特に富んだ変化に乏しい、平常。
仕事にも大した気力を要さずに、時間が過ぎるのをただぼんやりと見ていた。
勿論手元の書類を疎かにしているわけではないが、迫る予定に気だけが逸る。
今日は…久しぶりに、夕方からの演奏を依頼されていた。勿論正式な仕事ではなく、行きつけの飲み屋に誘われた程度のものだが、依頼されたからにはプロとしての誇りを以て誰もが納得のいくものを弾いてみせたかった。昨日の指慣らしの時点では特に問題は見られなかったが、何かがひっかかっているように釈然としない。…何か、足りないのか多いのか。まだそれは解決せずに腹の中で燻っている。

…幸い、今日のノルマは少なかった。
徐にディスプレイを立ち上げる。そうして、早めに仕事を終わらせるべく作業に集中した。





気がつくと、外は雨が降りはじめていた。一段落ついた仕事を仕分けして封筒に入れ、さらにそれを纏めたら今日のノルマは終了だ。それらを机の脇に積み、水が窓を弾く音を聴きながら、茶でも飲もうかと、椅子を立ち備え付けの給湯室へと向かった。

淹れる紅茶の選択を迷っていると、先程まで自分のいた部屋から聞き慣れた、圧迫感のある声が耳に届いた。
「カモミール」
こうした神出鬼没な登場も慣れているから、大して驚くこともなく大学の先輩でありこの会社の社長である彼―ポップンパーティーでは確かMZDと名乗っていたか―を振り向きもせずに、名指しされた茶缶に手を伸ばした。
「…癒しをお求めですか?先輩」
「なんとなくだよ、なんとなく」
そんな意味もない会話を作業の片手間にやりとりし、淹れ終わったポットとティーカップを2つトレイに乗せて給湯室を出ると予想通りの姿が見えた。
相変わらず派手な配色のTシャツに身を包み、室内だというのに深く被ったニット帽の下のサングラス越しにこちらに視線を送り片手をあげるその姿は、いかにも『事務所』のようなこの部屋には不釣り合い過ぎる。
当然のように片隅にあるソファに腰を落ち着けていて、さらに早く来いと顎で促してくる。そんな横柄な態度に慣れた自分もどうかとは思うのだが、いちいち目くじらを立てていてもキリがないので敢えて何も口に出さず、彼の目の前のテーブルに茶の用意を始めた。


それから茶菓子を半ば強引に出させられたり、やっぱりアールグレイが飲みたいだのと宣われたりして慌ただしくなったが、それでもやっと一息ついた頃に、唐突に彼は話を切り出した。


「オマエ明日休みだったよな」
「はい、休暇を戴いておりますが…予定はございませんので出勤は可能ですよ」
「んにゃ、そうじゃねーよ。ちっとな」
そこまで言って、彼は面倒臭そうに眉をひそめて、首の付け根を乱暴に掻きむしりながら言葉を濁した。
「オマエ、今日の仕事終わったんだろ?」
「?いえ、まだ整理が残っております」
「いい」
「…はい?」
「いいから、俺がやっとく。もう帰れよ」
本当に気だるげに、心底どうでもいいといったふうに彼はてのひらをひらひらと上下に動かし、私に退社を促してきた。
あまりにぞんざいなその態度に頭にきた私は、苛立ちを隠さずに席を立った。
「終わらせてから帰ります」
「あー、もうメンドくせー奴だな〜。俺がいいっつってんだからさ、オマエこれから仕事だろ?ちっと練習したいんだろ?」
その言葉に思わず身体が固まった。告げていなかったはずだ。今日夕刻からの私の予定なんぞ。
凝視する私に視線を合わせて、態度を変えないままドアを指差してたたみかけてくる。
「ハイ、解ったらとっとと帰んな。長い間の事務処理で腕鈍るなんて承知しねーよ?
 …後から店に行くから、俺に納得のいく演奏してみせろ!」
「は、はいっ必ず!」
急に荒らげた声と気配に思わず反射で返事をし、それでは失礼します、とあわただしくも部屋を後にした。




追い出されるようにロビーに出ると、受付に構える見目麗しい女性たちが揃って労いの言葉をかけてくる。荷物も持たない自分に帰宅する者への言葉を迷いもなくかけてくるあたり、既に先輩から連絡がいっているのだろう。用意周到なことだ。
荷物のないまま外を歩くのは手持ち無沙汰で落ち着かない。しかし引き返そうにも多分部屋の中へは入れて貰えないだろうから、仕方無く玄関に足を向けた。ポケットの財布と携帯を確認しながらドアをくぐると、外は雨が降っていることを思い出した。
生憎と、傘は持ってきていない。演奏を依頼された飲み屋に直に向かっても良いのだが、流石に時間が早い。この時間帯では迷惑になるかもしれない。
それらを踏まえて、さて、どうしたものか。
溜め息をついて立ち尽くしていると、肩をとんとんと叩かれた。
振りかえると、視界に黒が広がった。目を閉じたわけでもなく、視界を阻まれたわけでもない。
視野を上げれば、顔のない顔がこちらを向いている。唯一ある口の端だけをつり上げる様は、傍若無人などこかの誰かを彷彿とさせた。無理もない。これはその誰かの『影』にあたるものなのだから。
それはどこからともなく紺色の傘を取り出し、こちらに放ってよこした。至近距離なのだから手渡せば良いのに、そういう微妙な嫌味どころは見事に主人にそっくりだ。
…先輩が、気を利かせて遣わせたのか…
ありがたいが何となく腑に落ちない気分でその『影』と彼の主人に礼を述べると、満足そうに頷いてそれは霧散して消えた。
再び外へと意識を向ける。ぱしりと傘をさすと、なんだか妙に違和感があった。
いつも所持している傘ではないからなのか、落ち着かない。
無地が落ち着いたその傘の柄の重さを肩に預け、ぱらぱらと降り注ぐ雨の中へと繰り出した。


どうやら思ったよりも長い時間降っていたようで、地面にはいくつも水溜まりが出来ていた。音を立ててはねる水がスラックスの裾に跡を残し、革靴を濡らしていくが、まだ中まで染みるほど降りは酷くない。
狭まれた視界の中で、玄関から敷地を出るまでの道程は、普段歩くよりも長く感じた。相変わらず街中とは思えないほどの静けさが今日は一段と増していて、煩いはずの雨音さえもそれに輪を掛けた。
だんだんと街の喧騒が聞こえてくる。さっきまでとは別の色に塗装された道に足を踏み出すと、駅の方角へ足を向けた。


「…Hello」


力のない声に傘をあげて振りかえると、見慣れた姿があるはずだったのだ。しかし、その姿は見慣れたものとは違っていた。
確かに期待した通りの人物だった。
塀を背にして大きな身体を抱え込むように蹲り、顔だけこちらに向けて微笑んだ。ただし、いつものそれではなく、無理に口の端をつり上げているような。濡れて額や頬に張り付いている黒髪の隙間から覗くオレンジがかった黄色の瞳は、酷く色あせたものだった。
元々鮮やかな黄色だっただろう、見た事のあるボタンダウンのストライプのシャツも、薄青系だったはずのジーンズも、水を含んで暗く変色してしまっている。

私は立ち上がらない彼に歩み寄り、傘を差し掛けた。
「…何してるんですか、傘も差さずにこんなところで」
「予想ついてるくせに。…怒らない?」
「予想通りの返答をしたら怒ります」
「…じゃあ叱ってヨ」
瞳を逸らさないまま小さな音を立てて水溜まりに膝をついて、その上に両手を乗せ、瞳を閉じた。
「…何の真似で」
「…怒られようかと思って」
「怒られたいんですか」
「NO」
強く否定の言葉を吐いた後、瞳を閉じたまま顎をまた少し引き、肩を丸めて、今度は弱々しい声で呟いた。
「…できたら…゛仕方の無い人だ″って…わらって」

…彼がこんなふうに自分の前に跪いて、『わらってくれ』と打ちひしがれるように言う日がくるだなんて、想像もつかなかったどころか今目の前の現状を幻かと思えるほどだ。
いつもの彼なら嫌味なほどの微笑みで、おどけたように『逢いに来ちゃった』などと告げるはずだ。
「…なにか、あったんですか」
「…別に…なにも」
「見え透いた嘘を吐かれて気分を害さない人がいるとお思いですか?」
「嘘って、わかるの?」
彼は瞳を開けた。頭から流れた水が目に入ったのか、2、3度忙しく瞬きを繰り返して、彼は感情の乗っていない視線を投げてきた。
私は大きく肯定した。
「いつもの貴方と違いますから」
「…いつも、の?」
「はい」

それっきり彼は視線を顔と一緒に下げてしまって、辺りは次第に強まっていく雨音だけが静寂を砕いていた。
「イイよ」
ぽつりと呟いた後、彼はトーンをかえずに早口でまくしたてた。
「俺、もう濡れてるから、傘差してくれなくてイイよ?kidが濡れちゃうし…俺帰るね。もう、目的果たしたし」
キミに逢えたから。
そう顔をあげないまま付け加えて、立ち上がった。
傘の羽の部分をつまんで私のほうに押し戻し、にこりと微笑みを浮かべてみせた。
「じゃまたね、今日は困らせちゃってゴメンね?」
からっぽの笑みのまま、すまなそうな声色を残して、彼は背を向けて走り出した。
その背は数歩もいかないうちに、ぴたりと止まった。
…らしくない。
しかしそんなもの、お互い様だ。

「…なぁに?kid」
瞳を流れ落ちる黒髪で隠して、色だけはいつもの調子の声を降らせてきた。私の掴んだ袖口をやんわり解こうとしたが、その手にぐっと力をこめると、それを諦めたように手を添えたまま無言で私の言葉を待っていた。
「…私は」
一度、そこで言葉を途切らせた。言ってしまったら、何故か自分だけが惨めな思いをしそうで嫌だった。息を飲み、さらに強張っているであろう苦い私の表情をやはり怪訝に思ったのだろう、彼は不思議そうに少し首を傾げてみせた。

言いたくない。
言うのはらしくない。
しかし…

「…私は…私の力では、貴方に傘を差し掛けてさしあげることも…出来ないのですか…?」



そう、らしくない。ガラではない。有り得ないと言っても過言ではない。
ただ、正直に言えば悔しかったのだ。
『好きだ』と繰り返すくせに、頼ろうとしてはこない。気張っているのかどうかは知らないが、いつも余裕めいた態度を振りまいて、そうそう決定的な弱味を見せてこなかったのだ。
そのくせこちらを気遣うのは異様に上手く、鋭く弱味を握って宥めてくる。強いところも弱いところもお見通しなんじゃないかと錯覚をさせる程の的確さが、何も知らない自分に劣等感を覚えさせる。
知りたい、とは一概に言えない。
ただ、確かなことは、その事実に無性に腹が立つし、卑怯な気がするのだ。私だけが知らない事実に。
だから、今気を掛ければ後々彼の良いように解釈されて面倒な事になりかねない。何事もなかったようにこの場を去れば、冷たい態度に愛想を尽かせて二度と私に対して愛情を抱かないかもしれない。
その方が都合が良いのに。


落ちた沈黙。視線を合わせたまま、その間には雨だけが音を立てて降り注ぐ。
視線を逸らしたのは私からだ。有り得ない言葉にも眉一つ動かさなかった彼に、ただ恥辱と絶望を感じたのは否定できなかった。俯いて、裾に入れた力をぬいて、腕を降ろした。
「…出過ぎた真似を…申し訳ありませんでした」
そう言い残して、背を向けた。足早に、というわけではないが、ゆっくりというわけではない足取りで、私は再び駅に向かった。


駅に着くまでが短く感じた。まだ早い時間なので人もまばらで、難なく屋根下に入って傘を閉じる。
水気を軽く払って纏わりつかないように留めると、上着の内ポケットに常に入れてある定期を取り出すために歩きながら懐に手をいれようとした。

その瞬間
もう一組の腕が懐を押さえこんだ。

「…Sorry,kid…」
その腕は後ろからのびていて、私を包みこんでひやりとした何かに押しつけた。
背中に染みるその感覚は、冷たくそして重かった。締め付けてくるその両腕を受け入れも拒みもしないで、ただ瞳を伏せて次の言葉を待った。
「…格好悪いトコ見せちゃってゴメンナサイ…お願い、行かないで…」
「…一々大袈裟なんですよ貴方は」
降ってくる縋るような台詞に溜め息を吐いて、剥そうと黄色のシャツの袖を引っ張りながらその腕に手を掛けた。すると、さらに力が籠って圧迫感が増した。
「ちょっと」
「ヤだ」
短く子供のような物言いで、さらに力を込めてくる。続いて肩に軽い衝撃が伝わり、視界の隅に濡れた黒髪が映る。その先から雨が不規則に滴り落ち、上着の色を変えていく。すぐ耳元で、吐息のような囁きが悲痛な余韻を残して響いた。
「いやだ…!」
その吐息と滴を首筋に感じて、内心焦りを感じた。
「ち、ちょっと…っ!放して下さい、目立っているじゃないですかッ」
見られていますから、と引き剥がそうとしても、いやいやと首を私の肩の上で横に振るばかりでびくともしない。その間も、通り行く人々は何事かとしきりに好奇の目を向けてくる。
目立っている。
ただでさえ単体でも浮くというのに、さらに人目をひくのは恥ずかしい。
引き剥がすのに力を溜めるため、一度全身の力を抜くと、ふと気付いた。
震えていたのだ。
気をつけないと判らない程微かに、けれど確実にそれを背中に感じた。
「…寒いんですか?」
あれだけ雨に打たれれば当然だと問う私に、彼はやはり首横に振るばかり。
違うのか?
だったらいったいなんだというのだ。
とにかく、これでは埒が明かない。まずは彼に放してもらうのが先だ。
「…あの」
何と言ったら納得するか。一瞬であれこれと考えて、この際誤解を生んでもよい覚悟で台詞を吐いた。
「これでは貴方と対等にお話出来ませんよ」
ぴくり、とさっきから頭部に触れていた大きな耳が跳ねるのを感じた。あと一息なのか?
「私は貴方と向き合ってお話したいんですが」
いかがですか、という問いが終わらないうちに、回された腕からふ…と力が抜けて、背中の圧迫感が無くなったのを感じた。その隙を突いて片手を自分の身体と彼の腕の間に挟み込み、顔を上げながらゆっくりと振り返った。
そこには、黒髪からとめどなく水をたらし、まるでたった今そのままの格好で泳いできたとでも言わんばかりの姿で、俯いたまま立っている彼が居た。ぽたぽたと音を立ててコンクリートに落ちる水は、彼の頭や手、衣服からだけではなかった。


泣いていたのだ。


「…泣いているんですか?」
この問いには彼は首を横に振らなかった。手の甲で目元を押さえた後、微かに頷いた。
広い肩が見る影も無く小さく竦められて、小刻みに震えだす。
「…行きましょう」
手を取った。正確には手首を掴んで、軽く引っ張って歩くように促す。
「まだ電車は混雑しない時間帯です。他人に迷惑がかからないうちに、さっさと着替えましょう」

そうして、手首を離さないまま私は彼を連れて電車に乗った。





2004/11/著









お題「確かなこと」でした。
確かなことは、グリーンさんがフォクシーさんに対して劣等感を抱いていること
そして、フォクシーさんが今酷く不安定なことです。

フォクシーさんがヘタレなのも事実で(笑)すぐ泣くんだから…(泣かすなよ)

次のお題に続きます!