★ロコさん
●新潟に居た当時は女の子の放尿を眼にするのは幼女かおばさんに限られ、同じ小学校に通いながら
口もきかず顔も見ないの不文律がはっきりと守られていました。それでも雪のある間は通学路のほとりの
小屋の裏とか藁積みの影とかに明らかに女の子のものと判る痕跡が深く刻まれているのは男子連も
先刻よくご承知の事実でした。顔もはっきりと記憶に無いので、わざわざ危険を冒してまで、
同学年の女子の現場を見たいと言った欲望は誰にも無かったようで、ただ、
1米以上ある雪に彫りこまれた黄色い穴のスケールが、パワフルで容量も深さの点でも圧倒的なのに驚いたものです。
6年生の時、悪童の一人がこの黄色い穴に自分のチンポコの根元まで突っ込んでおしっこをして
得意になっていましたがズボンの前がぬれて、みっともないので、誰も追随する者はいませんでした。
冷たい雪の穴とは言え女の子のわれめに関連したものである
から、そこに突っ込みたい気持ちは私にも良く判りました。
ちなみに、この冷たさでは、エレクトなど起きる訳もありません。それから、
平地はすべて田んぼと言うこの地方では、風の日の地吹雪がすさまじく、
歩き固めた道など直ぐに平地化して地吹雪で視界が殆どゼロに近いのに加えて全く方向が判らなくなって、
顔に吹き付ける雪で呼吸困難になって死亡する事故も大正時代から昭和初期まであったそうです。
私が小学校に通う頃には、町外れの田んぼの続く地方には15米間隔くらいに小さな小屋が建てられ、
次の小屋まで角巻き(毛布状の防寒具)などで顔を保護しながら走る、
を続けながら次の村まで行ける設備?がありました。
この小屋は、地面に固定されて無く、四隅の外に高い柱があって積雪に応じて雪上に
小屋を固定するように出来ていました。トイレはと言うと小屋三つに一つ葦簾を三本の竹に
固定した囲いを使用者が風向きによって雪に刺して使う超簡易のが付属していますが一冬持てば上等でしょうね。
あと、冬の大連の公衆便所に夜間不用意にしゃがむと、
凍った糞便のエベレストにお尻を破られる事があるとか、あちらの4才くらいまでの子供は用便の便宜上、
零下10度くらいでもズボンの後ろに穴を明けてお尻丸出しで平気で外で遊ぶとか、
とにかく色気の全く無い話ばかりなのでこれで中止します。
私の中学時代後半は大陸:大連で殆ど学徒動員として某鉄工場で鉄道車両を作らされましたが、
女学生も事務員として来ているのを見掛けましたが肝心な現場事務所には顔も見せず
専ら満人の姑娘(クーニャン)が誇らしげにお洒落をしていました。
私は身体の線の目立つ支邦服のスリットから見える太腿にけっこう気を取られていたのですが、
私の組の第一人気は、終業後油だらけの制服で4列縦隊で「花も蕾の若桜♪五尺の命引っ下げて♪・・」と
「学徒動員の歌」を歌いながら行進して1km、電車の終点となっている広場の端の一軒の家の前で
整列解散するその家にあったのです。森下と表札にあったように記憶しています、
私達の組の整列する定位置の正面の窓は同年輩の女学生の部屋で中が良く見えました
おそらく始めは偶然だったと思いますが、私達が整列して連絡を受けている時、
当の森下さんが突然立って私服に着替え始めたのです。
4年A組40人の前では大げさで少なくとも10数人の視線を集めながら
制服のセーラー服上着を脱いでスリップ(判るかな?)姿を披露してくれたのです。
当時はブラを着けるのは少数派ですから当然ノーブラでB地区が再生繊維の生地を透して
うっすら見えたような気がします。下は紺色のモンペですがすりガラスであるし当初は履き替えませんでした。
私服はおそらくセーターでした。
その後、丁度時間を合わせて毎日着替えて見せてくれるので
学校学年名前はすぐに調査され、隊列の具合で見えない者は私のように見える位置に臨時に替わってもらう騒ぎでしたが
先生と他の組には秘密を守り通せたのは奇跡のようです。
その後スリガラス越しに白いズロース(死語)を見せてモンペの履き替えもやって
明らかに意識しての行動と意見一致しました。
現在地の再生繊維の工場に勤務始めたのが昭和22年研究室勤務となったのが24年でした。
この頃は食べるのに殆どの金と知恵を使って着るものは「あれば良い」程度の扱いでしたが女の子も似たようなもので、
例によってノーブラが大半で、モンペがスカートに替わったくらいで、引き揚げ後6年生に戻った末の妹など、
友達に合わせて裸足で通学していました。30年代になってようやく男女とも服らしいものを
着れるようになっても下着はスリップ・ズロースが主でノーブラが普通でした。何故知っているかと言えば、
私の恥になることですが、バスに乗った時、女の子の後ろに立って肩越しに襟首を覗き込むと、
おっぱいの70%くらいは見ることが出来て時にはB地区の先まで鑑賞出来たからです。
ブラが普及してからはこの密かな楽しみも無くなりました。
陽子さんのエッチ体験の多さ:遭遇率の高さには私も驚いているのですが、
若い貴方がうらやましがるのですから、「そう言う時代になったのだ」では片付かない物があるのですね。
それは陽子さんの人格ですよね!
男女の差別無く公平に与えられる優しさ、相手のプライバシーについての心配り、
旺盛な好奇心と観察力(決して相手を傷つけないで)更に持って生まれた美貌(想像と証言から)
これくらい揃えれば冗談でなく「女神陽子」ですよね。自然と身も心も許せる友達が輪のように集まって来るし、
見せっこ、触りっこも信頼と平等それに優しさが、基本にあるから簡単に成立するでしょう。
忘れていましたが、前述の好奇心には人をエッチにさせる「妖子ビーム」が含まれているかも知れませんね!!
陽子さん、若し気にさわる言葉があったらごめんなさい!!
S35年頃当時珍しく5月の3連休が実施されてチエーングループとしては、
例年の小旅行を拡大して宮崎・鹿児島を中心とした車中二泊指宿一泊の大旅行を計画しました。
終業後夜行列車に乗り込んだ一行は早朝の宮崎で貸切バスで日南海岸をサボテン公園まで南下、
折り返して宮崎駅から列車で都城を経て西鹿児島駅に到着、枕崎線の指宿駅からリムジンバスで
観光ホテルに着いたのは5時くらいでした。間もなく大広間で全員揃っての宴会となりましたが
女子の8割くらいは備え付けの浴衣で一段と艶めいて見違えるほど、名物のイカナゴの酢漬けや
豚骨料理の酒宴が始まると私をふくめ10名くらいのグループは女性群の動きにそれとなく注目し始めました。
最終的にほとんど混浴状態になる此処のジャングル温泉の構造についての情報を入手して、
同席の女性は宴会たけなわの時を見て入浴すると読み退席始めたら、すかさず欲情ならぬ浴場に打って出る綿密な計画を
交わした悪童連です。
女性達は三々五々退場はじめました、チャンスとばかり私達もこっそり抜け出し浴場に急ぎました。
脱衣場は男女分かれてあり裸になって戸を開けると薄暗い階段が下に向かってあり壁はなんと葦簾が立ててあり
片側は平行する男女の通路の境となっており、葦簾の高さは180pほどあるのでのぞくのは無理でも
裸で並んで歩いている実感は感じられます、やがて通路は左右に別れ第一の浴槽のあるテラス状の
二階の左右の扉に各々出ます、ここは男女間に壁がありごく普通の浴場ですがてすり側は開放されていて
広大なジャングル浴場が見渡せます。聳え立つ熱帯樹とハイビスカスやブーゲンビリア等の花や
パイン・マンゴー等の香りに囲まれた温泉群が眼の下にあれば内気な女性でも降りて見たくなるのは当然でしょう。
それが男性達の勃起を誘発するとしても。
私達は2〜3個の浴槽(ジャングル風呂)に分かれてテラスの女湯を監視しました。
やがてスリット状のせまい視界で走査されながら同僚の女性達が入って来ました、
いずれも若々しく圧倒的に美しかったので嬉しくなりました。手前味噌という事でしょう。
最後に50歳くらいの裸像が現れて驚いたのですが、女子寄宿舎の舎監S先生で女寄生の参加者が多いので
特に監視役を申し込んできたとの事、まず、若い娘のパワーに押し出されて40代と思われる3人のおばさんが
一本のタオルで胸を隠しもう一本のタオルで前を隠しながら螺旋階段を下りて来た、
殆ど側面も無いので股の間の一番大切な部分がしっかりと確認出来て思わず勃起しました。
私の夢精場面でも白く抜けていた部分です。
さてようやく私のグループの女性連が集団で降りて来ました。
気絶するほどの期待でよく見ると全員胸から膝下までバスタオルできちんと巻いて一分のすきも無く、
無数のジャングル風呂ものぞくだけで、指一本いれずに見学していました。
これはお客人であるA先生はじつは鹿児島の出身でこの風呂についてもよく知っていて、
古いタイプの使命感から寮生と若い女子を守らねばならぬと自ら希望してパーテイに紛れ込み厳しい規定を守らせたので、
決して全員の意思とも思えず「要らざる事を」でしょう。しかし湯を覗くことをゆるしたのは、
たくさんの生チン勃起チンを目撃するチャンスとなり某管理人が居ったら歓喜したでしょう。
私達男性はホテルのタオル一本だけを腰に巻いて浴槽の間の薄暗いジャングルを先回りしては喚声を上げさせて居ましたが、
小さなタオルでは90度以上の角度のマグナムの収納に限界があり赤色発射口を露出させる事になりますが、
これも観覧料の一部としたらやや不公平の気もします、その年高校から入社した普段無口の娘がたった一人私の目の前で
(他の娘の少し後ろで死角になっていた)で一瞬タオルをほどいて巻き返す芸当を披露したが、
まさかの奇襲で肝心のポイントは全く記憶にありません。
この新入娘(仮にD子さんとします)の行動は一緒に居た悪童仲間も気づかない程存在感の薄い娘だったのです。
実はこの年岡山に新繊維の子会社を作るプロジェクトが発足し、その製品検査の技術見習として
出向して来た15人の一人がD子さんであり、15人ともコーラス部に席を置き、テノールの事実上のリーダーであった私とは
毎日のように顔を合わす仲だったのです。それにしてもおとなしいD子さんの大胆極まる行動は謎でしたが、
数ヵ月後に5人だけ残して10人は岡山に帰り新人と交代しましたが、残留者は希望によって決めたとかで
D子さんも5人のうちに入っていました。その職場に配転された親友K君が「D子さんの残ったのは
貴方が目標だったからだそうな」と教えてくれたので、指宿での謎が解けたような気がします。
あれだけ大胆にプロポーズの仕掛けを作っておいてなんの話もなかったのは、
丁度その頃現女房との縁談が成立したとのうわさが流れたせいでしょう。