「なんだ、グリーンさんて笑えるんだ」
Greenが帰ったあと、HOT-Dが感心したようにつぶやいたのが妙に響いた。多分、台詞の内容に違和感があったから。殆ど反射で台詞の意味を訊ねた。
「どういうこと?D」
「『D』じゃねー、オマエは俺のことは『パプ』っつーんだよ」
それを言うなら『pap』だよ、日本人には発音が難しいのかなぁ、と思う反面、子犬呼ばわりを肯定してる彼を少し不思議に思った。彼くらいの年齢なら子供扱いすると怒る子が殆どだから、もしかしたら彼は『pap』の意味を知らないんじゃないかと思う。…まぁ、自分から墓穴を掘るまでもない。だから敢えて教えないけど。ただ、彼と俺は親しかったことは分かる。
彼は椅子に座り直し、えっとな、と頬を掻いた。何故か言いにくそうで、泳いだ視線を俺に戻すまで少し時間がかかった。別に時間にゆとりがありすぎて困ってる俺には待つのは苦痛にならない。でも、あまり間があると不安になる。だって、俺に気を遣った嘘を考えてるかもしれないじゃないか。
「グリーンさんて、あんま…てか、愛想笑いも見たことなかったからさ。いつも仏頂面で、たまに怒ってるか呆れてるかしか、俺知らねーし」
「What?そうなの?」
「何、オッサンはあるんじゃねぇの?」
「覚えてないヨ?でも…笑ったコトないって」
なにそれ。精神的に傷でもある人なのかな?でも…さっきは微笑ってたし。
否。
微笑うフリができていた。
彼がフリをしたのは気まずさと誤魔化しのためだと思った。俺に気に病ませないためのものだと思ったのに。
愛想笑いもしない人が、どうして俺に微笑みかけようとしたの?
俺が記憶が無くて怪我人だから?同情なの?それとも憐れみ?

それから、話題が変わって面白い話になって盛り上がっても、そのことが頭にひっかかって、俺はHOT-Dが面会時間を過ぎて帰るまで自然に微笑えていたのか甚だ疑問だった。


毎日HOT-Dは来てくれる。面会時間始まってすぐ顔を覗かせるし、帰れと看護婦さんが言いに来るまでいる。他愛もない話をしたり、持ち込んだTVゲームで遊んだり、カードゲームをしたり。飽きない時間だけど、最近はなんだか心に穴が空いたみたいに楽しいこともするすると抜け落ちてくカンジで、イマイチ実感がない。話を聞いていても時々聞こえなくなっていて、話を振られた時とか対応できなかったりする。あんまりぼぅっとしてるものだから、熱でもあるのか、とか、記憶喪失のせいか、とかしきりにHOT-Dが心配してくれるけど、毎回俺は笑って誤魔化している。
でも特に今日は酷くて。このままだと余計に気を遣わせそうだから、昼ご飯を食べた後、俺はいそいそと雑誌をひろげようとしていたHOT-Dに告げた。
「ごめんね、眠いから寝てもいい?」
「あ?あぁいいぜ?そんじゃ俺帰ろうかな」
人がいると落ち着かねぇだろ、また来るわ、と言い残し、雑誌を鞄にしまってHOT-Dは腰をあげた。ごめんね、ともう一度ぼんやりした声で告げると、元気な明るい笑顔で、気にすんなよ!ゆっくり寝て元気になれよ!と肩をばしばし叩いて鼻歌まじりに部屋を出て行った。怪我人なんだからもうちょっと加減してくれてもいいのになぁ。今日は欲しいCDの発売日らしくて、買いに行きたいと言ってたから今から直行で買いに行くのだろう。何も自分の予定をおしてまで俺のこと見に来てくれなくてもいいのになぁ、と思いながら俺は肩の痛みも忘れ、うとうとと浅い眠りに落ちていった。


気がつくと暗闇に独り立っていた。まっしろな病院で寝ていたはずなのに、何もない空間に独り、ぽつんと。あぁ、夢か、と気がついたけど、あんまりにも周りが暗くて静かなものだから不安になって歩き出した。そうすると闇がずしりとのしかかってきて、俺の手足にまとわりついてくる。ぐらりと足場が沈み、どんどん闇に呑み込まれる自分。未知なる恐怖に怯えて叫びをあげたが声が出ない。
誰か、誰か助けて
ふと視界の隅に白い光が見えた。そちらに視線を送ると白い光が手を伸ばして来る。助かった。そう思って手を伸ばそうとしたが、何故か俺はためらった。
その光に触れてはいけない気がして。
それに縋れば自分は助かるのに。どうして。どうして悩む?
光はなおも近付いて来る。俺は誘惑に駆られて手を伸ばした。
しかし、差し出した自分の手は恐ろしいほどまっくろで。
反射で手を引いた。駄目だと思った。

俺のこんなけがれた手では
キミが穢れてしまう…!!


はた、と白い天井が目に入った。布団が跳ね上がるほど勢い良く起き上がると、まだ傷の塞がっていない背中がずきりと痛んだ。周囲を見渡すと、枕元の棚に白い花の入った花瓶があった。黄色い雌しべを包むような筒状の白い花が、数本濃い緑の細長い葉とともに飾られていた。その花瓶の傍らには2本の缶ジュース、ひとつはコーヒー、もうひとつは炭酸飲料。その下に何かメモが挟まっている。
良く眠っていたのでお暇します。よく休養をとってください。 17:30 Green
時計を見上げる。35分。5分前!
気がついたらスリッパも履かずに駆け出していた。裸足のまま、『ぺたぺた』と『どたどた』の中間みたいな音を立てて廊下を駆け抜けた。体躯の大きい俺が猛スピードで走ると廊下を歩いている人たちが驚いたり怯えたりして道を空けてくれるのが有難かった。そのままの勢いでエレベーターを無視して階段を駆け降りる。きっと看護婦さんだろう、後ろで女の人が焦った声で何か言ってるけど振り返らなかった。ロビーに着いて、息を整えもせずにスピードを緩めて見渡すと、視界の端に見覚えのある2本の茶色の角が見えた。それは固めているせいか触ると少し硬そうな薄い色合いの金の髪から生えていて、その下には垂れた白い耳、動作に合わせて靡く品のいい黒いスーツ。それらが仲良く玄関の扉をくぐろうとする瞬間だった。
思わず叫んだ。声の限りに。
「…Waitッッ!!」
思いのほか響いた声。自分でも驚くくらいの声量が腹から飛び出した。そのせいかどうかはわからないけど、その場の殆どすべての目が俺に向いた。勿論、彼もその中の一人で。勢いよく振り向いた表情はサングラスで瞳が見えないから判り辛かったけど、短い金の眉が驚愕の色を浮かべて俺を捉えたのが見えた。女の人なら焦がれて思いを馳せるであろう綺麗な形の薄い唇が微かに動いて、何か紡いだような気がしたんだけど、急に視界が狭くなって暗転してしまったから、それ以上は確認できなかった。

*   *   *   *

次に目に映ったのはやっぱり白い天井。視界の隅には液体の入った袋が吊り下がっていて、そこから伸びるチューブが俺の腕に繋がっていた。ぼんやりと働かない頭を巡らせると、看護婦さんと目が合った。彼女は綺麗な顔を厳しくして安静にしてくれと散々怒って、それから俺の腕と点滴を確認して出て行った。
看護婦さんが言うには、俺は急に激しい運動をしたから脳貧血で倒れたらしい。Greenのことを訊いてみたけど、彼女はさっき来たばかりだからわからないとだけ言った。
…帰った、かな。やっぱり。
病院の人達に迷惑かけてまで呼び止めたのに、気を失うだなんて不覚だ。結局話も…て、何を話すつもりだったんだろう?話題、なんかないのに。『花をありがとう』とか『折角来てくれたのに眠っていてゴメン』とか、そんなことしか浮かばないのに。そんなの、必死に呼び止めてまで言う台詞じゃない。
良かったような悪かったような、よくわからない感情に知らず深く溜め息をつくと、キィ、とドアが開いた。反射でハイ、と声を掛けると、少し気配が焦りを帯びて、薄色の金の髪が控え目に現れる。

「あ、気がつかれたんですね。すみませんノックも無しに…御気分は如何ですか?」

その声が台詞を言い終わったのと殆ど同時に悲鳴が木霊した。
まるで化け物を見たような自分の声を聞きつけて看護婦さんが飛び込んできたけど、唖然としたまま顔を見合わせて凍り付くGreenと俺を見比べると勢いを急になくしてしまって、首を捻るように俺に近付いてきた。声を掛けられて俺とGreenが同時に勢いよく声の主に向き直る。当然だけど彼女は一瞬たじろいだ。その怯えたような表情に俺は酷く狼狽えてしまって、あ、と情けないような声を出してしまった。きっと情けないだろう、俺の表情に安堵を覚えたのか、少しだけ緊張を解いてどうしました?と問うてきた。
俺は考えるよりも早くカーテンの揺れる窓を指し、声が震えないように力を込めずに言葉を紡いだ。
「…Sorry、ちょっと、蜂が入ってきてついおっきな声を」
ゴメンナサイ、出てったミタイだから、ダイジョウブ。今更日本語のたどたどしい俺の返事に、看護婦さんはさらに不審の色を深めたけど、彼女は大声を出したことだけ咎めて部屋を出て行ってしまった。

おそるおそるドア付近で固まって一言も発さないGreenを見やると、バッチリ目が合った。唖然としたような、困ったような、怒ってるような微妙な表情のまま、ぱしぱしと瞬きをしたのを確認したのは一瞬の出来事で、あまりの気まずさに俺はぱっと視線を下げてしまった。それすらも誤魔化したくて、『あの』だとか『その』だとか融通の利かない単語ばかりを連発して間を繋いで、なんとか誤魔化そうとしたんだけど、やがて横から聞こえた深い溜め息の重圧にどうしても耐えきれなかった。
「…ゴメンナサイ。来てくれると、思ってなくて」
「…何をおっしゃいますか。貴方が呼び止めたのでしょう」
その声色は上質の絹織物で頬を撫でられたかと錯覚するもので。ふわりと柔らかくて滑らかで、それでいて張りのある低音。どの楽器に似た、とはイマイチ例え難いのは、独奏一小節でここまで魅せられた低音を奏でる楽器を思い出せないからか。HOT-Dが持ち込んでくれた、俺の私物だと言うサックスのCDはアップテンポの甲高いアルトのものが多く、1枚だけあったテノールバスのものも、ここまで胸を打ち、ここまで安心を覚えたものじゃなかった。
しかし、違和感があった。彼の表情は苦笑を浮かべたもの。声色は柔らかい。俺の見る限りでは常にこれに近しい態度だった。
この上なく優しい雰囲気の彼。不快さはまったくといっていいほど無い。
なのに、どうして違和感があるの?

記憶を失う前は、違っていたってこと?
どう違っていたの?
…仲が、悪かった、とか…?
それならどうして彼は優しいの…?

ずぐん、と吐き気を覚えるほど胸が締め付けられた。
こめかみに心臓ができたみたいに、大きく脈打ち始める。煩いほどの鼓動に頭痛がして、身体が震えだしたような気がして、自分の肩を強く抱いた。嫌な汗が吐き気を連れて滲み出し、耳の奥で警鐘が鳴り出す。彼の顔が周りの景色ごと歪んでいくのが気持ち悪い。
HOT-Dは『微笑わない』と言っていた。でも、目の前の彼は微笑んでいる。


…違うって気付いてるのに…
どうして思い出せないの…!?


平衡感覚をなくした意識はくらりと揺れて、反射も間に合わないままシーツに身を任せた。狭くなる目の前で焦りを浮かべて手を伸ばしてくれる彼の表情がゆっくり白くぼやけるのを見ていたくなかったのと、頬に触れたナイロンの手袋の感触が懐かしいような気がして、俺は彼の手を握り締めて瞳を閉じた。





2005/8/ 著



うーん、なかなか進まない話ですね。
ていうか微笑むグリーンさんあり得ない。無駄にフォクシーさん気を失うし。
トラウマだらけですねウチの子らは。
あ、Dはそんなことないですよ!ふっつうの子のつもりです!