がたがたと窓枠をたたく音がする。
澱んだ空に時折白い光が迸ると、後を追って地を揺らすほどの轟音が響く。
カーテンの浅葱色が乳白色の壁にぼんやりと影を落とすのをただ眺めていた。
外が煩い。耳障りな音を立てて雨が降る。風がうねって無駄に窓をたたいている。
煩わしい。
止まない音が私の耳から脳のすべてを侵していく。思考がまとまらない。集中出来ない。
目の前の譜面を開いたまま、気晴らしにと向かうピアノにすら指を這わす事が出来ずに椅子を立つ。
…いらいらする。
リビングのソファに乱暴に腰を下ろして、膝に肘をついて深く溜め息を吐いた。
最も良策だと思ったピアノが駄目だとなったからには、いっそ布団でも被ってしまおうか。
そう思って立ち上がった瞬間、インターフォンの音。

…こんな嵐の日に、誰だ?

受話器をとり、はい、と声をかけると、聞き慣れた台詞が流れてきた。
「Hai、kid?逢いにきちゃったvv」
意識をせずに一瞬息が止まり、眉間に皺が寄った。
「…こんな日に何の御用で」
「こんな日だからさ?ねェ開けて〜」
何が『こんな日だから』なのか。返事もせずに受話器を置いて、廊下へ足を向けた。
バスルームへ立ち寄りタオルを一枚掴み取って、玄関のドアの鍵を回す。

予想通り、まるで川でも入って来たかのように頭から爪先まで全身から水を滴らせた長身の男が一人、のそりと立っていた。暑苦しいほどの微笑みを浮かべて、片手をあげて挨拶する。
「Hello☆」
「風邪を召されても文句言えませんね」
「Umm…風が強くってさ?傘壊れたら勿体ないから、ささないできたんだよねぇ」
だからびしょびしょ〜タオル貸して貰える?などと図々しくも能天気にそんなことを言い出した。
そんな恰好になってまで、いったい何をしにいらっしゃったんですか。
心の中でそう突き放すも、その恰好のまま部屋に入る勢いだった彼を制して、手に持っていたバスタオルを放ってやった。広がったそれを器用に受け止めて、彼は『Thanks』と微笑む。
「…いくら拭いてもその濡れた服では無意味かと思うのですが」
「あ…ッ!!Sorry、うっかりしてた!」
その体格には似合わない大きな瞳を見開いて、被ったタオルを握り締めながら驚愕の声を上げる。
どうやら本当に気が回らなかったようで、眉根を寄せて困惑した色を宿す瞳に焦りを混じらせている。
…まぁ 別にいいか。これくらいなら。
「私の服でよろしければお貸しします。裸のままうろつかれては目障りですから」
少々お待ちを、と言い残して、彼を玄関に待たせたまま部屋に向かった。

クローゼットを覗いて、重要なことに気がついた。
そう、彼と私の体格差だ。
いくらなんでも20cmの差は大きい。それに、けして彼は細身とは思えない。
私がいつも着ているようなシャツはアウト。Tシャツも同じく。
私のジーンズやスラックスなんて入るはずもない。
なにか、羽織れて一枚着でも見苦しくなくかつ彼のサイズでも着れる物…
記憶をめぐらせるとひとつだけ思い当たる。いつだかの社員旅行の時宿泊先で用意されていて、そのとき着てそのまま戴いてきたものがある。コレしかない。
そう思って、クローゼットの奥を漁った。





彼が持ってきたのはもう一枚のタオルと、洗濯籠、それからなんだか紺色のお洋服。いやに色合いや柄がJapan風だと思ったら、それもそのはず。
お着物。
初めて本物見てちょっとビックリした。
彼が言うには貰ったものらしいけど、なんだか真新しい。着たりとかしないのかな?
とりあえずドアを閉めたあと、玄関先で服を脱いで籠の中に入れて、新しいタオルで身体を拭いている間に彼が俺の服を持ってさっさと奥に引っ込んでしまった。干してくれるのかな〜とか期待して、お着物に袖を通そうとした。
…うーん、着方がわからない;;
それに下着も濡れたから、どうせなら脱ぎたいんだけど…やっぱり流石にまずいかな…
奥から声がする。
「ある程度拭けたらこちらにどうぞ。
 それから貴方の服を洗濯してしまいますが、下着は濡れていらっしゃらないのですか?」
「あ、待って頼むよ;;」
すごいや、やっぱりそういう細かいところまで気を回してくれるんだよね、キミは。
でも、俺がコレの着方わからないの気付かなかったみたい。
とりあえず前を重ねて合わせて、腰を帯で締めればいいみたいで、俺は脱衣所で回る洗濯機の中に下着を放り込み、お着物を広げる。どうせコレ着て外に出ないし、適当にうろ覚えで着てみた。下がスースー心許無いけど、仕方ないか;;
着終わったことを知らせるべく、俺は少し声量を上げて彼に話しかけた。
「お着物ってなんだか変わった着心地だねぇ」
「着物ではなく浴衣というものですよ」
「ユカタ?」
「はい」
彼の声のするlivingに向かうと、彼は備え付けのkitchenに立って紅茶を淹れる用意をしていた。今日は珍しく葉っぱからじゃなくて、ティーパックみたい。コンロにはシュンシュンと音を立ててヤカンがお湯が沸いたことを知らせている。
彼はこちらに視線を向けて、いつかのようにソファへと俺を促した。

「生憎戴き物のフレーバーティーしかございませんが、宜しいですか?」
彼はそう言って、コトリ、と俺の目の前に綺麗な琥珀色の液体の入ったカップを置いた。途端に甘酸っぱいような匂いが部屋中に広がったような錯覚に陥る。コレは…なんだろう、ベリー系?
「アリガトvvこれ、なんの紅茶?イチゴみたいな匂いがする」
なんの変哲もない台詞を選んだつもりだったんだけど、何故か彼は大袈裟に驚いた表情をしてみせた。俺自身、急な彼の変化にビックリした。
「な、ナニ?」
「…判らないんですか…?」
「え?」
わ、判らないとマズイ匂いだった?前にもしかして淹れて貰ったことあるのかな?それでおんなじ質問したとか?
え、ヤバイ記憶に無いヨ…?
多分態度に出ていたんだろう。おろおろとうろたえる俺を睨むように凝視した後、彼はため息混じりに呟いた。
「…早速風邪を召されたんですね、貴方という方は」

…か、ぜ?
a cold?

「…そういわれると『そんなことないよ』って言いたくなっちゃうな〜」
「何言ってるんですか。往生際の悪い。
 仮に正常なら、イヌ科の獣人である貴方がストロベリーとクランベリーの違いが判らないわけないでしょう」

そう言ってみたけど、実は自分でも気付いてる。
実際ココに来る前、昨日からちょっと具合が良くなかったんだ。
だからココに来たの。
柄にも無く気が滅入っちゃって、雨も降るからココロ寂しくなっちゃって。
キミの顔がどうしても見たくなったから来ちゃったんだ。
…こんなこと、情けないし格好悪いから口が裂けても言えないけど。

「貴方の肌色だと顔色が判断しづらいですね…頭ははっきりしてますか?」
珍しく彼が一般的な台詞を使って、事務的に俺を心配する。
あぁ、いけない…。余計な心配かけたくないし、そういう心配のされ方は、イヤ。
はぐらかさなきゃ。
「ん〜…あんまりはっきりしてないかな。念願のkidに逢えたから、今とってもユメゴコチvv」
「そんなこと訊いておりませんし必要以上に不快なのでやめてください気色の悪い」
いつもの切り裂くような言葉が浴びせられたから、いつものようにしなをつくって誤魔化して、紅茶を一口。
匂いと同じ味が口いっぱいに広がる。こくりと飲み込むと、少しのどの奥にひっかかったような感じがする。
…風邪だ。初期症状。伊達にその関係の大学は出ていない。
少し眉間に皺を寄せた瞬間、いきなり目の前に白いものが広がった。
驚いてカップを取り落としそうになるのを何とか堪えて、状況を把握しようと意識を目の前のものに向けた。
それは布だ。さらりとした生地の手袋。そう認識する前にそれは俺の額に張り付いた。その向こうに見えるのは、その手袋をしたまま手を伸ばし、手袋越しに俺の額に触れている、俺の好きな人。
彼は数秒手を当てたまま、少し感嘆の息を漏らしたあと、その手を額から外し、今度は首筋に触れてきた。

…心臓が止まったかと思った。

実際その手が外れるまで、息をするのを忘れていた。すべての神経が、その触れている部分に集中したみたいな錯覚に陥る。
…このまま、喉を潰されようが絞め殺されようが構わないとか思ったのって、やっぱり変かな?
「…貴方の種族の平均体温を存じ上げませんので判りませんが、確実に熱いですよ。脈も早いし、不規則です」
いや、後者は少なからずキミのせいだから!!
俺の気持ち知ってるでしょ?俺、何度もしつこいくらい伝えてるよね?
それでこの対応はないんじゃないの?期待しちゃうじゃない…実際ちょっと腰にキちゃったし。
とにかくココロを宥めながら、何か言わなきゃと思って台詞を探した。
「…手袋越しなのにそんなこと判るの?」
「手袋越しでも熱いと感じたから『熱がある』と申し上げているんですよ」
いつも『人は人、自分は自分。なにがあっても自己責任』みたいな態度とってるくせに、今日はなんだか食い下がってくる。
別に俺の体調なんか気にしなくってもいいのに、そう思っているのになんだかくすぐったいような気持ちになる。
一言で簡潔に表現するなら、『嬉しい』。





今日は珍しくいちいち口答えをしてくるから、つい勢いに任せて食い下がってしまった。
暫く押し問答を繰り返していたのだが、ふと彼は黙り込んだ。
いい加減認めたのかと思ったら、考え込んだような表情を緩めて、照れたような微笑を向けてきた。
「…何ですか、気色の悪い」
「え?なんでもナイよ?」
そう言ってヘラヘラと微笑っていられると、なんだかこちらが負けた気分だ。
「何でもないわけがないでしょう。何ですか仰ってみてください」
その私の台詞に、彼は困ったような顔をして、じゃぁ内緒vvと片目を瞑ってみせる。
「…ふざけてるんですか」
「俺はいつでも本気だよvvキミに対してだけだけど」

その台詞がいちばん胡散臭いんですよ。
いつでもその軽い口調。
遠まわしに問い詰めて誘導していけば聞き出せそうな気がするが、生憎自分にそんな技術は無い。
「…まぁ、いいです。とりあえず移されては今後の仕事に差し支えますからね」
『仕事』と言う単語にびくっと彼は身体を強張らせ、おそるおそるこちらを見上げながら息を潜める。
…確かに風邪は空気感染するが、吐く息を少なくしたからといってどうとなるわけでもないのに。迷惑をかけるのが嫌なら私に関わってこなければ良いものを。
彼はぐいっと紅茶を飲み干すと、思ったとおり立ち上がった。
「俺、風邪移す前に帰るよ」
「今雨に打たれれば肺炎にかかりますよ」
「でも」
「黙りなさい」
冷たく一喝すると、彼はハイ、と言ってまたソファに腰を落とす。
大の大人の男が、叱られた子供のような目で見上げてくる様はとても滑稽だ。瞳も大きく童顔だが、それに見合わない体格ゆえに、バランスがおかしい。不自然で、不釣合いだ。
ただ、もう見慣れたもので、不思議と違和感は無い。

手を伸ばした。

普段なら絶対に届かない場所をぽんぽん、とあやすようにたたいてやる。
思ったよりも柔らかい髪質に驚いたが、それよりも当の本人がいちばん驚いていた。大きな瞳をさらに見開いて、そのオレンジがかった黄色の瞳に私を映すのが見えた。さも思いもよらなかった、という目をして、頭に手を置かれたままこちらを見つめている。
…なぜか、それが癪に障った。
「…何ですか」
「…いや、こっちの台詞」
「病人を嵐の中放り出すほど非情ではございませんよ」
がたがたと、まだ外は騒々しい。
いくらこの私でも、それぐらいは、と皮肉を付け足し、手を引いた。
その様子を彼は名残惜しそうに眺めながら、それでも我慢が利かなかったのか、その手を掴まれた。
…なんだ、微妙な表情をしていたから離したのに。いったいどういうつもりだ。





このまま撫でてもらえるかと思ったのに、そのまま手を離しちゃうものだから、つい手を伸ばしてしまった。
彼の眉間に皺が寄ってるのは常だけど、それが深くなってるのが、彼の機嫌を損ねた証拠だ。
実際熱に浮いたこの頭では、自分で思っているよりも脳は働いていないだろう。何が彼の気に障ったのかわからなかったが、表情の変化までの俺の台詞は一言。それ以外が原因だなんて考えられない。
言い回しが気に入らなかった?それとも言い方が不遜だった?
ねぇ、どっち?

「…なんですか」
手を掴まれたまま、彼はさっきよりも怒気をはらんだ声で言った。静かな声色で、奏でるように皮肉を吐く。
「貴方の目からは、私がそんなに非情に見えていたのですか」
「kidこそ何言ってるの、俺はmasochistじゃないよ?」
「は?」
…その『は?』って、『何言ってるんだ』って意味じゃなくて、『マゾだと思ってた』って意だったらやだなぁ;;
ちょっとヘコみながら、俺は続ける。「もしそうなら、俺がkidのこと好きなわけないよ」

彼はうつむいて押し黙った。
手は離さないまま、俺は少し身を乗り出して、顔を近づける。
「俺、kidが好きだよ」
囁くように言ってみた。
顔は上げないまま、彼が毒づく。いつものように、そっちの趣味はないとか迷惑だとか言うけど、今日は新しい台詞が加わった。

「貴方、相当趣味が悪いですよ」

いや、寧ろ異常です、と付け加えてくるけど、その台詞が出たってことは、だよ?
自分なんかでいいのかって言ってるのとおんなじだよね?
それって
俺のこと、スキってこと?
キライじゃないってことだよね?

「やだもーkidってば」
ねぇkid?今俺はどんな表情してる?
きっと見たことも無いくらいみっともない表情してるハズだよ。
「俺、kid以外は愛せないとか前に言ったの、忘れちゃったの?」
鼻の下が伸びてるとか、やにが下がってるとか、そういう風に嫌な言い方されても構わない。
そう、嬉しくって堪らない。


「記憶にはございますが真に受ける気は毛頭ございませんよ」
「そのうち嫌でも本当だって気付くよ」
「どうだか」
「好きだよ」
「知りません」
「愛してる」
「…っ!!」



…あ、『愛してる』の言葉は弱いんだ?眼鏡越しの琥珀の瞳と薄い唇に動揺の色が走るのが判った。
また新しい彼の一面を見れてこの上なく上機嫌な俺は、次からこの言葉でいこうと単純に心に決めた。
…でも、『愛してる』なんて、実は恥ずかしくって言うのにこっちが勇気要るから、そうそう成せるワザじゃない。
全部浮いた熱のせいにして、もう一度「愛してるよ」と囁いた。








嵐なんか止まなければここにこうしていられるのに。

窓を叩く音が弱まっている気配を感じながら、俺に薬を飲ませるために食べ物の用意をし始める彼の背を見送った。

















2004/7  著






台風の日に考え付いたんですが、書き始めるとなんだか長くって収集つかなくなりました(笑)
最初のほうのグリーン氏はその日の僕とおんなじ心境で。なにやってもイライラして、頭も左足も痛かったですが。
そんななかで携帯にこの小説打ってたら吐き気がしました(文字に酔ったのかも)


てゆーかラヴいよね、この話。
健全だよな、ウチのフォクグリって…もうすこし絡みとかあってもいいよね、裏みたくとまではいかなくても…
最後らへんのシーン、実はフォクシーさん浴衣一枚で下着つけてないって思うとすげー間抜け(笑)



お題「手を伸ばす」でした!!有難うございます!!