「グリーンさんっ…!」
 唐突に開け放れた事務所のドアから、転がるように見知った姿が飛び込んで来た。
 いつもは綺麗に整えられた落ち着いた色の金髪が見る影もなく、日に焼けた健康そうな肌も青ざめてしまっていて、傍目にも只事では無さそうだ。
 ノックをしなかったことを咎める前に、普段は極力私を避けている彼が、回転式の椅子に座ったままの私に走り寄り、勢いのまま抱き付いてきた。尤も、その衝撃からして『体当り』の方が適切かもしれないが。
 胸部に走る鈍い痛みと驚きに思わず呻いて、倒れないように反射で机を掴み床に付く足に力を入れた。椅子は酷い軋みをあげて、少し車輪が後退する。どうしたんですか、という問いをかける間もなく彼は言った。
「何も言わずに今すぐ来てくれ…っ!」
 至近距離で見たその幼さの残る蒼い瞳に浮かぶ懇願の色は疑う余地もなく、私は首を縦に振ることしかできなかった。


 私の返事を確認するが否や、早く!と乱暴に腕を引き、無理やり玄関につけていたタクシーに押し込んだ。退社の旨を誰にも伝える間も与えてくれなかったことを咎めると、大丈夫、神は知ってるから、と何も知らない運転手が聞いたら年若い彼を不憫に思わせる台詞をつぶやいた。勿論、彼のいう『神』とは、先輩…MZDと名乗る私の会社の社長だ。
 HOT-Dさんが言うには、先輩が私を呼ぶために彼を遣わせた、ということらしい。縋るように私の袖口を掴んだまま、必死な口調で順を追えていない説明をする様子が、私の気を一層逸らせた。しかし少しでも正確な情報を聞き出すため、落ち着いてもらうべく感情とは裏腹に殊更静かに問うた。
「それで、いったいどうしたんですか?」
「…オッサンが…!」

 …オッサン?
 誰のことだ?

「あの、どなたのことで」
「オッサンだよ!ほら、あの背ばっかデカくて喋り方がちょっとカマっぽくて黒い」
 早口で捲し立てて説明するが、名前を出してもらえないとよくわからない。私と縁のあるヒトなのだろうか?
 怪訝な顔のまま反応の無い私にじれったくなったのか、癇癪を起こしたような仕草で私の胸倉を掴みあげ、一瞬私をにらみつけた。しかし、その表情は今にも泣きだしそうで、自分でも気がついたのか、バツが悪そうにその表情を隠すように俯いた。
「…事故、で」
 しぐさとは裏腹の弱々しい呻きに、私は掴まれた胸元を振り払うことはせずに、ただ、はい、と返事をした。


 訪れた先は病院、とある一室。『事故』という単語に集中治療室くらいは覚悟していたのだが、彼が先立って入っていったのは一般病室。表札は…無記入。不審に思う間も無く、HOT-Dさんが急かす様に私の名を呼び袖口を引くので、否応無しに病室のドアをくぐる。
 彼が入ると、中から、連れてきたか、という先輩の声がした。目の前にはベッドの上半分を起こして白いシーツの上に見知った男性が横たわるような形で座っていた。人種独特の黒い肌を持つ彼は、いつもはぴんと立っているはずの大きな耳は力無く伏せたまま、垂らされた長い前髪の奥に覗く、体格には似つかわしくない大きなオレンジがかった黄色の瞳をこちらに向けて細めてみせた。少し曇ったその表情をするその男は、笑い方がいつもと少し異なるだけなのに、まるで別人のようだった。白に近い水色の寝衣と包帯とガーゼで、肌どころか顔までがほとんど隠れていたからか。部屋の色調も輪をかけてあまりに白くぼやけるものだから、彼の黒い肌がまるで死人のような土色に見えて、あらわになった緩く弧を描いた右目と口許が笑みを象った時の壮絶さに息が詰まってしまった。



「…やぁ、キミも俺の知り合い?」



 その唇が少し掠れた声で紡いだ言葉は、一度では理解ができなかった。ただ、あぁ、そういえば年の離れた彼はこの人を『オッサン』と呼んでいたな、とぼんやりと感じただけだった。
「…どうしたんですか、この現状は」
 彼ではなく、彼の傍らに座ったまま踏ん反り返っている先輩に視線ごと疑問を投げた。すると、先輩は肩を竦ませて、見ての通り、と呆れたような声音で言った。
「やっぱりグリーンのことも覚えてねーか」
 もしかしたらと思ったのによ、と付け足して、先輩はことのあらましを説明しだした。


 要約すると、バイクで事故を起こした際に打ち所が悪くて記憶障害を起こしている、ということらしい。自分の名前も判らないそうだが、携帯メモリの着信履歴を頼りに医師が先輩に連絡したらしい。


「…はぁ、だから病室の表札が無記名だったのですね」
「オイオイそれだけかよ?」
「他になんと申し上げれば良いとおっしゃるんですか」
「まぁそりゃそうだ?」
 後頭部を相変わらずニット帽の上から掻いて、溜め息をつく。
「そーじゃねーだろ!」
 さっきまでおとなしくFoxyの横に座り、私たちのやり取りを眉をつり上げながら聞いていたHOT-Dさんが、椅子を派手に蹴倒して吠えるように声をあげた。
「病院内で騒ぐなよ」
「うっせぇ!アンタらがおかしいのが悪ィんだろ!?何なんだよ薄情モンども!なんとも思わねぇってのかよ!!」
 私と先輩を交互に指差して、彼が専門分野のシャウトの実力をそぐわないこの場で発揮する。だいぶ興奮しているのだろう、顔を赤くして非難の言葉で主張する。
 若い…反応。さっきから目まぐるしいまでの感情の変化に、御自身で追いついておられるのか不思議で仕方ないが、苛立った気はこの場では控えさせるべきだろう。
「お言葉ですが」
 敢えて静かな声を選び、冷徹な響きを意図して出す。
「私たちが気揉みしたところで何かが変わるとでも」
「なんだよその言い方は!」
「まぁ落ち着けやポチ」
「ポチっつーな!」
「オイオイ、あんまり騒ぐな。あいつが不安になるだろ」
「…!」
 先輩の助け船にHOT-Dさんは口を噤んで、バツの悪そうにうなだれる。まー看護婦呼びたいなら止めねぇけどな〜、という茶化した言葉の裏を取ったのか、HOT-Dさんは小さく、悪ィ、とだけ呟いて、また椅子に腰を下ろした。
「まぁまぁ、キミが心配してくれたのは嬉しいよ。ありがとね?」
 ベッドの上の彼はほとんど隠された顔を緩めて、フォローするように痛々しい状態の腕をHOT-Dさんに伸ばしながら言った。微かに震えた腕とその掠れた響きに、なにか腹の底から込み上げるモノがあった。
「まぁ、とりあえず怪我もひでぇし、しばらく入院確定だな。心配すンな。後は俺に任しときゃ問題無ェよ」
 Foxyに向かって普段はあまり見せない表情を浮かべた先輩は、私たちの方に向き直り、お前らも暇見て様子見に来てやれや、といつもの読み取りにくい表情で告げた。


*     *     *     *


 空気が動かない白い廊下を渡り先日と同じ部屋を訪れると、真っ白だった表札には片仮名で名前が記されていた。
 『フォクシー様』
 差し入れを手にその病室のドアをノックすると、中からドウゾ、と声がした。
 ドアをくぐると、初めてここで会った時と同じ体勢でこちらに視線を向けて、彼が目を細める。それに対して私も会釈を返し、今日和、と声をかけた。
 あれから2週間と少し。既に包帯の大部分が取り去られ、顔もほとんど晒した状態の彼が、やぁ、来てくれてありがとう、と以前と変わらない声で控え目な色を見せた。真実かどうかは判らないが、以前よりやつれたような気がするその頬は、思ったよりも血色がいい。
「起きていて大丈夫なんですか?」
「平気だよ。寝てばかりだと疲れちゃうからね」
 言葉を交わしながらベッドに近付くと、その白いシーツの傍らに長い金の髪が散っているのが目に入った。その人は、掃除の行き届いた床に座り、腕を枕にしてベッドに俯せる格好のまま微かな寝息をたてている。
「…あの」
「困った子だよ。ずっといるんだ」
 文字通り苦笑して、長いその金の髪を一房掬い上げながら、眠る彼に視線を落とす。
「…毎日早くから来て、世話してくれるのは嬉しいけど…まだ子供なのに、こんなに俺に気を遣って…心配だよ」
 学校は行ってないらしいけど、彼もやることあるはずなのにね?と掬い上げた髪をぱらぱらと少しずつシーツに撒いて、すべてが零れ落ちると、その手で髪を撫でた。
 既知感の無いその柔らかい仕草に、一瞬目を疑った。記憶のない彼から見れば私たちの方が見知らぬ人間なのだが、私たちから見れば彼はよく見知った人物なのに、その仕草は別人そのもので。
「ねぇ、…え、と…?」
 呼び掛けられて意識を彼に戻した。非常に訊きにくいことを伺うような視線を察して名を告げると、彼はゴメンネ、と照れたように微笑んで頭を掻いた。その仕草は以前のままで、その微笑みは以前とは違う。混乱する。
「あのさ、俺のこと教えてくれないかなぁ?日本語も英語も覚えてるし、別に生活する分には困らないんだけど、この子と話すにはなかなか不自由でね…」
「はぁ…」
 平静を装い相槌のような返事を返して、そうですね、と付け足しながら思考を巡らせた。『彼について』を彼自身から尋ねられるのは変な気分だ。
「…残念ですが、それは無理です」
「どうして?」
「私の見解で先入観を持っていただきたくないのですよ。貴方は…どんな貴方でも貴方ですから」
 saxが好きだったことくらいは教えて差し上げられますけどね、と肩を竦めてみせる。
 そう、私の中の彼を、彼に押しつけたくなかったのだ。…まして、自分を慕っていたようだった、なぞと。
 あんな不毛な感情は無いに越したことはない。同性愛が不毛だと一概に割り切らないが、私相手では不毛以外の何物でもない。
「…そう。優しいんだね、Green」
 好意を全面に出した微笑みが紡いだ台詞に、思わず眉をしかめてしまった。
「あ、ごめん!もしかして他の呼び方だった?」
 『Greenさん』?それとも『くん』付け?、と慌てて訂正例をあげ始める彼に首を振って、なるべく愛想の良い声音を選んだ。差し入れをベッドの傍らのテーブルに置きながら。
「いいえ、呼び捨てて下さって結構ですよ。…独りの時間はお暇でしょう?下の売店で何か雑誌でも買って参りましょうか」


 こう、肝心な時に笑みを浮かべられないのはやはり問題だな、と無機質な廊下を歩きながら顎に手をあてて唸った。私をよく知った『彼』ならいざ知らず、私を覚えていない彼から見れば私の今の表情と対応とで私が気分を害したと勘違いしているはずだ。
 眉を寄せたのは反射だ。聞き慣れない言葉が『彼』の声で発せられたものだから、単に驚いただけなのだ。雑誌を差し入れようとしていたのは本当。ただ来る途中で気がついて、しかも売店に寄るのを忘れていて、それを思い出しただけ。しかしあのタイミングでは、彼の言葉に傷ついてその場を逃げる口実に雑誌を買いにきたとしか言い様がない。そんなことはないのに。
 とりあえず、ワイドショー的な週刊誌と若者向けのファッション誌、あと病院の売店にしては珍しくジャズの音楽雑誌があったのでまとめて購入した。勿論、3人分の飲み物も。ついでに自分用に買った缶コーヒーを振りながら病室に戻ると、案の定HOT-Dさんは目を覚ましていて、こんちわ、と私に向けて手を上げた。私は返事の代わりに缶を緩く放って、見事に受け止めた彼にそれを勧めた。戸惑ったように礼を述べる彼から視線を外し、Foxyにもう1本を差し出した。
「飲めますか?」
「ありがとう」
 困ったように微笑んで、缶を受け取ろうと手を伸ばすから、飲めないのかと尋ねると、そんなことはないと首を振る。おもむろに封を切り、ぐいと呷ってみせ、ね?とウィンクしてみせた。
 …まぁ、何故そんな心配そうな瞳をしたのかくらい察しますけど。
「『Green』で良いのですよ?」
「だって、さっき意外そうに驚いてた」
 あっさりと食いついた彼の言い訳は真実だ。意外だった。だから驚いたのだ。しかし、本当に呼び捨ててもらって良いのだ。自分も彼のことを昔から呼び捨てているし、そのほうがよいのだと伝えねば。彼が安心して納得のいくように、柔らかい口調と優しい言葉を選んで、微笑みに乗せて。
 慣れない形を描く目尻と口許がひきつらないように細心の注意を払いながら、私は微笑んだ。






2005/5/著




記憶喪失ネタ。同人ネタの定番(?)として一度はやってみたかった。
リセットするのはいろいろ困るけど、でもしたいと思う時ってありますよね。
でもリセットしたって何も解決しませんしね。残念。