ゆったりと蒼が広がっていた。時折潮風が頬を撫でる中、髪を揺らして彼が佇んで、こちらを向いている。
名を呼んで、側まで歩み寄る。彼は目を合わせたままぴくりともしない。心配になって手を伸ばしても、何も反応は無い。
思い切って頬を撫でると、強張っていた表情が緩んで…ふわりと、唇が弧を描いて、目を細めた。

堪らなくなって、そのまま腕を背に回して抱き寄せた。



…好きだ




そう呟いて。










次に広がったのは、見慣れた風景。見慣れたcurtainが隙間風に少しだけ揺れると、明るい光が入ってくる。眩しさに思わず顔に手を翳すと、遠くで鳥が鳴いているのが聞こえた。

…夢、かぁ…

夢を見た。
彼が微笑ってくれる夢を。
ふわりと優しい表情で、見つめられて。

…俺だけに。


幸せだった。
たかがそんなことかと笑われるかもしれないけど、それは長年の夢だった。



でも、その肝心の表情は覚えていない。
当たり前かもしれない。
だって…実際は見たことがない表情なんだから。






…恋しく、なった。









仕事かどうかは知らないけど、7分の2の確率に賭けて彼の家を訪ねた。
intercomを鳴らす。耳を澄ませてそれ越しに聞こえるかもしれない声を待った。
…もう一回。
そして、door越しに気配を探ってみる。
…いない、かな。
今日はハズレてしまったらしい。小さく舌打ちして、その場を後にした。
…Shit.





彼の勤めている会社の前まで来た。
しかし、相変わらず広い敷地だ。以前来た時には気が逸っていたから気にも留まらなかったのに、いざこうして向き合うと敷居が高い。門の向こうには、まだ玄関がある。
警備員まで配置された、ここはtalent agency。俺もある種芸能人だけど、amateurな上にfreeでやっているから、ある意味一般人。自分を売り込みたいわけでもないから、敷居の高さは半端じゃない。

…駄目だ、入れないよ…

いつになくnervousじゃない、らしくないなぁ、なんて自分を茶化して、来た道を辿り始めた。
道中、気晴らしにどこかに行こうかと思考を巡らせたけど、何だかどこも気乗りしないので結局おとなしく帰路についた。





ぼんやり歩きすぎた。
信号にはhornを鳴らされないと気付かないし、bicycleにはねられそうにはなるし、看板には額を打ちつけるし、水溜まりには足を突っ込むし、子供は踏みそうになるし。
散々。
さっきなんか、俺は犬科の獣人なのに野良犬に威嚇された。
いつもなら避けられてるはずなんだけど、低い唸り声に気がついてその方向に顔を向けると、犬と目が合った。生ゴミの入ったビニール袋を漁り、食い散らかしている最中だった。

…その毛色の黒い薄汚れた犬は、忘れかけていたあの姿そのもので…

ひゃん、という悲痛な叫びにハッと我にかえると、太い尾を情けなく腹に付けて、一目散に逃げ出す犬の後ろ姿が目に入った。
多分…怖がらせてしまったんだろうな…
まだかすかに目尻に残る憎悪に溜め息をついて、痩せていた野良犬に心で詫びた。





忘れてかけていたあの姿を思い出した。
生きるために…都会の野良犬か鼠のように生きた、過去の自分。
食のために当然のようにあんな風にゴミを漁り、金のためにいろいろやった。…それこそ、人殺しをするまでには墜ちずに済んだだけだ。

…汚い。人には言えないような汚いことを繰り返した。
一生癒えない醜い傷痕も持っている。





キミに逢いたい。
ただそれだけのために、この10年は生きた。
逢った時少しでも恥ずかしくないように、ちゃんと勉強して大学まで卒業して資格まで取った。
でも、学校通う金も生きるための金も綺麗なものばかりじゃない。…ほとんどが、汚い手段で手に入れた金だ。


あの時は若かったから手段なんか選ぶ余裕も無かった。
今になって後悔してる。
だから、俺が二度と戻る気もない母国から持ってきたのは二つだけ。
ひとつは真っ当に働いた金で正当に手に入れた、俺の相棒。
決して高級な品じゃないけど、俺の気持ちを汲んで叫んでくれるsax。
もうひとつは、中学2年の遠足の日、先生がclassのcameraで撮った俺と彼だけを写した写真を入れたロケット。
彼が引き取らなかったから、自動的に俺が貰えることになった代物。

…俺の、大事な宝物たち。


10年前の彼は、向けられたcameraに目もくれず、ただ仏頂面でorienteeringの紙とにらめっこをしている。俺だけ、彼と一緒にいるのが嬉しくって呑気に笑っていた。
真剣な表情の彼はとても魅力的。張り詰めた鋭い気配が堪らなく知的で、有無を言わせない圧迫感があるがその清廉な雰囲気がこれ以上ないくらい格好良過ぎて…同じ男として、ムカつくくらい憧れる。
素敵だけど。
憧れるけど。


…寂しい。









俺はキミが好きだよ。
だから、少しでも俺の傍で楽しいと感じて欲しい。
俺が幸せだと感じている瞬間を、キミにも感じて欲しい。


…でも。
本来なら俺はキミの隣りで笑う資格なんか無い。
綺麗なキミに、汚い俺は触れてはいけない。…キミを、汚してしまう。


だから…またこうして逢えただけでも幸せなのに。

どうしてそれ以上を望むの?





首から下げ、片時も手放せないロケット。懐から取り出して、ぱちんと開くと懐かしいキミがいる。
色褪せた古い写真には、色褪せないキミの魅力がそのままに。






「…好きだよ」

そうして唇を落とす。

「逢いたいなぁ…」






呟いた声はなんだか遠くて、他人のものみたいに俺の意識を掠めた。
そうして、自然と足は来た道を逆に辿っていく。






…キミに、逢いたい。
















2004/9/著




お題15の『それもひとつの愛のかたち』です。
何か暗い話になってきました。いやん。後ろ向きだよフォクシーさん。

『好きな人が自分の隣で微笑ってくれればそれでいい』

それが一つの愛の形式(カタチ)。
それも叶わないなら…どうしたら。
それが叶ってしまったら…どうなるのか。
最終的には、どうなってしまうのか…それが愛の極限値。良くも悪くも、最終ラインは予測がつくようなつかないような。
不毛であればあるほど、居た堪れないでしょうね。


お題16に続きます!!