって明美は、ウキウキと兄の顔を見上げる。
対照的に和矢は渋い顔だ。
「悪いけど信憑性ないよ、明美。だいいち場所が場所だぜ。おまえのいる場所じゃあないだろ」
そういうと明美は、ムッとしたように兄をにらんだ。
「どういう意味よ。あたしが図書館にいちゃ行けないっての!?」
「いつも兄に貸し借りを頼む妹がいえる台詞かよ」
「い、いつもじゃないじゃない」
明美はたじろぎつつ、反論した。
「年に365日だけよ」
「・・・あのなぁ」
それでは4年に1日の計算ではないか。
そういうと明美は、悪びれる様子もなく頷いた。
「今日がその1日でも、ちぃっともおかしくないわ」
和矢はこれ以上会話を続ける気をなくしたらしく、やれやれといった顔をすると、彼女の後ろにいるアンドリューに目を向けた。
「おはよう」
ほほえみを浮かべる兄を見て、明美は心の中でボヤいた。
なによ、そんなやさしい顔しちゃって。あたしに対するのとずいぶん違うじゃない。
「おはようございます」
ニコッと笑ってアンドリューは挨拶を返した。
「悪いね、妹が無理につき合わせて」
「ううん」
軽く首を振って、アンドリューは素直に答える。
「僕も修学旅行には興味あるし」
その言葉に、明美はあちゃーと手を額にあてた。
リュー!!
そんなあっさり言っちゃ駄目よ。それはあくまで秘密事項で・・・。
思っても後悔先に立たず、とっくにばれているのだが、それには気づかない意外に素直な明美嬢だった。
「へえ、修学旅行?」
からかうように和矢は明美を見た。彼女は兄にしがみ付いたまま、甘えるように兄を見上げる。
「えへへへへ。ほら、お兄ちゃんと離れるの、明美寂しいし」
「シャルルと、だろ」
「やだ。違うわよ。お兄ちゃんがいちばんに決まってるじゃない」
すると和矢は、なるほど、と頷いて見せてから、じゃあ、と口を開いた。
「オレがいかないっていったら、おまえ諦めるわけ」
「――――!!!?」
一瞬明美は、返事ができなかった。
そんな彼女の頭をぽんぽんと軽くたたくと、彼女を引き離すようにして、彼はしゃがみこみ、明美と視線を合わせた。
「素直にいえよな。私も行きたいってさ。いつもあきれるくらい言いたい放題のクセに、なんで本気の時は隠そうとする?」
優しい瞳がそこにはあった。
自分の心を包み込もうとするかのような。
自分の願いを受け入れようとするかのような。
吸い込まれそうに深くて神秘的な黒い瞳。
「べ、別に隠してなんかいないわ」
あわてて視線を逸らして、明美はいった。
「ただ、いっても無駄だと思ったから、こっそりついていこうとしただけよ」
優しくされるのは好きだけれど、兄の優しさは底がなく、どんなに厳しいことをいっても自分を必ず許している。一方的に守られるだけの関係。そんなのはもう嫌なのに。
そんな妹の気持ちを兄は知らない。いつまででも彼にとって明美は大切な妹で、愛すべき存在で、自分が守るべき存在だった。小さな小さなお姫様。どんなに成長しても彼にとって妹とはそういう存在で、忙しい父親に代わって彼女を見守ってきた。ときに優しく、ときに厳しく、そして変わらず愛して。
明美を皆がブラコンという。けれどもその逆も同じ。離れられないのは果たしてどちらだろう。
「止めても無駄よ。いくらお兄ちゃんの頼みでも、聞けないんだから」
先手必勝とばかりに、明美はそういって、アンドリューを振り返る。
「行こ」
彼に手を伸ばす。アンドリューはなぜかためらうようにその手をみた。
明美は焦れたように言う。
「ほら、行くわよ、あたしに最後まで付き合ってくれるんでしょう!?」
その言葉にビクッとしたかのようにアンドリューは腕を伸ばすと、彼女の華奢な手を握った。
和矢はほっと息をついて立ち上がる。
「待てよ」
「やだ」
「人の話は最後まで聞くもんだ」
そういって和矢はふたりの背中に言葉を投げかけた。
「そっちは行き止まりだぜ。オレはおまえ達を迎えに来たんだよ」
ピタ、とふたりの歩みが止まる。ふたりは同時に振り返る。
「え!?」
その息のあった反応が妙におかしくて、笑いながら和矢はいった。
「オレと一緒に来る?それとも意地でふたりだけで探しつづける?
オレはどっちでも構わないぜ」
「・・・お兄ちゃんって時々、ものすごく意地悪よね」
あえて選ばせようとする兄を、明美は不満そうに見つめる。
和矢はニヤッと笑う。
「こんな優しい兄はいないぜ。なんたって、妹の意見を尊重しようとしてるんだからな」
口で勝てる相手ではなかった。だてに長年シャルルの親友をやってはいない。
「アッキ・・・」
困ったように自分を見るアンドリューに、明美は彼が自分に判断を委ねようとしてくれているのを感じた。もし彼ひとりなら、迷うことなく和矢と一緒に行くことを選んだだろう。アンドリューはそういった人間だ。変なプライドや意地を張らない。そういった天真爛漫さが人の心を開くのだ。明美は想像する。もしここにリューひとりだったら・・・・きっとこんな感じかしら。
「もちろん、一緒に行くわ。どうぞよろしくね、お兄ちゃん」
素直にそういって、お辞儀をした。アンドリューは驚いたようにそんな彼女を見ていたが、やがて嬉しそうな顔をすると、一緒にお辞儀をした。
「僕も。よろしく」
ふたり一緒に頭をさげられて、和矢はあぜんとしていたが、やがてふっと笑うと、ゆっくり近づいて、両手でふたりの頭を抱くようにして、いった。
「こっちこそ。よろしくな」
その手は思った以上に大きく、その声はしっとりとして優しかった。
その頃、美恵たちはといえば、だいぶ階段を降りきっていた。
目的地はすぐそこである。
しだいに明かりが薄れてきて、視界が遮断されていった。
それでも進めたのは、一段一段の中央に蛍光塗料が塗られていて、皆を誘導するかのように闇に浮かび上がっていたからである。
「なんか・・・いい香りね・・・」
「ほんとだ。なんだろう」
視覚が頼りにならないとき、その他の感覚が人を危険から守ろうとする。
明かりがなければ匂いで、音で、そして触覚で。
「おい・・・・あまりひっつくなよ。動きにくい」
降りる順番はいつの間にか変わっていた。
先頭は同じく美女丸。
次にくるのが美恵、そしてうしろはなつきとNAOだった。
なぜそうなったのかといえば・・・。
「やー先に行かないでよーーー」
悲鳴のような声が閉ざされた空間に響き渡る。
「おい!!くっつくなというに!!」
「やだやだ。お願い、今だけ、ね!?」
「・・・・・・・」
美恵はホラー系が得意じゃなかった。
とはいえ、別にここはお化け屋敷ではない。
ただの暗い空間だ。
が、それでも、恐いものは恐かった。
「ったく、何が恐いんだ?」
参ったといったような美女丸の声がする。
彼女は明かりがなくなりはじめた頃から、ひとり異常に怯えだし、みかねた美女丸が
「オレの後ろに来るか」
といったところ、彼の腕にがっしりしがみつき、離れなくなったのだった。
美女丸も、自分から申し出た手前、突き放すこともできず、文句をいいながらも彼女の歩幅にあわせて進む。
(美恵ちゃん!役得過ぎ!!!)
と、小声でなつきがいえば、NAOは複雑な顔をして、恋人のように寄り添うふたりを見つめていた。
が、本人にしてみれば、役得どころか、はやくこの状態を脱したい一心だった。
視界を奪われるというのが、これほど恐ろしいとは思ってもみなかった。
なぜ他の人たちが平気なのかわからない。
「おまえ、大丈夫か?」
いつになく物静かな彼女に、美女丸はわずかに眉をひそめて話し掛ける。
「う・・うん・・・平気・・・」
言葉とは裏腹に彼女の声は震えている。
おまけに足の方への注意も散漫で、何度もつんのめりそうになっては美女丸に助けられた。
やがて彼は参ったといったように息をつき、ピタ、と立ち止まった。
「背中に乗れ」
そういって、背を向ける。美恵はぼうぜんと、蛍光の明かりにわずかに照らされる広い背中をみつめた。
「さっさとしろ!いい加減、その方が早いだろ。オレも楽だ」
右腕をぎゅっと捕まれ、幾度も転ばれそうになっては、さすがに歩きにくいなんてもんじゃない。
それよりはよっぽど、抱えるか、おぶった方が効率的というものだ。
だが美恵はその意味を理解すると、音がしそうなほどブンブンと首を振った。
「い、いいよ、大丈夫。ひとりで歩ける」
言葉の羅列をして、後ずさりをした美恵だったが、階段の幅はそれほど広くもなく、彼女は再びバランスを崩し、美女丸に助けられた。怒りを含んだ美女丸の声が響く。
「おい!!オレが困るんだ。いいから黙ってさっさと乗れ!」
甘い雰囲気とは程遠かったが、こうして美恵は抵抗の余地もなく、彼の背中におさまった。
最初はむちゃくちゃ恥ずかしかったが、慣れてくると、彼の背中の広さだとか、たくましさだとか、肩甲骨が触れたり、体温を感じたりと、やたら動揺する彼女だった。
とてもこんな姿、和矢にはみせられない。
そう思って、けれども少しでも動揺してくれるだろうか。妬いてくれるだろうかと思っては、その考えに自分で赤くなるのだった。
すっかり大人しくなった美恵を背負った美女丸は、楽に階段を降りていた。
最初からこうすりゃ良かった・・・。
それにしても、ずいぶんと降りてきた気がする。
いまは何階だろう。
目的地はたぶん地下。
そろそろついてもいいはずだが・・・。
そう思ったとき、あっと耳元で美恵の声がした。
「出口だ!」
自分で歩かなくても良くなった美恵は、周囲を見渡す余裕ができていた。
なつきとNAOも同時に顔をあげ、階段の続く先に目をやる。
そこには一枚の扉があった。
「・・・開かずの扉、だ・・・」
なつきがつぶやくようにいって、NAOも静かに頷いた。
「よく似てますよね」
「あ、そっか」
なつきがアハっと笑った。
「同じのがあるわけないよね。場所が全然違うし」
「何か書いてあるぞ」
さっさとそこまで歩いていって、美女丸は美恵を下ろすと、屈みこむようにしてその文字を読んだ。
「コペルニクスの扉」
3人は首を傾げた。その前で美女丸がつぶやくようにいう。
「たしかポーランドの天文学者で、ローマカトリック教会の聖職者だったな。有名なのは地動説を提唱したことだったと思ったが・・・」
美恵が感心したように美女丸を見上げる。
「すごいね。物知りだね〜」
彼はいやぁな顔をした。
「なにが物知りなんだ。この程度なら常識だろ」
「・・・常識、かなぁ」
ぼやくようにいって、振り返る。
「ね、なつきちゃん、NAOちゃん、どう思う?」
ふたりは首を傾げた。
「地動説、は知ってます」
「聖職者だったのは知らなかったわ」
「ポーランドってのは、いわれればそうだったかもって思い出す程度です」
「え?そう?知らなかったよ」
いっこうに埒のあかないその会話にうんざりして、美女丸はひらひらと手を振った。
「もういい。わかった。おまえらには常識じゃないんだな。よーくわかったよ」
「えー。なんかその言い方ひどくないですか」
不満そうにNAOがいう。むっとして美女丸は彼女をみた。
「じゃあどういえば満足なんだ。だいたい学校で習うだろ」
そういわれても、学校で習ったことすべてを忘れないで覚えているなんてありえない。
そう言おうとしたとき、きゃっと声がして、美恵がよろけた。
「―――!?」
美女丸はNAOとの口論に夢中で、反応が遅れた。美恵はとっさに目をつむり、ああ、転んでも痛くありませんように、と心の中で祈ったが、いつまでたっても痛みはやってこなかった。
ふわっと誰かに抱きとめられる。
その感覚が、なぜか懐かしくて、驚いて顔をあげると、ほのかに漂う明かりの中、黒い瞳が驚きを浮かべて自分をみていた。
状況がわからずぼうぜんとする美恵の前で彼は苦笑を浮かべると、ほっと息をついた。
「ぎりぎりセーフ、だな。それにしても君は本当に何もないところで転ぶね。器用な人だ」
からかい混じりにそういって、彼女を立たせてくれた彼を、美恵は信じられない思いでみつめた。
「よぉ、遅かったじゃん」
美女丸はその声に、ニヤッと笑う。
「やっと会えたな。探したぜ」
「こっちこそ。待ちくたびれて、一仕事してきたくらいだ」
そういうと和矢はわずかに身を引き、後ろにいたふたりを紹介した。
「今回、一緒に行くことになったおなじみ明美と、シャルルのオジのアンドリューだ」
美女丸は明美に一瞬目をやり、次いでアンドリューに目を向け、暗闇の中、その顔を判別しようとするように目を細めた。まじまじと、見つめる。そして、あっと声を出した。
「君はあのときの」
アンドリューはペコッとお辞儀をした。
「お久しぶりです」
「君か!」
ぱっと顔を輝かせて、美女丸は彼に近づき、手を差し伸べる。
「あのときは本当に助かった。感謝する」
「いえ。お役に立てて光栄です」
「まさか君も一緒とはな、よろしく頼むぜ」
「こちらこそ」
すっかり息投合するふたりを、明美はあぜんとして見つめた。
なに、このふたり、知り合いだったっけ!?
「ねえ、美女兄」
問い掛けるより先に、和矢の声がした。
「悪いけどあまり時間がないようなんだ。詳しい話はあとにして、急ごう」
それで明美は、言葉をかけるタイミングを失う。
まあいいや、後で聞こうっと。
「ね、さっきあたしがつまづいたのって、ここが段になってるからだよ」
美恵の声に、美女丸がその場にかがみこんだ。
手を当てるようにして、床を調べる。
するとたしかにタイルの一枚がかすかにだが不自然に持ち上がっていて、少し力を入れると、そこがパカっと開いた。中にレバーがある。美女丸は舌打ちをして、悔しそうに和矢をみた。
「だからコペルニクスの扉なんだな」
和矢はクスッと笑って頷く。
「そういうこと」
「ったく、もったいぶりやがって」
そういって美女丸は、そのレバーを引いた。
しばらく、何も起こらなかったが、ふいにかすかに音がして、それまで壁だとばかり思っていたところが、ゆっくりと開いた。
やれやれと立ち上がりながら、美女丸がいう。
「コペルニクス的転回、か・・・」
聞きなれない言葉になつきが彼をみると、それに気づいて美女丸はちょっとだけ笑った。
「ま、これは常識じゃないだろうけどな、もともとはカントが自分の立場を特徴づけた言葉だったんだが、従来の考え方としては、見方を根本的にかえ、画期的な局面を転回しえたとき、その過程をさすとされている。地球の周りを太陽がまわっていると信じられていた時代に、それは違う、地球こそ太陽の周りをまわっているんだと思いついたコペルニクスに敬意を表してってところだ。要するに、発想の転換ってやつさ」
NAOはなるほど、と彼の言葉を聞いていた。
そして自分の考えが正しいかを知りたくて、口を開いた。
「つまり扉は開けるものという従来の発想に捕われずに、って感じでしょうか」
その言葉に、和矢が答えてくれた。
「ん。そんな感じみたいだな。目の前に扉がある。じゃあその先に何かがあるんだろうなって思うのが普通だ。けど実際、そこには何もない」
「え?じゃあこの扉の先には、どうなってるんですか」
「どうもなってないさ。もともと扉なんてここにはないんだから」
あぜんとする彼らに、和矢はコペルニクスの扉をコンコンと指で叩きながら、苦笑した。
「まったく良くできてるよ。オレも騙された。これは絵だよ。まるでそこに扉があるように描かれた壁画だ」
なんてことだ・・・。
NAOはぼうぜんと目の前にそびえる大きな扉をみつめた。
これが壁画?
だったら開かないのは当然だ。
開かないものを無理にあけようとしても、無駄なだけである。
ああ、、、発想の転換か・・・。
まるで落とし穴に落ちたような気がした。
悔しいとかずるいとか、そういった気持ちはなかった。
それよりもっとなんていうか、滑稽というかそんな感じで・・・
そのとき、楽しそうな美恵の笑い声がした。
「なんだなんだ。なかったのね。はじめから。そりゃあ開かないはずだよ。まさに、開かずの扉だ」
愉快そうに笑って、でもさぁ、と和矢の方を向く。
「まずはその「扉」ってのが嘘じゃない。だって扉じゃないんでしょ」
「この壁画のタイトルだってさ」
「何が?」
「だから、開かずの扉」
「へっ!?」
一瞬の間の後、再び、美恵が笑い出す。
「すっごいバカバカしい気分だよ、今、あたし」
「悩んだ時間があほらしいわ」
なつきも同感といったように肩をすくめる。
けれども
「幻滅した?」
という問いには、だれも頷きはしなかった。
「良かった」
和矢は安心したようにいうと、明美につかまっている美女丸に声をかける。
「とりあえず最後の扉は開いたわけだ。行こうぜ」
親指で奥をさすようにして。
「ああ。やっと到着、だな」
「歓迎セレモニーはしてくれるんでしょうね」
「アッキ・・・」
明美の言葉にも、和矢はクスッと笑っただけだった。
「それはこうご期待、だな」
そうしてさっさと先に入っていくと、中から皆を呼んだ。
「来いよ」
あいつが、待ってるぜ。
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