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 隆也は自転車をとばしていた。すっかり日も暮れ就寝前の時間だと言うのに、一目散にグラウンド
まで走っている。
 春の夜空は霞がかり、満点の星空などただでさえ拝めない。ここ暫く、ぼんやりとした月にしかお
目に掛かっていない。
 だが、今夜はそれとは全く関係のない曇り空。もうそろそろ雨が降りそうな雲行き。実際、先程か
ら頬を小さな水滴が数メートルごとに当たっている。
 隆也は舌打ちしていた。もっと早く気付けば良かった。学校は休みでも、シニアの春季大会の為の
練習は毎日ある。忘れ物に気付いたのは家に帰って夕飯まで食べた後だった。
 風呂に入ったはずなのに、既に汗ばんでいる。陽気が陽気でなければ明日まで放っておくところだ
ったが、雨に濡れて悲惨な事になる前に回収したい。
 自転車のブレーキを思い切りかけた。耳に高い音が響いて車輪が地面を滑る。止まった瞬間、埃と
土の匂いがした。少し、地面が濡れている。
 息を吐き出して、隆也は自転車を降りた。建物を避けてグラウンドへ回る。
 目的の物は、暗がりに目を凝らさずともすぐに見つかった。誰かが気付いて端に寄せて置いてくれ
たらしい。
 フェンスの外に置かれたジャージに手を伸ばすと、微かな音を耳にする。その気配に反射的に振り
返ると、薄明かりの中で人影が動いた。
「……──え……」
 誰かがいる。それは分かっていた。だが、それが誰であるかまでは、振り返るまで分からなかった
。
「──よう」
 だから、振り返ってその顔を確認して、少なからず隆也は動揺した。久方ぶりに見る榛名元希の姿
に意味も無く胸がざわついているのに気付いた。
「……元希さん……」
 呆けた様に名前を呼んだ。元希はそれに答えるように笑った。
「何してんだよ?」
 そう言いながら、元希は隆也に近付いた。間近まで近付くと、隆也は少しばかり視線を上に上げる。
 少し、背が伸びている。
「夜遊びか?」
「……元希さんこそ」
 必要以上に、ぶっきらぼうに問い返す。突然の再会の動揺を悟られたくなくて、隆也の態度はつっ
けんどんになってしまう。
「オレが聞いてんだろ」
 隆也の態度に気を悪くしたわけではない。隆也の態度に関係なく、元希はいつでもこの調子だ。
 咎められないことに内心で安堵し、同時に腹立たしさを覚えて隆也は視線を逸らした。
「忘れ物ですよ。雨降りそうだし、明日は休みですから」
「あ、そう」
 自分で聞いておきながら、気の無い返答が返る。一々腹を立てる事も無いと分かっていても、これ
が久方ぶりのやり取りだと思うと隆也にはどうしても我慢なら無くなる。
「元希さんは夜遊びですか」
 問いではなく断定で返してやる。すると、元希は一瞬眉根を寄せてから肩を竦めた。
「夜遊びじゃねえよ。練習帰り」
「練習?」
 思わず問い返す。そう言われてみて、初めて元希の服装に気付いた。見慣れない服装。私服ではな
い制服姿に、隆也は少しだけ焦れた。
「何ですか、その格好」
「格好って……見てわかんねえ?ガッコの制服」
「分かりますけど……元希さんの学校って、そんな制服ありましたっけ?」
「バーカ。これはコーコーの制服」
 隆也は目を瞬く。
「だって……入学、まだでしょう?」
「学校は決まってる」
「え?じゃあ……」
「武蔵野第一」
 元希はそう言って制服の胸元を抓んだ。
「よく覚えとけ」
「覚えとけっと……」
 何と答えてよいかわからず、隆也は溜息を付く。
「そんなの、覚えてどうするんすか」
 呆れたような声音に、元希は予想外に憤慨したようだった。
「せっかくお前に見せに来てやったのに、ありがたくないってのかよ?」
「ありがたいも何も、元希さん、俺に見せるのが目的で、ここに来たわけじゃないんでしょう」
 水滴が顔に当たる。思い出したような雨粒は、未だにひどくなろうとはしていない。そこに少しだ
け安堵する。
「……別に、ウソじゃねえよ」
 少々不貞腐れた様に、元希は呟く。隆也は我が耳を疑った。
「何言ってるんすか」
「だから。別にウソじゃねえって言ってんだよ。じゃなきゃ、こんな時間に、こんな格好でうろつい
てると思うか?」
 そうは言うものの隆也の中で疑問は残る。
「んな訳ないと思うんすけど。この時間にこの辺うろつくなんて、オレ無いですから」
「オレの問題だろ」
「意味がわかんないんだけど……」
 そう言うと、元希は小さく舌打ちした。
「別に、会いたい訳じゃねえって言ってんだよ」
 ますます訳が分からなくなった。仕方なく溜息を付いて、隆也は空を一瞥する。頬に二粒の水滴。
相変わらず、重たい雲は去っていない。
「……そろそろ、空ヤバイですよ。それに、もういい時間だと思うですけど」
 時計は無かったが、自分の出てきた時間を逆算すれば、おおよそで察しは付く。
 煮え切らない元希に、隆也は眉根を寄せた。何を考えているのか、今日は違う意味で分からない。
「……じゃあ、オレ帰ります」
 元希の横をすり抜けようとすると、その腕を掴まれた。
「せっかく会ったってのに、もう帰んのか」
「もう帰らなきゃいけない時間ですよ」
「優等生」
「バカですか、あんた」
 隆也が言い終わる前に、元希が胸倉を掴む方が早かった。
「口の聞き方には気を付けろよ。オレ、センパイだろ?」
 少しの恐怖を覚えて、一瞬隆也は言葉を失う。
「……元、でしょう?」
 努めて声が振るわない様に答えると、元希は隆也を解放する。元希はこれ見よがしの溜息を付いた。
「やっぱ、カワイクねえな……」
「あんたに可愛いなんて思われたくも無いですよ。目上って事は認めますけど、先輩後輩なんて過去
の事でしょ。今のオレには、全くの他人です」
 そう言いながら、胸が軋む。今の元希との関係は数ヶ月前の元希との関係とは違う。改めて自覚し
て隆也は自分が寂しさを自覚していることに気付く。
 秋大が終わった事など、まるで遠い昔のようだ──ミットに放り込まれた球を受け止める度に、隆
也は無意識に溜息を付いている。数ヶ月前の出来事が遠い。そんな自分を、隆也は十分に自覚してい
る。
 シニアの卒業は、中学の部活よりも一足遅れる。冬に近い秋の大会を終えると、主力選手が抜けて、
二年である自分達の代へと代わった。隆也もまた、正式に正捕手となり、その役目を続けている。
 季節が移り変わって冬を過ぎ、やがて春が間近になる程に陽気が暖かくなっていた。基礎練習を重
点に置いた日々も、本格的に試合を念頭に置いたものへと、再び移り変わってゆく。
 その練習風景には、穴が開いたような印象を否めない。こうして構えたミットに投げられる球は程
好い安定とスピードを込めて吸い込まれる。八十球分の荒れ球を捕る事が無くなって、隆也は程好く
安堵し、それ以上に何処か寂しさと虚しさを孕んで毎日を過ごす。
 そこに欠いた元希の存在。今ここにこうしているのに、距離が離れている事が隆也を苛む。
「……他人、ね……」
 元希が呟く。そして喉を鳴らすような笑いが隆也の耳元に近いところで響く。
「その他人に……お前、イロイロされたんだっけな」
 元希が耳元に吐息を吹きかける。背筋を這い上がる感覚に、思わず隆也は身を竦める。
「何されても、嫌がんなかったけ」
「……強制したじゃないか……」
「きょうせい?」
 目を見開き、元希は鼻で笑った。
「キョーセーされると、オマエは男にブチ込まれてもモンク言わねえんだな。ナルホドね……」
 元希の語尾が消えると同時に、隆也はびくりと体を震わせた。元希の手が、隆也の前を弄る。ズボ
ンの前でも、指の一本一本が鮮明に伝わる。
「や……やめ……」
「ヤメテ欲しいのか?」
 元希の笑いに、体中が熱くなる。
「ちょっと触ったくらいで反応するくせに」
 上手く息が吸えない。全身の熱と久しぶりに感じる感触が、隆也から思考を奪うようだった。
「さ、わんな……っ!」
「触らせんのはオマエだろ」
 ジッパーに元希の指が掛かる。
「いい加減なこと……っ…」
 開けた隙間から指の侵入を感じて、隆也は思わず腰を引いた。冷たい感触が、ゆっくり滑る。薄い
布越しの上を這ってゆく指使いに自分でも可笑しいと思えるくらいに体が反応してゆく。忘れていた
感覚は馴らされていた頃に直様引き戻される。その動きに、体が、頭が、隆也本人を押し退けて期待
している。
「やっぱさ……オマエってインランだな」
 笑い声は、隆也の頭の上に響く。足が地面に踏み止まれない程、頼りなくなっている。
 吐き出す呼吸が熱い。先程とは別の意味で体が汗ばむ。奥底にしまってあった物が、元希の指が這
いずる度に引きずり出されそうで溜まらなくなる。
「タカヤ」
 名を呼ばれて、恐る恐る顔を上げる。どきりとしたのは、予想に反して笑みが浮かんでいなかった
からだった。
「……お前さ、オレがいなくて、寂しかったりした?」
「……はあ……?」
 意外な問いに、隆也は驚きで掠れた声を上げる。途端、元希が体を擦り付ける。
「……っ…!」
 押し付けられた、元希の固くなったもの。
「何、コーフンしてんだよ!」
「……条件反射だろうな」
 元希の声が、ひどく近くでする。顔が見えない。耳元に、言葉は直接届く。
「どうやら……溜まってるらしいんだよな」
「……!人を都合の良い道具みたいにっ」
 不意に耳朶が温く湿る感触。感じた事の無い快感は、瞬時に隆也の全身を巡る。
「なあ……ヤラセロヨ」
「……イヤだ!」
 小さく怒鳴る。怒鳴ったにも拘らず、隆也は動かない。否、動けない。
 顔中が熱い。何故だろう。今までと、何処か勝手が違う。きつい束縛ではないはずなのに、隆也は
元希から逃れられない。何より、逃れようとしているのかも、疑問が湧いた。
「……あ、そう」
 元希は暫くして、あっさりと顔を退けた。
 隆也は目を瞬く。安堵と、別の何かが同時に湧く。その感情の名前に隆也は顫える。
 顔を上げた元希は、隆也を見た。瞳を覗き込まれて、隆也は身が竦む。
 元希が、笑う。
 悪戯を思い付いた様な、それでいて純粋な笑みは、すぐに隆也の視界から消え去る。
「──っっ!」
 呼吸が強制的に止められる。唇に当たる、別の唇。柔らかくて温いものは、隆也の唇を急激に濡ら
す。
「…んっ」
 一旦離されたが、再び塞がれた。体勢を変えるためだけに離されただけだった。
 驚いた隙を突いて、更に柔らかいものが口の中に押し込まれる。ぬるりと、口腔でうねって絡んだ。

 咄嗟に隆也は元希を突き飛ばした。元希はよろめいて踏み止まる。
 隆也は肩で呼吸を繰り返した。まるで別の生き物のようで粟立つと同時に、不思議な快感が奔った。
「……キモチ悪ぃ……」
「それはこっちのセリフだ!」
 元希の呟きに、反射的に怒鳴り返した。心臓が早い。俄かな酸欠状態に陥っている。
 元希は隆也を一瞥すると、舌打ちした。
「慣れねえコト、するもんじゃねえな」
 そう言って元希は口元を拭った。胸が軋むような感覚を覚えて、隆也は慌てて視線を逸らした。そ
う感じる理由はよくわからない。
「……何するんですか」
 声が震えないように吐き出す。怒りとは裏腹な気持ちが今の隆也には強く感じられる。
 元希の笑い声がした。
「何って、キスだろ」
 言葉で聞くと、羞恥心が存外湧いた。
「何のつもりかって言ってんだよっ」
 視線を逸らしたまま、隆也は溜まらず怒鳴った。途端、その顎を掴まれた。
「キョーミホンイ?」
「……あんたは……っ」
「お前に何したと思ってんだ。今更いちいち聞くなよ。それとも、何かキタイでもしてるのか?」
「期待って……」
 覗き込む瞳に、嫌なものが浮かんだ。
「やっぱり、したいのか?」
 元希の唇がゆっくりと動く。
「セックス」
 思わず突き飛ばす。ある程度の予想はあったのか、今度はそれほどよろめく事無く、元希は一歩だ
け後ろに下がった後、隆也の胸倉を掴んだ。
「離せ!」
「いちいちアタマ来んな」
 元希の表情は冷たい。怒っているのはわかるが、それよりも何か別のものがある。明確に言葉に出
来ないが、それが感じ取れた。
「オマエさ……ホント、ウザイ」
 何を言いたいのかわからない。それでも、言われたことの意味はわかる。
 元希は顔を背けて舌打ちした。
「オレの思い通りに行かないのが、ムカつくんだけど」
 隆也は怒りで熱くなった。
「オレはアンタのオモチャでも何でもねえんだ!」
「……黙れよ!」
 言うが早いか、二度目の唇への束縛。反射的に唇をきつく閉じる。それでも無理やり舌が唇を割っ
た。元希の舌は、隆也の歯で遮られた。歯の上を乱暴に舌がなぞった。
 元希は乱暴に隆也を突き飛ばした。隆也は息を吐き出した。苦しさで溜まらずその場に崩れ落ちる。
 近づく元希に、反射的に顔を上げる。
 見下ろされる視線に、隆也は知らずに竦んでいた。元希の唇が動いた。
「ホント……ムカつく」
 吐き捨てられた。
 元希は踵を返した。まるで何事も無かったかのような静かな足取り。それを見送りながら、隆也は
呆然としていた。
「……何だよ、あれ……」
 驚きと戸惑いが綯い交ぜになって、ただ呟くしかなかった。
 唇に痛い程の生々しい感触だけが残る。代わりに、あれだけ這い回っていた全身へ帯びた快楽は、
跡形も無く消えていた。
「……何なんだよ……」
 完全に視界から元希が消えて、もう一度呟いた。
 何だか分からない。行動の意味が不鮮明で不確かだった。
 頬に当たる水滴に、今ようやく気付く。
 隆也は緩やかに空を見上げると、それが合図のように雨粒は俄かに降り出した。
 音を消す静かな雨は、それまでの時間を否定するように降り出した。暫くすると、土の匂いが満ち
てくる。
 その水滴は、冷たい。緊張と興奮で熱くなった体から、急激に熱を奪ってゆく。
 自分の腕を擦って、隆也は立ち上がった。
 そして唇を拭う。何度も、乱暴に拭う。
 けれども、その感触は消えない。歯の上を辿った舌の感触も消えてはくれない。
 手の甲で何度も擦りながら、唇に痛みを覚える頃、頬は水滴で濡れていた。
 胸が重かった。そして頬が熱かった。
 隆也は顔を覆った。泣いているのか雨の所為なのか。
 ただただいたたまれず。溜まらず、声を上げずに叫んでいた。