若 山 牧 水 略 年 譜
明治18年(1885) 0歳 | 8月24日 宮崎県東臼杵郡東郷村坪谷に医師である父立蔵と母マキとの間に生まれる。 |
明治29年(1896) 10歳 | 延岡高等小学校に入学。 |
明治32年(1899) 14歳 | 県立延岡中学に入学。 |
明治34年(1901) 16歳 | 延岡中学「校友会雑誌」第1号に短歌と俳句を発表。「中学文壇」に短歌を投稿。佐佐木信綱選で入選。 |
明治36年(1903) 18歳 | 「中学世界」に「牧水」の名で投稿。以後はすべて牧水の名で発表。 |
明治37年(1904) 19歳 | 早稲田大学に入学。 同級の中林蘇水、北原射水(白秋)と「早稲田の三水」と称した。 |
明治39年(1906) 21歳 | 土岐善麿、佐藤緑葉らと回覧雑誌「北斗」を発行。 帰省の途中、友人の下宿先で園田小枝子と出会う。 |
明治40年(1907) 22歳 | 次第に小枝子に惹かれる。この頃から純文学者として身を立てる決意を固め、短編小説を発表する。 |
明治41年(1908) 23歳 | 7月 第1歌集『海の声』出版。 文芸誌「新文学」創刊の計画を進めるが、資金難で断念。 |
明治42年(1909) 24歳 | 中央新聞社に入社。しかし5ヶ月後に退社。 |
明治43年(1910) 25歳 | 1月 第2歌集『独り歌へる』出版。 4月 第3歌集『別離』出版。歌壇の注目を集める。 |
明治44年(1911) 26歳 | 1月 創作社を興し雑誌「創作」を編集。歌人太田水穂の家で後に妻となる太田喜志子と出会う。 9月 第4歌集『路上』出版。 |
明治45年(1912) 27歳 | 3月 「牧水歌話」出版。 4月 石川啄木の臨終に立ち合う。 5月 太田喜志子と結婚。 |
大正 2年(1913) 28歳 | 4月 長男旅人誕生。 8月 「創作」復活号の編集に取りかかる。 9月 第6歌集『みなかみ』出版。 |
大正 3年(1914) 29歳 | 4月 第7歌集『秋風の歌』出版。 「創作」の経営に行き詰まる。 |
大正 4年(1915) 30歳 | 3月 喜志子の健康上の理由で神奈川県北下浦に転居。 4月 「傑作歌選若山牧水」「行人行歌」出版。 10月 第8歌集『砂丘』出版。 11月 長女みさき誕生。 |
大正 5年(1916) 31歳 | 6月 散文集「旅とふる郷」、第9歌集『朝の歌』出版。 11月 自選歌集「若山牧水集」出版。 12月 北下浦から東京へ戻る。 |
大正 6年(1917) 32歳 | 2月 「創作」を復刊。同月「和歌講話」 4月 「わが愛誦歌」出版。 8月 喜志子との合著となる第10歌集『白梅集』出版。 |
大正 7年(1918) 33歳 | 5月 第12歌集『渓谷集』出版。 7月 第11歌集『さびしき樹木』、散文集「海より山より」出版。 |
大正 8年(1919) 34歳 | 4月 次女真木子誕生。 9月 紀行文集「比叡と熊野」を出版。 |
大正 9年(1920) 35歳 | 2月 選歌集「花さける廣野」出版。 東京から沼津への移住を決意。8月15日に沼津町在 楊原村上香貫折坂へ移住した。 12月 「批評と添削」を出版。 |
大正10年(1921) 36歳 | 3月 第13歌集『くろ土』出版。 6月 前田夕暮選による「若山牧水選集」出版。 7月 紀行文集「静かなる旅をゆきつつ」出版。 |
大正11年(1922) 37歳 | 6月 選歌集「路行く人々の歌」出版。 10月 「みなかみ紀行」として有名な旅に出る。東京、小諸草津、暮坂峠、沼田、金精峠を経て日光を回る。 12月 「短歌作法」出版。 |
大正12年(1923) 38歳 | 4月 沼津で「創作社全国社友大会」を開催。 5月 第14歌集『山桜の歌』出版。 |
大正13年(1924) 39歳 | 5月 童謡集「小さな鶯」出版。 7月 紀行文集「みなかみ紀行」出版。 |
大正14年(1925) 40歳 | 2月 沼津市本字に500坪の土地を買う。 2月 随筆集「樹木とその葉」出版。 10月 念願かない約80坪の新居が完成する。 12月 自選歌集「野原の郭公」出版。 |
大正15年(1926) 41歳 | 5月 宿望であった詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。多方面から称賛を受ける。 8月 静岡県当局の千本松原伐採計画が持ちあがる。新聞に伐採反対意見の寄稿をし、計画は中止される。 「詩歌時代」は資金難のため10月号をもって廃刊。 |
昭和 2年(1927) 42歳 | 5月 喜志子を伴い朝鮮へ揮毫旅行に出かける。 |
昭和 3年(1928) 43歳 | 8月 健康がすぐれなくなる。 9月 初旬から衰弱が目立つ。17日永眠。享年43歳。千本山乗運寺に眠る。 |
昭和13年(1938) | 9月 牧水没後満10年を記念して第15歌集『黒松』が喜志子夫人と大悟法利雄氏によって編まれる。 |