不意に夜が訪れた。
「え!?」
屋上にいた彼らは、驚いて空を見上げる。
そこにあるのは夜。太陽はあとかたもなく消えている。
4人は目をぱちくりさせ、お互いの顔を見合った。
「なに、これ・・・」
信じられないといったように美恵がつぶやいた。
他の3人も同じ。時計の針はまだ正午にすら達していない。
くもりとは違う、晴れている、澄んだ夜がそこにはあった。
「おかしいです・・・この空間・・・」
NAOは不安そうな顔でいった。
「時間泥棒ってのは、ちょっと無理があるわね」
軽口をたたくなつきにも、やはりどこかに不安が窺える。
美女丸はしばしぼうぜんとしていたが、やがて気を取り直すように首を振ると、大きな声で、いった。
「きっとこれは幻影だ」
まるで自分に言い聞かせるかのように。
「幻影?この夜が?」
美恵の問いに強く頷き、断言するように言った。
「映像を投影して、まるでそこにあるようにすることは可能だ。一体何の為かは知らんが、これはあいつの演出の一つと思ったほうがいいだろう」
たしかにそれが、この状況で考えられるいちばん確かな答えに違いなかった。
「昼にあって夜にないもの・・・」
呪文のようにNAOがつぶやく。なつきは横でそれを聞き、やはりひとりごとのようにつぶやいた。
「月、かしら・・・」
「ルナティっクか?――たしかに狂気、だな」
美女丸の言葉に、くす、となつきが笑った。
「昔の人はロマンティストなのね。この語源って、古いフランス語なのよ」
そういえば、ああ、と美女丸が目を細めるようにして頷く。
「ラテン語から来たんだろ。もっとも基本的な意味はたしか、月に影響された、だったか」
ふたりのやりとりを、美恵とNAOは感心して聞いていた。
「すごいですね。ラテン語ですって」
「西洋の言葉がだいたいそこから派生してるってのは知ってるけど」
「ああ、それは知ってます。すべての言葉に語源があるのかしら」
「どうなんだろう。だとしたら、興味あるね」
「ええ。とても」
そのひそひそ話を聞きつけて、なつきが言葉をはさんだ。
「あのね、フランス語の辞書って、日本の辞書よりたいてい語彙が少ないの」
意味がわからずきょとんとする美恵に、なつきはちょっとだけ笑った。
「つまり、ひとつの言葉の持つ意味が広いのよ。たとえば日本語では、時間という単語と天候という単語はまったく違うものだけれど、仏語ではその両方を同じtempsという言葉で表現するんだ」
「へぇ〜そうなんですか。それってすごいですねぇ」
「慣れないと意味がとりにくいけどね」
そういってなつきはほっと息をつく。
「でもどんな言語でも、母国語じゃないとなかなか慣れないですよね?」
NAOの言葉に、確かにね、と彼女も同意した。
「人類のした数々の発明の中で、火と言語は特別だといわれているからな」
そういって美女丸は、苦笑混じりに彼女達をみた。
「火は他の動物から身を守るため、言語は意思疎通を図るため、どちらも人類に貢献してきたものだが。今その話がなにか関係あるか」
存外に、無駄なおしゃべりはやめろ、といっていた。
「でも美女丸」
わかってなお、美恵は気にしない様子で口を開く。
「気分転換も大事だよ。とくにこんなわけのわかんない状況に置かれたらさ。こうして話しているうちにふっと手掛かりがみつかるかもしれないし」
「そうそう」
美恵の肩に手をかけるようにして、なつきが横から同意を示した。
「もうちょい頭をやわらかぁくしないとね。プラネタリウムのことだってさ、どうでもいいような会話から見つかったんだよ。ま、気づいたのは生徒会長だったんだけど」
「煮詰まったら一度そこから離れろ、ってのもありじゃないですか。あまり夢中になりすぎると視野が狭くなるって、美馬さんがいってました」
最後にNAOにまでいわれて、美女丸は参ったといったように首を振った。
けれどもたしかに、一理ある言葉だった。
あせれば焦るほど視野が狭くなる。
それは正しい。
だがそれとは別に、極限の状況におかれて初めて発揮できる力というものもたしかに存在した。
煮詰まりすぎる脳味噌は、味の濃すぎる味噌汁に似ている。
様々なものが混ざり合い、凝縮される。
それまで記憶の外に放り出されていた、些細なことまで、ふと、湧き出てくる。
それらは強引なまでの圧縮を受け、ひとつになろうとした。
突然現れた夜。それに付随する月。
欠けているのは右側の部分で、少し太った三日月だった。
太陽のあった位置を覚えている。
そしていま自分がいる場所。
月が欠けるのはその部分に太陽の光が届かないから、そしてちょうどそれが地球からみて右側の部分になるような月の位置関係は?
美女丸は考えをまとめようと目をつむった。
ここを地球、太陽の光はこう届いていた。
そう考えれば、そのとき月のあるべき場所は――――――。
目をあけて、その方向をみた。
そこには小さな白いテントがあった。
テントなら他にも幾つも点在している。
色は様々で、赤もあればオレンジも、青も紫もあった。
「どうかした、美女丸」
黙ったままの彼をさすがに気にしてか、美恵が声をかける。
美女丸は何かを考えるようにしていたが、やがてゆっくりと歩き出した、その白いテントへと。
何の変哲もない飾り気のないただの白。
だが入り口をめくって、息を飲んだ。
これは・・・・・。
「なに、なんかあるの」
ついてきた美恵が、うしろから覗き込む。
NAOもなつきも、首を伸ばすようにして、なかを覗く。
「・・すご・・・・・」
「ここが入り口、かぁ」
それは決して天文部のテントなどではなかった。
なかにはなにもない。天体望遠鏡もなければ、機材もなにひとつ置いていない。
ただ場違いに、金属製のドアが、埋まっているだけだ。
美女丸は無言で中に入ると、その取っ手を掴み、持ち上げた。
それは意外にもあっさりと開いた。
穴ができる。どこへ続くのか、階段が下へと続いている。
暗くてよくみえなかったが、ずいぶん長い階段のようにみえた。
「行こう!」
沈黙を破るように、美恵の声が響いた。
みんなどこか厳かな気分で、頷く。
「オレが最初に行く。気をつけろよ」
そういって美女丸が階段に足をかけた。
そのとき
「みてっ!」
まるでそれが合図だったかのように、テントの外に光が戻った。
同時に、下へと続く階段の通路にも明かりが灯り、まるで彼女達を迎え入れようとしているかのようだ。
「すごい仕掛けね。まるで隠し部屋のよう」
感動したようになつきがいって、美女丸の後ろに続いた。
「NAOちゃん、先に行く?」
「いえ。美恵さん、どうぞ」
「そう?じゃ」
次いで美恵、最後がNAOといった順番だ。
思ったよりそこは狭くはなく、下へ降りるにつれ、身を屈めないで歩くことができた。
そしてこの階段も螺旋。
中央に一本の太い柱があり、それに階段が巻きつくように設計されている。
そして明かりは、この中央の柱全体から、放射状にもれているようだった。
「不思議な感覚ね・・・」
なつきがつぶやくようにいう。
「降りているのに、ときどきふっとのぼっているんじゃないかって、そんな気がするわ」
いま自分がどこにいるのかわからない不安。
どこへ向かっていこうとしているのか、何を求めているのか見落としそうになる。
真闇ならばかえってそんな気持ちにならなかったかもしれない。
ほのかに空間を照らす明かりが、かえって心の奥の何かを暴こうとして、恐くなる。
それでたまらず、何の意図もなく、前の背中に、触れてしまった。
「どうかしたか?」
足を止めて、彼が振り返る。
「・・・ん。ねえ、あなたはどういうときに恐怖を感じるの」
相手は突然の問いに驚いたようだったが、彼女の不安そうな瞳に気づいて、そうだな、とつぶやいた。
「自分の信念を貫き通せないとき、だな」
すでに彼は再び階段を降り始めていた。なつきはその背中に向かって話し掛ける。
「あなたの信念って?」
「別に具体的な例などない」
「へえ、でもそれは、今じゃないんだ」
「当たり前だろ」
なにをいっているんだといわんばかりの、少し乱暴な口調だった。
「何がどう恐いんだ。ただ階段を降りてるだけのこの状況が」
断言するかのようなその強い言葉に、なつきは安心する。
そう。恐くない。大丈夫。
心の中でつぶやいて、彼はいままで恐怖を感じたことがあるのかな、と気になった。
でもそこまで、さすがに彼に立ち入れない。
なつきはほっと息をつくと、まあいっか、と自分を納得させた。
たしかに彼に興味はあるけれど、いまはそれよりもっと優先すべきことがある。
この階段、いったいどこまで続くんだろう・・・?
「目が回ってきますね」
NAOの言葉に、美恵が軽く頷いた。
「本当だよ。まだ着かないのかな」
「ぐるぐるまわって、円の上を歩いているみたいです」
「だって円でしょう?」
その言葉に、美女丸の声がする。
「似たようなもんだろ。円は二次元、螺旋はそれに軸を一本増やしてその方向に伸ばしたようなもんだからな」
ここにいるのは文系人間のみ。図形を考えると頭が痛くなるので、なるべく考えないようにした。
「う、うん、そうだよね」
なんとなく相槌を打ってみたが、どうもよくわからない。
円と螺旋ってイトコのようなものかしら。
美恵はぼんやり考えた。
それは当たらずしも遠からず。
「銀河系も渦を巻いてるんですよね」
思い出したようにNAOがいう。
「あまり専門的なことはわからんが」
そういって美女丸は左の頬を歪めると、どこか遠くをみるように目を細めた。
「生きることは螺旋のようなものかもしれんな。一周して最初に戻ってきたようにみえても、そこは時間が経過したあとの世界で、最初にいたのとは明らかに違う世界だ。むかし聞いたことがある。この世でもっとも美しいのは円だって話を。それは完成された形だそうだ。千利休も意味深いことをいっているぞ」
そこで言葉を切った美女丸に、NAOは尋ねた。
「なんていってるんですか?」
美女丸はふっと笑うと、思い出すようにして、いった。
「稽古とは 一より習い 十を知り 十より返る もとのその一」
人は遠くへ行こうとすればするほど、逃れようとすればするほど、そこへ戻っていくのかもしれない。外側には内側が存在するパラドックスのように。
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