さらさらと霧のような雨が降る。
そんな中でも煌びやかな夜の街を、傘も差さずに真っ直ぐと足を進めていく。色とりどりのネオンライトが渦を巻いて波のように、目にする人を歓楽へと飲み込んでいく。掛けられる声を適当にあしらって、そことは少し外れた道へと入る。
うって変わって人の気配のないそこでは、申し訳程度に植えられた街路樹が、雨に濡れた葉を重たげに揺らして、風に声を立てている。
…泣いてでも、いるかのように。
そんなに泣かなくても、解っているさ。



…俺が、狂い始めていることくらい。






向かうのは、もはや誰の手も付いていない廃屋。
少し前に買い取ってはいたが、まさかこんなことに使うだなんて、その時は思いも寄らなかった。
その時はマトモだったんだ。少なくとも、今よりは、確実に。

壊れかけた家。ギリギリでまだ人が住めるような気がするそこは、本格的に掃除をしたら壁ですらマトモに残らないのではないかと思うのを禁じえないほど傾いている。せいぜい、雨風が凌げる程度。
かけるだけ無意味な鍵を開けて、埃と泥だらけの玄関にそのまま上がる。濡れて重くなった髪をかき上げ、みしみしと音を立てて、腐った板を跨ぐように奥へと入っていく。廊下には、枯れた花。
…あの人のくれた、一輪の花。もう初めて目にした時の鮮やかさは消えて、最早茶色に変色して俯いている。
そこを過ぎると、雨漏りの一際酷いキッチン。その中央で、床にある少しくぼんだ部分を探す。そこだけ触るものだから、埃も泥も綺麗になくなっているので見つけやすい。やすやすと見つかり、なんの迷いもなくそこに手を掛けて、ゆっくりと引いた。
蝶番が鈍い音をたてて開いたその先には、闇へと伸びる階段がある。
俺の、心の闇に通じる、階段。
そう長くもないそこを下っていくと、小さな扉がある。そこまでの道のりに響く足音が、心臓が潰れるくらいに早まる鼓動と調和して、気が変になりそうなまでの音を奏で始める。頭が割れるように痛い。目の前がちかちかして、暗転する気配がする。…ここで、引き返したら。


引き返したら、俺は狂わなくて済むのに。


狂わなくて済むのに、足はもう扉の前に行儀良く並んでいて、小さな扉に自分の影が伸びていた。
ドアノブに、手を掛ける。かちり、という音が厭に響く。そうすると、その奥で気配が気だるげに身じろぐのが解る。重たげな金属独特の鈴なりが微かに耳につく。ゆっくりと扉を開け放すと、そこは…牢獄。





「帰してください」
薄い明かりの中、彼は俺が声を掛ける前に言った。
凛とした、けれどかすれきった声で。
吐き捨てるように、憎悪と嫌悪に満ちた声で。
よれたシーツの上、もはやぼろきれでしかないシャツを身に纏い、血が通っているのか疑わしいほどに白い、象牙のような腕を震わせて身を起こそうとしている。その2本の腕を繋ぐのは、鈍色の枷。力が入らないのか、動かせれど身を支えることは不可能だろう、腕と動揺に小刻みに震える足とベッドも、両腕と同じように鎖で繋がれている。
そうして、乱れた薄い色合いの金糸の合間から、知的な雰囲気を匂わせる切れ長の琥珀をつりあげて見せる。
…その様子をみると、俺は狂い始める。
さっきまで煩いほどだった動悸は嘘のように消え去って、残るのは…冷たいもの。

「よく眠れた?」
「家に帰してください」
「駄目だよ」


そう、帰してあげるわけにはいかない。


無造作に近づいて、いまだ起き上がりきれないでいる彼の上にのしかかる。
ベッドが軋んだ音を立てると、腕の下の身体がびくりと縮む。見上げる琥珀は鋭く睨みつけたままだが、微かに怯えで曇っていた。そんな彼を見下ろしたまま唇を歪めると、彼は悔しそうに歯噛みした。その紅潮させた頬と生理的に潤んだ瞳は、下肢に鈍い痛みをもたらす。
「だって、帰したら行っちゃうデショ?」


頬に触れると、組み敷いた身体は小さくはねて、足元で金属が触れて冷たい音がする。
そのまま首筋に指を這わせると、不自由な両腕でその手を撥ね付けてきた。言葉を用いない拒否反応は、最早口も利きたくないという態度の表れか。
「…イイよ。キミの意見なんか元々聞く気無いし」
すらすらと、自分の口がまるで他人事のように言葉を紡ぐ。勢いなのか、それとも与り知らぬ自らの意思感情か。
押さえつけられたまま弧を描く俺の唇を凝視して、見る間に顔色を変えていく彼。白い肌がさらに血の色をなくしていく。
彼の血はもっと赤いのに。俺に流れているものよりも混じり気が無くて、もっと色の深い、目にしたら心を奪って離さないほど魅力的な緋色なのに。その気配が微塵も伺えない。つまらない。

「ぅ…ッ!!」
悲鳴が遠い。顔をあげると、目の前に白い首筋が広がる。丁度骨の目立たない部分に、緋。内側から溢れるように面積を増して、その象牙の肌に幾筋も痕を引いて滑っていく。その周りも、ピンクに染まって緋の存在を主張しているかのよう。

これだ。
俺を魅了してやまない、緋色。

もっと見たい。その思いとは裏腹に、止まる気配の無いその湧き口に口付ける。緋を生み出すそこは、キスを恥らうように赤く色づいて避けようと身じろぐものだから、両手で押さえつけて舌を這わせた。そうすると微かに震えて、周りを粟立たせてさらに赤を顕著に示す。溢れてこぼれる緋を掬うように舐め上げれば、鉄の味が口に広がる。流れているものだけでは物足りなくて、湧き口から直接吸い上げて飲み込めるほど口に含んだ。

嚥下した音に驚いたのか、彼は押さえつけられた肩を大きく震わせて喉を鳴らした。その噛み傷とは裏腹に青ざめた目元が、噛み傷口と同じように液体を湛えている。緋ではない、色の無い液体。
種族柄、内に眠る本能の部分が『食われる』恐怖を感じ取った生理現象だろう。彼は山羊、被食される側で、俺は捕食側のイキモノだから。無意識のうちの恐怖。それはけっして無くならない俺と彼との壁。

その壁があるのに、こんなものは必要ない。
ここに俺がいる、それ以上の枷は無い。


どうせ、彼は俺の下から逃げられない




「コレ」
彼の両腕を繋ぐ鈍色の鎖。俺がそれを指でなぞるさまを揺れる琥珀の瞳が追うのを確認すると、宙に揺れる部分を無造作に握り締めた。
「鍵、失くしちゃったんだ。でも外してあげるね」
その台詞が終わらないうちに、握り締めた拳に力を込める。鈍いような、それでいて甲高い音とともに、鎖は『鎖』という名を失った。彼の胸元に降り注ぐのは、ただの金属の欠片。


見開かれた瞳。
彼は怯えがもう隠せていない。
だって、自由になったはずの両手は
変わらず繋がれたままのように動かない。

「愛してるよ」
耳元で囁いた甘い言葉も、届いているかどうか。






何度も繰り返して。
弾んだ息を整えるように、何度も繰り返し囁いて。
愛してるって
とっくに気が触れた俺だけど
何度も何度も
何度も何度も何度も。





『愛してる』






聴こえてなくても覚えていて。
俺はキミを愛しているよ。

















「…キミに似た子が、俺に宿ればいいのに」
数えるのも馬鹿らしいが、何度目か自分の欲望を彼の中に吐き出した後、楔は外さずに、荒れる吐息の中で独りごちた。自分の身に宿すつもりなら役が逆だ、と腹の中で自嘲しながら、引き攣るような震えを繰り返すばかりの彼の下腹を優しくなでる。もう顕著な反応はない。
自身を飲み込んでいるからか、不自然に膨れたそこは、なんだか愛しく感じる。自身が中にあるからか、否…
「…俺の子、孕んでるみたいだよね…ココ…」
下腹から手を離して、身体を伸ばした。そのせいか楔はさらに前進したようで、声ともいえない嬌声が腹の下の彼から漏れる。近づいた顔をさらに寄せて、苦痛を浮かべる目尻に唇を落として呟く。耳元で、囁くように。




「   」





足元で、重たげな鎖の音がした。まだ彼の足の自由を奪ったままの、枷の音。
耳元から顔を離すと、虚ろな瞳は色を少し取り戻していた。ただ、そこに映っているのは…恐怖と、驚愕。
ろくに力も入らないだろうに、金糸を撫でて玩ぶ俺の手にわざわざ手を伸ばして、問うてくる。
本気か?
そんな言葉を視線に乗せて。
もしかしたら正気かどうかを問うているのかも知れない。



悪いね、俺の仔山羊ちゃん
残念だけど俺はとっくに狂っているんだよ?



絡めた指。まるで恋人がするかのように、お互いの手のひらを合わせてシーツに乗せる。
会話手段は視線。意図を汲むのは自分次第。相手が自分の真意を理解しているかどうか判断するのも、自分次第。火照った身体を重ねたまま、視線のやり取りを楽しんだ。勿論楽しいのは俺だけ。切羽詰った彼の表情。
弱々しく、彼の唇が動いた。掠れた吐息が漏れるだけで、うまく聴こえない。
それでも。
俺は笑顔で答える。


「嘘、言ってるようにみえる?」


この台詞をいい終わるが否や、頬に衝撃を受けた。
彼が渾身の力をこめて、手を振り解いて平手をお見舞いしてきたのだ。勢いだけのそれは、何も威力も伴っていなかった。俺の頬を弾く力もなく、当たっただけで、そのままぱたりと縒れたシーツに落ちる。
その様子に、自然と笑いが漏れた。
「叱ってくれるの?」
俺の声も掠れてきてる。嘲笑うつもりで発した声は、なんだか縋るような声色で。自分でも笑えてしまう。
それに応える乾ききった吐息だけの罵声が、なんだか彼を遠い人に思えてしまって。



気がついたら、彼を抱きしめていた。
強く強く、壊れるほど。
彼の体が。俺の心が。
叫びだしたい衝動を抑えるように、捩れる彼の身体を掻き抱いた。

そのまま噛み付くようにキスをして。
舌を吸って歯列をなぞり、その薄い唇に歯を立てて。
何度も何度も角度を変えて。
繰り返すように深く深く口付けて。





後頭部に違和感を感じた。
温かいものが髪を撫で、何度もそこを彷徨う。
何かと唇を離して顔を上げようとすれば、それに力がこもって叶わなくなる。かくんと宙に浮いた俺の顔を…追うように、彼の顔が近づいて、口付けられた。まず下唇に歯を立てられ、それから唇が合わさって、…舌が、入ってきて。
戸惑う俺に、彼は唇を合わせただけの状態で囁いた。口の中だけで声になっていたようで、今度ははっきりと聴こえた言葉。



…貴方の望みは、叶えさせません…



声とは裏腹な力強い言霊。濡れてなお強い眼差し。
切れ長の瞳を閉じもしないで、慣れない行為を懸命に繰り返してくる。首に回した腕で時折髪を撫でてくれる。縋るように、宥めるように。



やめて
そうして欲しいんじゃない
そんな優しさは要らないの
欲しくない
それじゃない
俺が欲しいのはそれじゃないの




頬を温かいものが伝った。
それは彼の頬に落ちたようで、彼はそっと顔を離した。そうして、持ち上げているのもやっとだろうに、小刻みに震える手で頬を撫でてくれる。とめどなく伝う涙を拭うように、ゆっくり撫で上げられる。


その仕草が優しすぎて
俺にはもう毒でしかない



息のしづらい世界で、愛しい人の胸に顔を埋めて、声を殺して。縋りついて咽び泣く情けない自分。
他人事のように嗚咽が耳の奥で続いた。
耳元の彼の鼓動が心地良い。優しい響き、包み込まれるような感覚。
髪を撫でる、温かい手。

―――駄目だ。




何の前振りも無く、俺は身体を揺すった。すぐ耳元にある喉が息を詰めたのが聴こえる。そのまま彼の腰を掴んで、無心に腰を打ちつけた。首元の噛み傷から今だ溢れている緋色に舌を這わせる。そうすると、撫でてくれていた手は拒むように俺の肩を押しのけようとしてくる。






そう、それでいいよ
俺を拒んで
そうして受け容れて

キミの中に俺を残していかせて







「…俺が、あんなこと望んだのは、ね」
突き上げる速さは変えずに、上がってきた息の合間に言葉を紡ぐ。
「…キミの背中、を…見たくないからッ…」
それだけなんだよ?
そうして笑みを浮かべる。
絶頂が近い。…お互いに。






――――もし貴方の中に子供が宿るのなら、俺自身を宿してください。
      そうしたら、ずっと貴方の傍に居られるんでしょう?







果てたあと、長々と彼の腹中に居座った楔を引き抜いて。
呼吸の辛そうな彼の鼻先で囁いた。
一言。














「Good-bye…kid…」











赤が彼の頬に落ちる。
次々に広がるその赤は、彼の首筋に浮いているものと同じはずなのに、全然違っていた。
綺麗な緋色じゃない。
禍々しいまでにぬめった、あかいろ。
キモチワルイ。
見たくない。
閉じる前に瞳に映った彼の表情は、絶望と悔根と、悲しみに     ――― 揺れて。







琥珀の瞳に映っていたのは、微笑の浮かぶ口端から、血を流して瞳を閉じる自分の姿だけで。
俺は満足して闇に身を委ねる。






























『…今から、舌を噛むから優しくして?』


















2004/8/著


お題 『背中』 でした。
イタイ系の話は初の試みです。
エロいシーンの描写がほぼ皆無でスイマセン…;;てか、描写は難しいです。


ネタは僕の好きなバンドさんの歌詞から。
いつか書きたい書きたいと思っていてようやく書けました。万歳。
この歌、女性視点だったことをこの小説書いてる最中気がつきました。
ずっと男の人視点だと思ってた…(だって表現が卑猥な歌詞なんだもん)


…なんか主題が「あかいろ」っぽい気がしますが、一応 『背中』 で。