牧 水 と 千 本 松 原


    むきむきに枝の伸びつつ先垂りてならび聳ゆる老松が群
    千よろづの松にまじらうこの松のひたに眞直ぐにひたに眞き
    松原のしげみゆ見れば松が枝に木がくり見えてたかき富士が嶺
    腕かぎり泳ぎつかれて休らはむ此處の松原かげの深きに
    松かさと見まがふ鳥のめじろ鳥群れてあそべり老松が梢に
    日に三度來り來飽かぬ松原の松のすがたの靜かなるかも
    ゆらぎあひて天にそびゆる老松は老松どちに枝かはしたり

 これは牧水が沼津千本松原で詠んだ短歌の一部です。牧水が千本松原をいかに愛していたかがうかがえます。
 様々な人々の来訪で自分の仕事の時間がなくなり、酒を飲む機会も増えるなど、東京での生活に疲れた牧水は、いつしか田園生活を考えるようになります。牧水が転居先に選んだのが、東京から遠からず、海岸に続く千本松原を持ち富士山が見える風光明媚な沼津でした。沼津から船で西伊豆の土肥温泉へ向かう途中で眺めた千本松原の偉大さに心惹かれたからだったと、牧水は述懐しています。
 そして大正9年8月、一家を挙げて沼津へ移住します。千本松原から半里ほど離れたところにある香貫山の麓の借家でした。
 そこに落ち着くと、長男旅人を連れて香貫山に登り、
香貫の借家の庭にて


    海見ると登る香貫の低山の小松が原ゆ富士のよく見ゆ
    香貫山いただきに來て吾子とあそび久しく居れば富士リれにけり
    低山の香貫に登り眞上なるそびゆる富士を見つつ時經ぬ

の3首を詠みました。牧水の海へのあこがれ、富士山へのおもいが胸を打ちます。そして、


    駿河なる沼津より見れば富士が嶺の前に垣なせる愛鷹の山
    愛鷹の襞のもみぢのつばらかに見ゆる沼津の秋日和かな
    愛鷹の根に湧く雲をあした見つゆふべ見つ夏のをはりと思ふ

などの歌に見るように、沼津の地に いよいよ惹かれていきました。


 一、二年の静養のつもりが次第に永住の気持に傾き、ついに大正14年には千本松原に隣接した土地を求め、住居を構えることとなりました。牧水は千本松原を散策することを日課とするほどこの松原に心底惚れ込みました。
 ちょうどその時、静岡県による千本松原の松の一部を伐採する計画が起こります。牧水はこれに反対して、『沼津千本松原』と題する文を新聞に投稿し、千本松原について述べています。
松原に隣接して建てられた牧水の家

 「千本松原位ゐ見事な松が揃つてまたこの位ゐの大きさ豐かさを持つた松原は恐らく他に無いと思ふ。狩野川の川口に起つて、千本濱、片濱、原、田子の浦の海岸に沿ひ徐(おもむろ)に彎曲しながら遠く西、富士川の川口に及んでゐる。長さにして四里に近く、幅は百間以上の廣さを保つて續いてをる。この全體を千本松原といふは或は當らないかも知れないが、而も寸分の斷え間なく茂り合つて續き渡つてゐるのである。而して普通いふ千本松原、即ち沼津千本濱を中心とした邊が最もよく茂つて居る。松は多く古松、二抱へ三抱へのものが眼の及ぶ限りみつちりと相並んで聳え立つてゐるのである。ことに珍しいのはすべて此處の松には所謂(いはゆる)磯馴松(そなれまつ)の曲りくねつた姿態がなく、杉や欅(けやき)に見る眞直な幹を伸ばして矗々(ちくちく)と聳えて居ることである。
 今一つ二つ松原の特色として擧げたいのは、單に松ばかりが砂の上に並んでゐる所謂白砂青松式でないことである。白砂青松は明るくて綺麗ではあるが、見た感じが淺い、飽き易い。此處には聳え立つた松の下草に見ごとな雜木林が繁茂してゐるのである。下草だの雜木だのと云つても一握りの小さな枝幹を想像してはいけない。いづれも一抱へ前後、或はそれを越えてゐるものがある。
 
その種類がまたいろいろである。最も多いのはたぶ、犬ゆづり葉の二種類で、一は犬樟(いぬぐす)とも玉樟(たまぐす)ともいふ樟科の木であり、一は本當のゆづり葉の木のやゝ葉の小さいものである。そして共にかゞやかしい葉を持つた常緑樹である。その他冬青木(もち)、椿、楢(なら)、櫨(はぜ)、楝(あふち)、椋(むく)、とべら、胡頽子(ぐみ)、臭木(くさぎ)等多く、たらなどの思ひがけないものも立ち混つてゐる。而して此等の木々の根がたには篠(ささ)や虎杖(いたどり)が生え、まんりやう藪柑子(やぶかうじ)が群がり、所によつては羊歯(しだ)が密生してをる。さういふ所に入つてゆくと、もう濱の松原の感じではない。森林の中を歩く氣持である。」



松原を背景に千本浜海岸にて


次男の富士人氏とともに

 牧水の樹木に対する知識の豊富なことに驚かされ、牧水の千本松原に対する愛情の深さに感心させられます。
 また、これらの木の茂みに集まってくる鳥についても触れ、季節によって異なる様々な鳥が松の梢を飛び交う様子を詳しく記しています。鋭い観察眼に支えられた牧水の記述は、それらの鳥の鳴き声まで聞こえてきそうで、ただただ敬服するばかりです。

 さらに、千本松原のいわれについても触れています
 戦国時代にこの地方で敵対していた北条方と武田方との戦略から貴重な松原が一本残らず伐り払われた結果、海からの西風のため農作物が塩害にさらされ人々が難儀をしていました。これをみかねた旅の僧増誉上人(千本山乗運寺の開山)が、松苗一本植えるごとに阿弥陀経を誦し、ついには一千本の松苗を植える悲願を達成しました。これが千本松原の基いとなったことを詳しく記し、
当時の千本浜海岸の風景

 「幾らの錢のために増譽上人以来幾百歳の歳月の結晶ともいふべきこの老樹たちを犠牲にしようといふのであらうか。
 私は無論その松原の蔭に住む一私人としてこの事を嘆き悲しむ。が、そればかりではない。比類なき自然のこの一つの美しさを眺め樂しむ一公人として、またその美しさを歌ひ讃へて世人と共に樂しまうとする一詩人として、限りなく嘆き悲しむのである。まつたく此處が伐られたらば日本にはもう斯の松原は見られないのである。豈(あに)其處の蔭に住む一私人の嘆きのみならむやである。
 靜岡縣にも、縣廳にも、沼津市にも、具眼の士のある事を信ずる。而して眼前の些事に囚はれず徐に百年の計を建てゝ欲しいことを請ひ祈るものである。」

と、松原を守ることの大切さを切々と説いています。松の伐採に反対する市民大会で、人前で演説することの苦手だった牧水も熱弁をふるうなど反対運動は大いに盛り上がり、とうとう県はこの計画を断念しました。まさに自然保護運動のさきがけといってもよいでしょう。

 戦後、学校用地等として松林や雑木林の一部が伐採されました。そして、地域開発が企てられるなかで、千本松原の松の伐採も焦点となり、松原を守る市民運動が取り組まれました。近年、マツクイムシによる松枯防止対策として薬剤散布などが実施されましたが、根本的には松をはじめとする草木の密生した状態が松の健全な生育を阻んでいるとの研究者からの指摘に基づき、雑木の間引きや下草刈りの徹底などの対策が施され、松林のなかも牧水が散策した当時とは異なる風景に変わりつつあるようにも見えます。また、海岸線には高潮対策として防潮堤が延々として築かれ、海岸の様相は戦前のそれとは一変しています。
下草が生い茂っていた頃の松原の様子 下草を刈り、雑木の間引きが行われた現在の松原の様子


 それでも、牧水が歌に詠んだ千本松原の風情は、牧水が愛し馴れ親しんだ当時と変わるところはないといってよいでしょう。私たちは、牧水の讃えた自然の味わい深さを再認識し、これからも千本松原の自然を大切にしていかなければなりません。



引用文は「時事新報」(大正15年9月14、15、16日)に掲載された『沼津千本松原』の一節で、
下記の全集に収められています。
    牧水全集第7巻(改造社) 昭和5年3月3日
    若山牧水全集第8巻(雄鶏社) 昭和33年9月30日
    若山牧水全集第13巻(増進会出版社) 平成5年10月12日

下記の「文庫」にも、現代仮名表記に改めて収められています。ぜひお読みください。
    若山牧水随筆集(講談社 文芸文庫) 平成12年1月10日
    新編 みなかみ紀行(岩波文庫) 平成14年3月15日