駅から電車に乗って、彼の部屋の前に来るまでずっと手を引かれたまま歩いてきた。戸惑って離そうとすると、彼は言葉も無く睨みを利かせて痛いほどに力を込めて、離そうとしなかった。
まるで「逃げるな」と脅されているみたいだ。
どうせなら手を繋ぎたかった。こんな手首を掴まれて引き摺られるように歩くより、指を絡ませるように手のひらを合わせて寄り添いながら並んで歩きたい。
言おうかと思った。
「手、繋いで良い?」って。
でも
なんだか言えなくて
彼の瞳も見ることが出来なかった。
話しかけられないまま、彼がドアの鍵を開けるのを黙って見ていた。かちゃんと冷たい音が鳴るのを確認して、彼はノブに手を掛けた。しかし、すぐにそれを引く手がぴたりと止まる。ふと振り返って、俺を見上げた。傘に入れないで雨に打たれながらここまで来た俺は、みっともないくらいに濡れ鼠だ。視界の端に垂れた自分の髪から水が滴り落ちているのが映っている。
目が合って、彼は痛々しい色合いをその切れ長の瞳と知的な眉に滲ませた。
電車に乗っているうちに落ち着いたけど、きっと目が腫れているんだろう。実際目の下が熱くて痛いから、マトモに目を開けていられない。
頭の中も心の中もぐちゃぐちゃで、どんな表情を彼に向ければいいのか判らなかった。
「ここで全部脱いでください」
玄関先の土間に俺を残して、彼はさっさと奥に引っ込んだ。シャツのボタンを外しきらないうちに、彼は洗面器とバスタオルを持ってきた。水を大量に含んだ服を洗面器に入れるように促され、上半身が裸になった瞬間にタオルを被せられた。
「ある程度拭けましたら靴を脱いで浴室まで来てください」
遮られた視界の中で彼の淡々とした声色だけがいやにはっきりと響いた。
ごしごしと手荒に髪を拭いて、洗面器の中に全て脱ぎ捨てた。身体を拭いたから水気を吸い取って重くなったタオルを腰に巻いて、浴室であろう彼が消えた場所まで洗面器を持っていくと、上着だけ脱いでいた彼は俺の姿を見咎めて、酷い有様ですね、と溜め息をついた。
「その服、洗いますから貸して下さい。それから残り湯ですが沸かしなおしてますので、しっかり身体を暖めて汚れも洗って落としてから出てきてくださいね」
洗面器を受け取って傍ら洗濯機に放り込み、スイッチを入れてから彼は出口のドアに手を掛けた。
そして
彼はそれ以上歩み出さなかった。
腕の中の彼は信じられないくらいおとなしく収まっていて、抵抗のないことを良いことに俺が肩の上に額を押しつけても、重い、の一言もなしにそのまま立ち尽くしていた。
暖かかった。俺よりも低体温のはずの彼の身体は、冷えた俺の身体には痺れるほどに熱を感じる。もっと感じたくて、抱き締める腕に力をこめて身をすり寄せた。
「やっぱり寒いんでしょう?私から熱を奪っていないで、さっさと湯船に浸かって下さい」
彼はほら、と回された腕を促すように引き剥がし、腕を突っ張って俺と彼の間に隙間をつくった。
ぎゅう、と
胸が締め付けられたように
息が苦しくて
くろいせかいで
しろいキミさえもきえてしまいそうで
「いたッ…!」
苦しげな悲鳴に再び世界を急激に映し出せば、目の前には手首を掴まれた彼。さっきまでの俺のように無理やり掴まれて、引っ張られて腰を曲げて不安定な体勢だ。眉を寄せて苦渋の色を示した表情は一層白い。
ぐるぐるとまわる、過去の映像。
「 」
無意識に零れ落ちたのは言葉だけでは無かった。
もはや何をしているのか、何を言っているのかも解らない。ただ、ぱたぱたと落ちる滴の音だけがずっと響いていた。
顔に感じる熱風に段々と意識がはっきりしてきた。目の前の彼は耳元でごぅごぅと唸る熱風を利用して、俺の髪を梳かしながら念入りに乾かしている。ぐいぐいと少し手荒な動作が妙に心地いい。
ぼんやりと頭を働かせた。
あの時、手首を掴んで離そうとしない俺の手を引いて、彼は浴室に入った。浴槽に俺を押し込むと、頭から熱いシャワーを掛けられた。そうして彼は腕まくりもせず、手袋も付けたまま俺の髪を引っ掻き回した。シャンプーこそしなかったが、大人しく手を離した俺は湯船の中で頭を洗われながらぼんやりと身体を暖めた。
一言も交わさないまま、やがてシャワーが止むと腕を掴まれて引き上げられた。されるがままになっている俺の腕を離さないままバスタオルに手を伸ばし、俺の頭に被せた。おそるおそるそれを掴んだのはいいけど、そのときはどうしたらいいか解らなくて。
立ち尽くしていると、彼は頭の上のタオルを奪うように取りあげて俺の身体を拭き始めた。むずがって暴れたりはしないが、世話をしてもらう気分は子供か老人のようで複雑だった。その辺りには自分もだいぶ落ち着いてきていて、流石に大事なトコロまでこんな状態で触ってもらうわけにはいかずに背と腕を拭き終わった彼の手をタオルごと握った。
自分でも笑えるくらい酷くおそるおそるといった手つきで、包み込むようにやんわりと。
彼が顔を上げて視線が合うと、彼は微妙な表情に歪んだ眉をはっきりとわかるほど歪ませて、不自然な動作でタオルを離した。そのまま仕事を終えた洗濯機と向かい合い、手際良く中にある俺の服を取り出す。そして、無造作に隣の乾燥機の中身と取り替えて、乾燥機に作業を始めさせた。
その間、ぼんやりと身体を拭いていたが、彼のほうが作業が早くて彼は少し視線を泳がせたあとに、乾燥機から取り出して洗濯籠に入れておいたものを手袋を外して、立ったままたたみ始めた。
白い手袋の下の日に焼けていない白い手が清潔な衣服を弄ぶ様は見たこともないほど酷く流麗で、それでいてからこそ幻想的な妄想を膨らませさせた。
手の止まっていた俺に気付いたのか、彼もひたりと手を止めておもむろに顔を上げた。合った瞳に現実には戻ってこれたけど、動揺が隠しきれなくていそいそと身体を拭くことに専念した。そうすると、視界の端では彼がまた衣服をたたみ始める。そうしてたたみ終えたものの中から取り出した服に着替え始めたことにも気がついたけど、敢えて視線を向けなかった。向けてしまったら、それこそ洒落にならない事態になりそうだったから。
仕上げに髪の水分をよく吸い込ませたタオルを頭から引きずり下ろすと、新しいタオルを鼻先に突き付けられた。焦点を合わせるとワイシャツにスラックス姿だった彼が、Tシャツとジーパンに身を包んで、濡れていない手袋をした手にタオルを掴んで、俺の鼻先に突き付けていた。怪訝に思う間もなく、柔らかい衝撃を受けた。それでいて少し痛い思いをしたのは、多分彼の手がそのうしろに潜んでいたからだ。
押し当てられたタオルが顔から滑り落ちる前に受け止めようとしたが、俺の手にはタオルがあるからうまく受け止められないハズだった。しかし俺の手からは既に水を吸ったタオルは無くなっていて、その空いた腕にすんなりと落ちてきた。見ると、もはや目の前の彼の手によって空の洗濯機に入れられている。俺は大人しく与えられたタオルを受け取って、腰に巻いた。
そうして、俺はこの部屋に来たときと同じように手を引かれて脱衣所をあとにした。
途中で寝室に立ち寄ったからものすごい焦って、思わず入口で固まってしまったけど、彼はベッドから毛布を引きずり下ろしただけだった。そのまま彼は毛布を抱えて、俺の手を引いたままリビングへと向かった。
その毛布に包まれて、今現在に至っている。
かちん、という音とともに熱風が止んで、仕上げに櫛だけが頭の全体を上から下へと這っていく。
美容師や理髪師のように巧みではないけど、丁寧なそれにだんだん気持ちよくなってきて、裸に毛布1枚のままうとうととし始める。毛布は暖かくて柔らかいし、彼と同じ匂いがするものだからなんだか気が緩んでしまって、脳天を弾かれてやっと我に帰れた。
「…痛い」
「落ち着いたのは結構ですが、眠るのは少々図々しすぎますよ?」
そろそろ乾く頃でしょうか、と立ち上がって、見上げる俺に視線を合わせたまま、トーンを少し落とした声音で問い掛けてきた。
「すぐ戻りますが…独りで待っていられますか?」
一瞬、何のことを言っているのか解らなかった。
彼は瞳を見開いた俺にまったく反応を示すこともなくただ黙っていたが、俺が頷くと、微笑むとまではいかないが頬の筋肉を緩めて俺の髪を軽く撫でた。幼い子供を宥めるようなその仕草は、彼くらいの大人の男なら当然の様にするんだけど、なんだか新鮮で、しかも俺だけ特別にしてもらったみたいで、心地良い浮遊感に包まれる。彼の背がドアの向こうに消えて帰ってくるまで、俺はドアに残る彼の面影にずっと浸っていた。
彼が乾いて綺麗になった俺の服を持ってきたことに気付かなかった。
ほんの数分もない時間に、俺はすっかり寝入ってしまっていた。
寝るな、と言われたばかりだというのに、つい柔らかいソファと暖かい毛布に身を委ねてしまって、彼が部屋を出て行ったことにも気付かなかった。
腫れた瞼をしょぼしょぼさせて身を起こすと、目の前のテーブルにはたたまれた俺の衣服一式と、一枚の書き置き。
たった一言書かれたそれは、まるで電話口のメモのように意味の判らない、なんの説明も無いただの名詞だった。
しかしよく知った酒場の名前だった。日本に来てよく彼が訪れていた雰囲気の落ち着いたジャズバーの名前。俺も彼に会いたいがために通っている店の名前。
シャツのボタンをしめる時間も惜しんで、俺は玄関の足元に不自然に置かれた傘と鍵を掴んで部屋を飛び出した。
勿論、毛布をたたむことと
部屋の鍵をかけるのは忘れなかった。
せっかく乾いていたズボンは水溜りのせいで大分染みになっていた。
荒れる息を整える気もない。ただ見えてきた見慣れた看板を目指して走った。
先ほどまでの気持ちとは違った。彼が消える恐怖とは。
そうじゃなくて。
そうじゃなくて、もっと違う。
ただ、キミに伝えたいことがあるだけ。
階段を駆け下りると、そこは地下。地下1階にあるそこは、手動の扉から既に聴き慣れた音が漏れ出していた。
弾ける音色。楽しげなメロディの奥底には気品と深み。
山奥を抜けたところにある、目映いほどの新緑と光をはじく湖面のようなイメージのそれは、やがて青い空が赤く染まり、静かに昇った月を映し出しているものへと変わる。
荒れた息を潜めるように、ドアノブに手をかけたまま、俺は扉の向こうに展開される音の物語を聴いていた。立ち尽くす俺を、幸いにも誰も見咎めなかった。
その曲が終わると、少し間が空いてから聴き慣れた曲が始まる。
『Lucifer』
それはポップンパーティーでも披露された、彼の切ない愛の歌。
どこかのアーティストのように実体験なのかどうなのかは解らないけど、滔々と流れる母国の歌詞に瞳を伏せた。
揚々と弾むピアノ音に希望に満ちた歌詞を歌い上げる彼の声は、相変わらず伸びやかで耳触りのいい低音だ。時折鼻にかかるように音を上げるから、そのたびに心臓がはねあがる。
ただ気にかかるのは、歌詞の端々に映る切なさを隠し切れないキミの声。そして、どこか憂いの抜けない音色。
初めて聴いた時からそう思っていたけど、謙虚な愛と自己犠牲の姿勢は、彼自身への戒めのような気がしてならない。
キミが「愛している」というのは歌の中だけ。
その中でさえキミは本心を見せないの?
ドアノブにかけられた手に力が篭る。
顔を上げると、その扉が目の前に広がる。
自動には開かない。
少しきつめの蝶番に、防音のためか厚手のもの。
目の高さより少し下に貼り付けられた、年齢制限を始めとするこのbarでの細やかな規則が書き連ねてある注意書き。
概観の装飾はその重厚さを増幅させるように近寄りがたい雰囲気を醸し出す。
キミの心はこんな感じなの?
それとも、もっと、想像もつかないようなものなの?
ゆっくりと押し開ける。
大きくなる彼の声、ピアノ音。
…こんなふうに簡単に入れるなら、こんな思いはしていない。
誰も入れないでなんて言わない。
入ろうとしてくれる人を、どうか拒否しないで。
だって、キミには俺には無いものがあるから。
それを隠して無かったことにしてしまわないで。
2004/12 著
久しぶりの更新です。
内容についてはもうノーコメント。傷を思い出してしまっただけ。
暗い話だ…ていうか無理矢理お題「愛しているとキミが言う」にしてしまった感が…!!
フォクシーさんの台詞、もしかして「痛い」しかないとかそういうオチですか?
一応お題18に続きます。