★ロコさんからいただいた
 貴重な体験談を
 掲載させていただきました。
 時間・空間を越えたすばらしい体験を
 垣間見ることができます。


★ロコさん

●戦前の記憶の一部を、興味ある人の為に書いてみましょう。
当時は女性のほとんどが着物姿で野良での立小便は
全く普通に見られる田園風景でした。小学校4〜5年生くらいまでは
現在と同様な膝を開いたうんちんぐスタイルで立ちションを
やっている子供の記憶はありません。当時の私もその年代でしたので、
我が邸内にある長屋の小娘たちと遊んでいてしばしば、
われめから放出する勢いを観察する機会がありました。
桃色の内部構造の上方に三角形の小突起があり小便は
その下から放出されている事も判りましたが、信じられない事に
その下の方に穴らしき物を確かに見た記憶があります。
ま、幼い子供の記憶ですから大目にみてください。ちなみに
私の生まれた新潟では女性器を貝子(カイコ)と呼びますが 

私の記憶に残っているのは30代後半以上のおばさんっから婆さんまでで、
やはり年頃の女性は抜けています。着物の前を軽くめくって
足を半歩開き腰を前
かがみにして腰の引き具合で加減しながら足にかけないように
下方に放出していました。見慣れた風景なので通りかかる
人も何事もなげに「お晩なりました」などと挨拶を交わしていました。

100円ショップ「ダイソー」でこのHPの趣旨にあって
陽子管理人はじめかなりの人に楽しんでいただけるのでは、と思
われるマンガを発見したのでご紹介します。
ダイソーコミックシリーズ52の「オサムとタエ』村野守美作全一冊です。
オサムは小学3〜4年生の野生児、タエは小6〜中1の色白娘で
気の強さと優しさを兼ね備えた陽子さんタイプ
さらに胸ありツルピカの典型的美少女型ボデイの持ち主であることが、
温泉にオサムと混浴するシーンで判ります。
この2人が漁村で繰り広げる懐かしくエッチな生活は必ず思春期えの
複期願望を引き起こすと信じます。
100円で買える夢としては極上と断言します。

小学校に入る前の年、近所の同年の四郎さ
(方言でさんの省略形)に引き止められて「お医者さんごっこ」の
見張り役をやらされた事があります。茣蓙を敷いて3本ほどの傘で
目隠しした中(袋小路状の裏庭です)に一年下の女の子キセさが、
着物姿で寝転んでいました。四郎さは中に入ると、
早速着物のスソをめくりに掛かりましたが、当時の常で袷の着物の下は
この年ではノーパンで小麦色のワレメがつるりと露出され
医者役の命令によって脚を開いてピンクゾーンの全貌を公開した訳ですが、
普段女の子の放尿を見慣れていても、目的がエッチにあるので、
キセさの姿を見ただけで私のものはピンピンに突っ張っていました。
四郎医師はピンクゾーンのあちこちを指で突いたり撫でたり
もっともらしく振舞っても、患者キセさは『痛い、乱暴」と不機嫌で
「早うベッチョウしよういね」とセックスの催促です、
当時子供でもベッチョウとは貝子の中にちんぽこを入れて
気持ち良いもんだと漠然と知っていました。
続きは次回に書きますが、あまり期待せぬように・・・

見張りにされた私は目隠しの番傘の間から、口の渇くのを我慢して
ドキドキしながら一部始終を見守っていたのですがキセさの発言で
次なる展開を予想して、立って居られなくなり茣蓙の隅に座り込むことに
なりました。見張り失格ですね。
当の四郎さは経験があるらしく、落ち着いて自分のちんぽこを取り出すと
(着物か服か忘却)ちっちゃなウインナ状のやつの先っぽを簡単に剥き
赤い亀頭を露出して構えました、
いよいよ本番! 四郎さはキセさの開いた脚の間に入って腕を脇の下に立てて
正常位の体勢でちんぽこでワレメ(貝子)をこすりながら上体を
キセさに密着させ開いた脚を閉じさせ、抱き合ったまま、腰を動かすのです。
つまり挿入なしのいわゆる「すまた」になった訳で、
ご期待にはそむきますが、粘膜どうしのこすり合い、
特に貝子についてはピンクゾーンの敏感なパーツは
洩らしめなく摩擦されるので子供ならずとも安全かつ充分な
代用セックスと思われます。
さて、二人は向き合ったまま横になり双方とも激しく
腰を使っていましたが特にヤマ場を迎えた様子もなく離れました。
そろそろ、字数制限が気になるので次回に続けます。

とにかく医者役と患者役の二人は満足げに離れましたが実際には
陽子さんの『小学生の頃」に出てくるおチンチンどうしのキスと
大した違いの無い行為であった訳ですが、幼児であった私達には
ものすごくショッキングで、本当のセックスをやったのだと信じられました。
当の二人はすでに何回かやっていて、至って平静で
「次お前さんやりなさい」とキセさと口を揃えて医者の交代を
求めてきましたが、気が弱くて一人遊び(オナにあらず)が主で
姉妹以外の女の子とはほとんど口もきかない私のこと、
挨拶もそこそこにズボンの中の、つっかえ棒を邪魔にしながら
走って帰りました。
このあとしばらくは「あの時やればよかった」と本当に思いました、
小学前の幼児でも刺激次第で性欲を感じるものですね。
しかも、数年後「いじめられっ子」にされてから、
四郎君から「あの時2・3回やったくせに」と
難癖をつけられることになりました。
当時の方針で男女は顔を合わすことも難しくキセさんの証言は期待も出来ず、
乾く事なき濡れ衣に悩まされました。
 戦前白色テロが乱発した時代です。

陽子さん「おチンチンの絵と体験談」嬉しく拝見しました。
絵については決して美しくはないが(物が物だけに当たり前か!)
エロくてそれらしい迷画と思います。包皮の先端の書き込みは、
すでにかなりの直径まで伸張可能である事を示しており、
陽子さんの指で簡単に、おそらく最後まで剥くことが出来たはずで、
やって上げるべきでした、その際わずかの痛みを感じたとて、
大好きな陽子さんの手で大人に近づけた喜びは一生の思い出となるでしょう。
ちなみに、私が火星人になったのは中学1年だったと思います。
男の子は3歳くらいから親が剥いてやるのが衛生上望ましいと
泌尿器科の大先生が書いて居られました。男兄弟が居ると、
つい見習って幼児でも剥けるようになるのは私の見学記に書いたとうりです。
思春期には男の子にも悩みはあります、おチンチンの大きさもさることながら、
包皮先端の一時的肥大からおしっこの集中が悪く散水状態になって
便器に収まらなかったり、ちょっとの刺激で直ぐ立つたり。

いつも時代離れした話題で申し訳ありません。
中学2年の初夏、(戦況は一方的に日本有利に展開していた頃)
私は軽い左肺結核で3ヶ月の自宅療養のため休学しました。
ご承知と思いますが当時小学6年生までは尋常科と言って希望すれば
男子は中学校(5年制)女子は4年制の女学校に受験進学残りは高等科として
小学校2年残ることになっていて
中学に入れば全くの女っ気なし、女学校とは町まで違うのが普通でした。
すさまじい戦時教育から開放された反動と退屈しのぎから手近にあった
文学全集を読み漁り島崎藤村の詩や徳富蘆花の小説に青春のすばらしさを知り
感動したのも現代の人には笑いの種でしょうね、両方とも文語文ですから、
でも、私にとって初めて自分も青春期に足を踏み入れつつあるのだ!
との実感を知るのに、相応しい美しくも誇らしい文体と感じました。 
次回はお隣のお姉さん達との交流を書くつもりです。

私の休学は確か6月からで、夏休みを加えて実質4ヶ月の療養となります。
私の寝ていた部屋の向かい10米、杉の生垣を隔ててお隣の伊藤家が
ありました。ここの姉妹は男一人に女三人の構成で末娘は房子さんで
私の1年上の元気で可愛い新津の女学校の3年生、その上が新潟中学4年生の
秀才・清さん、次が私の上の姉と同級生の秀子さんで近くの町の軍需工場に勤務中、
一番上がおそらく更に2年上と思われる邦子さんで、女学校卒業後胸を悪くして、
ずっと自宅療養を続けて居られるとは聞いていたが殆ど見ることも
無かったのですが、同じ病気だと聞いて、わざわざ私の部屋の縁側まで尋ねて
見えたのです。すらりと均整の取れたスタイルに色白の優しい顔立ち。
枕もとの日本文学全集を見て「誰の作品ですか」「蘆花を読んでます」
「不如帰ね」「いや思い出の記です」「あら私は未だ読んでないのよ」
といった会話があって邦子さんっは帰って行きましたが、
創作だったら有名な「思い出の記」の告白場面、本の内容を話すと
見せて自分の切ない想いを小説の主人公の言葉として語らせて成功するのを
試みるところ、中2の軍国少年には、思いも及ばぬことでした。

エープリールフールの趣向・完全に一本取られました。
こんな他愛も無い遊びが、自由にできる世の中を大切に守ってゆきましょう。
二度と暗い統制された世にならないように。
ところで、療養中の私の前に現れた女神のように美しくも優しい
邦子お姉様ですが、それからは毎日のように、まだ微熱が取れず
食欲もないので、床を離れられない私の前の縁側まで来て療養のしかた等を
主に話してくれました。
それまで無骨な軍国少年になりつつあった私には、なんとも不思議な
胸のときめきで、初めて文学書に接した感動とともに、
自分の青春(死語?)を実感された一瞬でした。
当時ラジオに「国民合唱」と言う番組があって日に数回易しい合唱の指導を
やっていました、丁度その時古い唱歌の「夏は来ぬ」が邦子さんと
私の部屋に流れて来たのです、そのトップの歌詞は
「卯の花の匂う垣根に・・」とあるのです。
「卯の花ってどんな花ですか?」と日頃の疑問をぶつけて見ると
「丁度今ごろ良く見る白い花ですがね・・」と両者不得心のまま別れました。

さて、越後は新津に話を戻して、邦子さんと卯の花について話した次の日、
私は微熱もとれて、さわやかな気持ちで柿青葉など眺めていると
境の杉垣の入り口から顔も隠れる程の白い花束を抱えた若い女性:
もちろん邦子さんが、こぼれんばかりの笑顔でやって来るのです。
当然、私の顔も・・ご想像にまかせます。
「これが、卯の花!偶然手に入ったのでお見舞いを兼ねて」と、
透き通るような手で、在り合わせた花器にいけて頂いた小粒で純白の花房は、
清楚で優しく邦子さんと美しさでも負けないと思いました。
甘い花の香は贈り主の帰った後も邦子さんの面影を伝えて、
優しい夢を少年だった私に送り続けた訳ですが、決して香りをオカズに
一人エッチなどしてません、当時は自涜(じとく)と呼んで有害行為と
されていましたし、一応、病人ですから・・。 あと、一回続きます。

卯の花を頂いた後、私は寝床を離れて庭を散歩したり
(探検できるくらい広大な邸に生まれました)本を読んだりの、
いわゆるブラブラ病人の生活に入ったのに、心待ちする邦子さんは
一向に姿を見せてくれません。そのうち病状が悪化して大量の喀血の後、
絶対安静中との情報がありました。
お見舞いに行くべきや否や、迷いに迷ったのですが、自宅にあっても
当然面会謝絶、同病であっても部屋に入れないとあってあきらめました。
私には、あの真っ白い顔から大量の真っ赤な血を吐出する凄惨な光景は
想像してもショッキングなものでした。 
かくして私の病は順調に快方に向かい2学期には学校に復帰し、
1年後の秋には住み慣れた邸を処分して一家族で大陸は大連に移住し、
年を越えて直ぐ邦子さんの訃報に接する事になりました。
私の邦子さんのイメージは卯の花を胸いっぱいに抱えた姿で
それが家族以外の人に見せた最後の姿であり、
私の遅い初恋であったかも知れないと思っています。

あの時、すぐ翌日に、卯の花が手に入ったのか、
本人は偶然と言ったけど、我が家の周辺にも町の花屋にも無かったはずで、
おそらく伊藤家が以前に住んで居られた小学校の近くの川端の家から、
貰って来たものと推定されます。ちなみに邦子さん等のご母堂は
古くからの先生で「川端の伊藤先生」と呼ばれた方で、
停年後私の邸の一部を購入されて新居を建てられました。
それにしても、自身は外出しない邦子さんが、
どうやって花を手に入れたか?の疑問はのこります。

中学2年生の肺浸潤自宅療養中のエピソードです。
隣の伊藤家の末娘房子さんは、私より1年上ですが、私は列車で45分ほどの三条市の、
房子さんは地元新津と学校も離れている上に、女生徒と口をきいてはいけないとの不文律から、
たまに会っても目礼を交わす程度の仲でした。
夏休みに入って間もなく、夕食後、お隣の庭からハーモニカの音がするので、
行って見ることにしました。事によったら
しばらく会っていない邦子さんの顔が拝めるかも・・
との期待もありました、吹いていたのは長男の清さんで、
前庭に縁台を据えて蚊取り線香を焚き、浴衣姿の房子さんと二人で、
ランニングとズボンに下駄ばきの私を聴き手として掛けさせてくれました。
清さんのハーモニカ演奏は定評のあるすばらしいもので、しばらくは美しい音色に聞きほれたのに、
所用があると演奏家は途中退場して、夏の夜の縁台に房子さんと二人だけになってしまいました。
それによく見ると、浴衣の下はノーブラで脇開きの所からいわゆる下乳が薄闇の中でも見てとれるのです。
姉の胸など何度も見ているのに、この時には頭の中が真っ白になるほど興奮しました。

当時の女学生は上はセーラー服下はモンペ(お祖母さんにでも聞いて)の戦時服で
房子さんは胸があるので手製のブラを着けているのが白いセーラー服を透して判りました、
手製と断定したのは姉達が切符で買える衣料品目にブラが無いと嘆いていたのと、
伊藤家の庭に干してあるのを見たからです。決して下着ドロをする気で調べた訳ではありませんので念の為・・・

遅くなりました。とにかく始めた話は終わってしまえます。
普通浴衣に脇明きなどあったかなと自分でも疑問はあるのですが、
確かにあったのです、そして、そこから白い乳房の根元のふくらみが見えました。
思うに家で着る夕涼み専用の浴衣と思います。本人はエッチな露出に全く気づいてないと見えて、
清さんの座っていた私の隣にすり寄って来るので純情な中2坊主としては、
内心パニック状態で平静らしくふるまうのがやっとでした。話題として、
まず邦子さんの容態を聞いて見ると、大喀血の後ずっと体力が落ちて奥の部屋から
出れないが病状の悪化は無いとのこと、次に房子さんから双方の学校の状況について
質問やら説明やらで、デートらしいムードになりそうにも無かったのですが、
話題も切れると蛍の飛ぶ快い夏の夜、若い男女で二人だけというお膳立てを意識せざる得ません。
いつか房子さんは私の腕に密着して来て体を擦り付ける様にするので、どうしたものか迷いました。
勿論そんな房子さんが可愛くないはずもありませんし・・。

丁度その時、杉垣の向こうで、母の呼ぶ声がして、房子さんも慌てて離れたので、
私も「さよなら」と立ち上がり、未完成ラヴシーンは名残惜しく終わりました。
その後房子さんとは一切特別の関係も無く、ただ一夜の
淡い夢となりました。
ちなみに私は4月生まれなので房子さんと学年は下でも実質的にはほとんど同じです。

実は私事ながら、昭和2年の今日4月15日が誕生日で、
その15年ほど前の同日に彼のタイタニック号沈没が起きているとは
陽子さんの目次前の書き込みで初めて知りました。とにかく生きて「喜寿」を迎えたのに
感謝と言うより、信じがたい感じです。 
陽子さんの心を打った戦争映画「軍閥」は見ていませんが、
昭和20年8月、突然のソ連軍侵攻で当時まだ18歳だった私も
特例根こそぎ動員で鮮満国境近くに狩り出され、終戦の日に到着したので、
召集解除となったけれど、ソ連兵の目には非武装ながら敗残兵に見えるのは必定、
それから後はシベリア行きと大連への帰宅とのデッド・ヒートよろしく、
滑り込みセーフで無事帰還、つまりギリギリ戦場を踏んだ事になります。
それから数年間いろいろの視野から、砕けた価値観の再構築をやった結果が
陽子さんの感動されたセリフの意味「負けたから今日の平和で自由な日本がある」
負けるためには戦わねばならないので、
「我々戦中派はアメリカと戦って敗れることで現在の日本を創りあげた功労者だ」
と胸をはって言えます。エッチとは縁遠い話になって恐縮です。

実は男だけの戦場間近が舞台とあれば野グソやフンドシやら秘密の話題も
あったのですが若い人には異次元の話と切り捨てました。
次にもし日本が勝っていたら、威張ることだけが楽しみで昇進した軍人達が
狂信的正義感で、統制し人命を軽んじる世の中を造るのは必定でしょう。 
「陽子の秘密の部屋」も閉鎖命令、管理人は銃殺(これはウソ)となります。

皆さんからいただいた体験や小説です。の目次