訪れたのはこれで5回目だし、常にHOT-Dさんがついていたので今回もそうだと思って2人分の飲み物を購入して病室を訪れた。しかし、いたのはベッドに眠る当人だけで、他に姿は無い。いつも彼が持ち歩いている鞄もないので、席をあけているわけではなさそうだ。珍しい。
 取り残された部屋の主は、暇を潰す方法がなくなったのか、私の呼び掛けにもノックにも反応を示すこともなく眠っている。開け放してある窓から吹き込む柔らかい風がぱらぱらと彼の黒髪を舞い上げるたび、彼は僅かに顔の筋肉を強張らせていた。寝苦しいのか傷が痛むのか、呻き声こそ上げはしないが少し眉根を寄せて、その思ったよりも精悍な顔を曇らせていた。
 背もあるし黙っていればそれなりの容姿なのに、まったく天が二物を与えぬというのは本当だ。
 吐いてしまってから気付いた深いため息に自分で戸惑いながら、私は起こしてしまわぬように、そろそろとした仕草で備え付けの花瓶を手に取り、手土産の花束を活けるために一度給湯室に足を向けた。

 給湯室でゆっくり作業をしたあと帰ってきても、変化のない白い室内が風を受け入れるのと同じように私を迎え入れる。
 花瓶を持ったまま、白いシーツの中の起きる様子の無いその顔を覗きこむと、どうしても白いガーゼと包帯に目が行ってしまう。それを逸らそうとすると、今度は引きつった傷跡から目が離せない。
 痛々しいのは顔だけではないだろう。襟元から覗く筋肉質な胸元も、袖からしなやかに伸びる均整のとれた腕も、酷く擦れた傷痕に跨るように包帯が巻かれている。その数と面積は減っているが、それでもまだ取れないのか。
 骨や内蔵が無傷なのが奇跡だ、と彼が入院した当日、医者から聞いた。彼のことだから、脇見でもして道筋を誤り何かにぶつかりそうになっとかで急激に修正しようとして横転したのだろう。真実なら自業自得だ。
 だが、そこまで彼を責める気にはならない。後遺症まで残した人間に対してそこまでするのは流石に酷だろうし、私にはそこまでする権利も義理もない。
 今は眉根の皺も消え、気を失っているかのように彼はこんこんと眠り続け目を覚ます様子がないので、私はこのままお暇することにした。棚の上に花瓶を置いて花を整えたあと、懐から手帳を出し、メモ用のページを引き千切ってペンを走らせる。差し入れの飲料缶を花瓶の横に並べ、その下に挟みこんだ。




 誰も乗り合わせないエレベーターで階を降り、目的の1階にたどり着くと、上階に上がるために待っている人が数人いた。その数はエレベーター内に納まりきれるかどうかギリギリの人数で、お急ぎなのか扉の開いた瞬間エレベーター内に足を踏み入れたご婦人が、降りようとした私の左腕に少し左肩をぶつけてしまったものだから、彼女は少し体勢を崩して入口の壁に手をついてしまった。
「失礼、大丈夫ですか?」
 なるべく声を落とし、彼女がそれ以上倒れぬように手を差し出した。そのご婦人は、彼女の身体に触れぬように肩付近に添えた私の手を凝視し、私の顔を見上げた。彼女の左目には包帯が巻かれていて、残った右の日本人特有の茶色がかった黒い瞳をすまなそうに細めて、大丈夫よ、ごめんなさいね、と詫びた。すぐには気がつかなかったが、片方だけ松葉杖をついていた。彼と同じように事故かなにかで怪我を負ったのか、きっと、向かって左側にいた私は死角にいて、彼女は気付かずエレベーター内に入ってきたのだろう。
 再度どこか痛まないかと確認を取り、病室まで介添えを申し入れたが、礼の言葉を添えて丁重に断られて、エレベーターの扉は閉まってしまった。まぁそこまでしつこくする思い入れもなかったので、素直に踵を返す。

 あの人も片目を包帯で覆っていたことを思い出した。医者が何も言っていなかったから、視神経や眼球は無事だったのだろう。あれで失明なぞしようものなら…いや、サックスくらい吹けないこともないだろうが。
 先程のご婦人の怪我が一日も早く完治することを願って、玄関口に向かった。ロビーと受付の間を通り過ぎると、何やら後方が騒がしくなり始める。急患だろうかと思ったが、特に出刃亀精神もないので振り返らずにまっすぐ扉をくぐろうとしたその時。

「…Waitッッ!!」

 窓ガラスがびりっと音を立てそうなほど響いたよく通る声に驚いたのか、それとも今聞こえるはずのない聞き慣れた声に驚いたのか、よくわからない。それは、振り返った瞬間に、想像した通りの人物が、前のめりに倒れこむ様が目に映って、そんな驚愕の感覚なぞ忘れてしまったからだった気がする。








 それからは医者や看護士に気圧されて、手を出すまでもなく彼は病室に運び込まれた。とりあえず『知人』枠で同行し、医者の邪魔にならないように診察が終わるまで廊下にいた。
 ふいに開いた病室のドアから白衣の集団が揃って出てきた。そして目が合った私に軽く会釈をし、貧血だから何も心配はないが、とりあえず安静にはさせておくようにと診察結果を告げる。

 ただ、精神的に少し不安定かもしれないとのこと。

 脆いところもあることくらい普通だが、以前酷く不安定だった彼を見たことがある。その時は眠って気を落ち着かせたようだったが。
 実際記憶がないというのはどういう感じなのかは想像もつかない。だが、そこまでのものであるが故に不安定さに拍車をかけるのは必至。
 開け放しのドアの向こうには取り残されて眠る彼の姿が見える。先程と同じように痛々しい姿で、僅かに黒髪を風に泳がせながら、それらとは無縁のように静かな寝息を立てて。
 その寝顔を、ドアをくぐるまでもなく、ただぼんやりと眺めていた。その時何かを考えていたかといえば、それは酷く傲慢で。
 彼には悪いが、記憶なんか戻らなければいいと思ったのだ。生活には支障はないそうだし、会話もいつもどおり英語と日本語の混ざった彼独特の口調で、時折混ざる冗談も変わっていない。特に落ち込んだ様子もない。
 記憶を失くす以前にも、もう母国に帰る気はないと言っていたから、ここ日本で生活するのは変わらない。道だってまた新しく覚えていけばいい。
 彼ほどの人望と気の良さをもってすれば、また人間関係の再築も可能だろう。

 だから思い出さないで欲しい。


 …私を、慕っていたことを。


 私自身は元々彼を認めていた。内面も、その実力も。『仲間』として慕ってくれるならば快く受け入れる。同じく『音楽』から『ジャズ』を選んだ者として。
 だが…どうしても、彼があの感情を持っていたから、私は受け入れられなかった。下手に好意を示せば…期待、させてしまうのでは、と。
 だから酷い態度をとり続けた。でも、どんなに冷たくあしらっても、何故か彼は私に抱く感情を変えなかったが。暖かいその手を何度振り払ったかわからない。その都度、私が抱いた感情が憎悪と嫌悪であったかといえば、答えは否。
 いっそ自分を憐れにすら思ったほどだ。
 しかし、彼が『彼』を忘れた今は、彼にとって私はただの『知人』、よくて『友人』だ。
 こんなこと私にとって都合がいいだけなのは理解しているが…このまま、彼の心身の傷だけが癒えることを願う。過去を映したメモリーは壊れたままでいて欲しい。

 我ながら暗いな、と自嘲すると、後ろから声を掛けられた。
 その気の強そうな女性の声に振り向くと、予想を裏切らない風貌の看護師がいた。彼女の望み通りに私がその場を譲ると、彼女は満足そうに微笑んで、少しお待ちくださいと私に告げた。
 きっと何か薬を持ってきたのだろう。手にした銀のトレイの上には、何かの薬品と、注射器を乗せている。
 私も了承の意を伝えて、だがそのまま帰宅することにした。眠っている彼には用はないし、もう誰かがついていなくともいい筈だからだ。

 エレベーター前に来て、ふと気がついた。
 病室の窓が開け放しだった気がする。もしかしたら看護師が閉めたかもしれないが、閉まってないのなら、これから日も沈むし、身体に良くないのでは?
 そう気になってしまったら、解決法はひとつ。私は踵を返し、元来た廊下を歩き出した。




 ドアを開けると、中から彼の返事が返ってきた。まだ眠っていると思っていたのでノックもしなかったことを詫びると、彼はいきなり奇声を轟かせたのだ。
 勿論看護師が飛び出してきたが、彼は白々しくも誤魔化しきれてはいない口調で無理のある言い訳を並べると、看護師はやはり不満の残る表情で部屋をでていった。そんな一部始終を、私は事の唐突さに唖然としたまま眺めていた。
 看護師が出ていってから、彼は私に謝罪の言葉を述べた。非常に気まずそうな表情で、叱られた子供のように言い訳するその仕草は、やはり変わっていなかった。相変わらず意味の無い言葉を連ねてばかりの彼に、少し大袈裟にため息をついて促せば、申し訳なさげに適切な台詞をはく。
 今までと違うのは、ここで私が好意を示しても、それ以上の好意は返ってこないということだ。

 だからつい、素直に気を遣った。さっきわざわざ追いかけてきて、呼び止めた理由はなんだったのかとも訊いた。

 すると
 こちらが驚くくらい、彼の表情が凍り付いた。

「…あの…?」
 不審に思って声を掛けたが、それに対する反応はない。瞳が見開かれたまま、その身体は小刻みに震え出した。
 勿論私は慌てた。
「ちょっ…!どうしました!?」
 私がベッドに一歩近付こうと踏み出したのとほぼ同時に、彼の身体が傾いだ。受け止めるには間に合わず、シーツに倒れこんだ彼の肩を思わず揺すって彼を呼ぶが、反応は無い。血の気が引いて強張った表情、震えの止まらない体は冷や汗でしっとりと冷たい。
 私は迷わずベッドサイドのナースコールを押して、それでも足りずに助けを呼んだ。


「早く…!!」











 …あとから考えれば、ここまで取り乱すのも久しぶりだ。
 らしくもない。








2006/05/   著


間が開きましたが続き。
おわらないなぁ