★ロコさん
●今晩は! 中学2年生の夏、肺結核の初期で休学し自宅療養をしたことは前に書きましたが、
どうやら回復して2学期の始まりには復帰することになりましたが、
初登校の日に通学列車の窓から、今なら信じられない光景を見たのです。
通学列車は私達の学校のある三条駅が終点で、その数百メートル手前に
五十嵐川と言う清流が流れて鉄橋が掛かっているのですが、川の駅側は砂場となって
中学校の水泳場に使っていたのですが、そこに小学校のおそらく4〜6年生が集合して
先生を先頭に川の中央に向かって走って来るのです、男の子は我々と同じ黒の水褌(すいこん)
今で言うサポーター女子は手持ちのワンピースの水着やブルマーに体操服低学年はブルマーだけで
上は裸と言ったスタイルで、衣料品の手に入らない当時(昭和17年)の精一杯の姿です。
ここで目に付いたのがまだうら若い女の先生が一人、
自分の受け持ちの子供と同じにブルマー一丁で若々しい胸を露出させて、
水しぶきを上げながら鉄橋のすぐそばを駆けて来たのです。
駅に近いのでスピードを落としているので良く見えたし、
一週間以上もこの水練に遭遇しているので決して色ボケの見間違いではありません。
当時、田舎ではオッパイを人に見られる事は今ほど恥ずかしいと思われてなかったのも事実で、
二十歳くらいの若い子持ちでもバスの中で堂々と授乳するのが普通の光景でした。
この先生はどう見ても学校出たての新入教師でバリバリの戦時教育を受けて、
お国のためなら少しくらいの恥ずかしさなど・・・と張り切って居たに相違ありません。
周りの教師が注意もせず受け入れていたのも奇怪至極ですが、
私とともにこの有難い光景を眼にした友人たちも黙って見つめるだけで口に出して
騒ぐことも無かったのも異常といえるでしょう、統制された学校教育は、
いわゆるマインドコントロールで「生きる喜び」とか羞恥心とかまで私的感情として
否定し封印してしまえる恐ろしい物だと今は思い、二度とあってはならないと思います。
(おかげで良いものも見られましたが)
またしても、古い話で恐縮ですが、男の子の発育にも、
かなりの関門があって、思春期の少年は悩まされたものです。
包茎からの脱出は今まで割りと話題になりましたが、
私の記憶でも一番はっきりしないのが、精通(初射精)ですよね!.
いつも遊びに行くお寺で雑誌を読みながら、おしっこをこらえるために、
おちんちんを畳にこすりつけているうちに、妙に気持ちが良くなり、
急の切迫感が来たと思ったらドクンドクンと何かがパンツの中にホトばしった・・
これが中学一年の夏、まだ太平洋戦争前、小学六年にも好奇心からいじっているうちに
パンツを汚したことがあったような気がしますが、はっきりした記憶はありません。
ちなみに友人同志でもこのての話は秘密でお互い触れたことはありませんでした。
週刊誌でOLのショタコン趣味でゲーセンで9歳程度の美少年を連れ帰って
エッチの相手をさせる実話と称するものを見ましたが、小さなチンチンでも
立派に役にたってそれらしい物が出るそうです。私も思春期の男の子は刺激さえあれば、
10歳未満でもなんらかの液は放出するようになるのでは無いかと思います。
つまり、同年輩同志の子供のせっくすは生理学的に問題無いのではないかとの、
一見過激な意見ですが、妊娠と言う事実
の可能性の前では沈黙せざるを得ません。本当の意味での自然とは何なのかな??
男の子でも周囲の成熟状態は、大いに関心があり、発達途上の身体は隠したがります、
中学校の水泳着が黒木綿の水褌(すいこん)今で言う海水パンツの下に着けるサポーターですから
被覆範囲は最小限で発毛範囲をカヴァーするのに限度があり、
横から観察すると6〜70%は見えました。肝心なホースも上向け下向け格半々に収め、
規定など当然ありません。
万一勃起した場合上向きのは亀さんが今日はとなり、
下向きではテントどころかヨットの帆となる訳ですが安全率は高いようです。
射出される精液は実は尿道の奥のいろいろの箇所に明いた穴から、
それぞれ異なった成分の液が分泌されて尿道中で混合された物であることをご存知ですか?
と言っても実際は前立腺液と膀胱から出た尿道がL字型に曲がる部分の後側にある貯精嚢に、
蓄えられた精子とその保護液の二つが殆どで、前者は粘度も低く透明といってよく、
後者はコンデンスミルクのようにねばく白濁し匂いも強い物です。コンドーさんを
常用される方は観察して知っておられると思いますが、両液が完全に混合せずに分かれて
見える場合も見られますし、前立腺肥大患者の場合は
オルガムスに達しても、先ず前立腺液がシュッとほとばしり
何か物足りない気持ちから更にピストン運動を続け1〜3分後に貯精嚢からの精子群が
尿道の蠕動に押し出されて出てゆきます。この時男性は全身が震える今までに無い快感を感じたのは私だけかな?。
終戦直前の召集で朝満国境まで出頭し現地で召集解除になった、
大連からの200人あまりの集団は仮の編成を組んで、
自力で列車を仕立て偶然居った機関手が運転して、追撃するようなソ連軍の列車と競り合いながら
一路帰宅えの走行を続けたのですが、利用できた車両は、四平街までは
有蓋貨車に乗せられ真夏のことで蒸し風呂状態、支給された褌 (ふんどし)一本で汗だく状態、
一応禁止された貨車の屋根に登り風に当たるのが精一杯でした。
同乗の人たちは初めて会った者同志で、私と同じ18歳の特別召集者と中年の2グループの混成ですが、
すでに戦友と言った親しい仲間でした。そのうち若い一人が「タマを冷やすと涼しいぞ!」と
屋根の上で立ち上がり褌の白布を外して後ろになびかせました。
その時屋根に居たのは全員18歳組だったので、一斉に白旗をなびかせ、
普段風に当たることの無い部分を大公開したわけですが、
死生を共にする男どうしの戦友愛は危険な悲愴美からなるものながら
一度経験すれば忘れられない心象風景の一つとなります。