■各チャプターの撮影が行われた日と場所■(1961.5.15 〜 1962.10.6 )
※この表はDVD−ROMの情報を元に作成しています。1〜36がディスク1、それ以降はディスク2。
※お断り※
DVD−ROMにはチャプター11の撮影日が1962年8月とありましたが、日程などから考えると1961年だと思われるので、
ここでは1961年と表記しています。
| チャプター (タイトル) |
撮影日 | 場所 | 追記 |
| 1 序曲&オープニング |
1962年6月24日 | スペイン南東部の港町 アルメリアの波止場 (第2班撮影隊 によって撮影) |
この映画の作曲を手がけたモーリス・ジャールは2ヶ 月たらずで曲を書き上げたが、パーカッションを多用 し、当時ではまだ珍しかったシンセサイザーを利用 した曲はアカデミー賞作曲賞を受賞した |
| 2 伝説の死 |
1962年9月 | イギリス・サリー州にある チョバムという村 |
セントポール大寺院の外観は本物。内部は映画中 唯一のスタジオセット。ロレンスの胸像が映るシーン 以外の室内のシーンはほとんどスペイン。 ロレンスがオートバイに乗っているショットのほとんど はジェレミー・テイラーが代役をつとめている。テイラ ーは馬とラクダの責任者として映画に参加していた |
| 3 カイロの司令部 |
1961年12〜3月 | スペイン・セビリア | 町のシーンはアカバ以外はすべてここで撮影された |
| 4 ドライデンと マレイ将軍 |
1961年12月18、19日 | セビリアのカタパニア | ヨルダンからスペインに撮影が移行してから最初に 撮られたシーン |
| 5 将軍との雑談 |
1961年12月19、20日 | セビリア | 将軍が大砲が届かないことに対して「大砲なしに どうやって戦うんだ」と怒鳴っている台詞があるが、 当初ここの台詞はもっと過激な言い回しだった。 が検閲のことを考慮し、婉曲的な言いまわしとなった |
| 6 ロレンスの任務 |
1961年12月23日 1962年1月2、12日 |
セビリア | トライデンのオフィスにある大きな猫の置物は、リーン 監督が机の上に飾っていた貴重なエジプト猫の彫刻 に敬意を表して小道具のスタッフが作ったもの |
| 7 砂漠の旅の始まり |
1961年5月15〜6月上旬 | ヨルダン南東の ジュベル・テュベク |
ここのロレンスとタファスのショットは一番初めに 撮影されたもの |
| 8 友情の始まり |
1961年5月下旬〜 6月初旬 |
ジュベル・テュベク | 砂丘の頂上でロレンスとタファスがハリト族を 見つけるシーンは1961年5月16〜20日に 撮影された(全撮影の中では2番目に撮影) |
| 9 井戸に現れたアリ |
1961年6月9日〜13日 (ロレンスとタファスのシーン) |
ヨルダン | マスツラの井戸はヨルダンの中心部エル・ジャフレ の干潟にあるもの。ロレンスとタファスが井戸を覗い ているシーン(井戸の中から撮られたショット)は 1961年6月22日にジュベル・テュベクで撮影 |
| 1961年7月5〜11日 (上記以外のシーン) |
アリ役のオマー・シャリフが現地に着いたのが6月 下旬。ロレンスが「貪欲で野蛮で残酷だ」とアリに 叫ぶシーンはエル・ジャフレで7月8日に撮られたが その出来に監督が満足せず、クローズ・アップ ショットを8月14日にモロッコで撮り直した |
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| 10 ブライトン大佐 |
1961年8月15、16日 | ヨルダン南西 ワジ・ラム | ブライトン大佐と会うシーン |
| 11 近代兵器の威力 |
1961年8月3日〜11日 | ヨルダンの エル・グウェイラ (ワジ・ラムの北部) |
ファイサルの陣が空爆されるシーン |
| 1961年8月12、13日と 17〜20日 |
大移動シーン | ||
| 12 ファイサル 王子のテント |
(最初)1962年3月初旬 (撮り直し)3月21〜26日 |
(最初) スペイン・セビリア (撮り直し)アルメリア |
最初に撮ったフィルムは悪天候のための雑音や 浸水でゴミ箱行き。撮りなおしはアルメリアの 道路わきの野原で |
| 13 今や再興の時 |
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| 14 思案にふける ロレンス |
1961年5月29日〜6月2日 | ヨルダン ジュベル・テュベク |
このシーンのクライマックスではロレンスがあまりに 強く石を握るため石の間から血が滴り落ちる(メイ クアップのスタッフの細工)映像が撮られていたが、 編集段階でリーン監督が度が過ぎると判断し、削除 された。しかし後にリーン監督はそれを悔いることに なる |
| 15 アリを説き伏せる ロレンス |
1962年5月3日 | スペイン アルメリアの 北東 タベルナス |
この映画でタベルナスの山岳地帯が登場してからと いうもの、この地ではマカロニ・ウェスタンを始め数多 くの映画が撮影されることとなる |
| 16 アカバ攻略へ |
1961年7月最後の2日間 | ヨルダン ワジ・ラム |
このシーンは1962年のプレミア後に削除された シーンのひとつ。ここが削除されたせいでストーリー に辻褄が合わない点がでてきていた |
| 17 オアシス |
1962年5月中旬 | スペイン アルメリア |
オアシスは、ランブラ・デ・タベルナス村の近くに あるシエラ・アルマヒジャ |
| 18 ネフド砂漠の入り口 |
1961年6月25日 | ジュベル・テュベク | |
| 19 居眠りするロレンス |
1961年6月23〜28日 | ジュベル・テュベク | サンズ・アンビルに着くまで |
| 1961年7月11〜15日 | ヨルダンの中心部 エル・ジャフレの干潟地帯 |
サンズ・アンビルの横断シーン | |
| 1962年8月14日 | モロッコのワルザザート | サンズ・アンビルの入り口に着くシーン | |
| 20 砂漠を彷徨うガシム |
1961年7月中旬 | エル・ジャフレ | ガシムが砂漠を彷徨うシーン |
| 1961年8月 | ワジ・ラムの近く | 隊が水を飲むシーン | |
| 21 生還した2人 |
1961年7月下旬 | エル・ジャフレ | 生還したロレンスとガシムを迎えにラクダを走らせる ダウドが、勢いをつけすぎて2人の乗ったラクダを 通り過ぎてしまいまた戻ってくるというショットがある が、ここは最初の予定では2人の乗ったラクダの 手前でダウドのラクダが止まるはずだった |
| 22 「運命などない」 |
1961年8月下旬 | ワジ・ラム近郊 | |
| 23 エル・オレンス |
1961年8月 | ヨルダン | ロレンスが倒れこんで寝てしまうシーン |
| 1962年3月26日 | アルメリアのタベルナス | ロレンスが目覚めるシーン | |
| 24 ベニ・ウェジの 首長の服 |
1961年9月初旬 | ワジ・ラム近郊 | |
| 25 アウダと息子 |
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| 26 対立する アリとアウダ |
1961年9月初旬〜中旬 | ワジ・ラム | |
| 27 アウダの歓待 |
1962年3月31日〜4月3日 | スペイン・アルメリア | (アウダのテント内)場所はファイサルのテントの シーンと同じで夜間に撮影された |
| 1961年9月17〜22日 | ワジ・ラム | 隊がアウダのテントを出発するシークエンス | |
| 28 ガシムの処刑 |
1962年3月22〜24日 | アルメリア・タベルナス 近郊の岩の峡谷 |
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| 29 アカバ攻略 |
1962年6月15〜20日 | アルメリア | アルメリアのカルポネラスから数キロ北のシエラ・ カブレラの大峡谷とリオ・アリアスの干上がった 川床で。プラヤ・デ・アルガビコには巨大なセットが 建設された |
| 30 「奇跡が起きた」 |
1962年6月9、10日 | カルボネラスの小さな漁村 | 海辺のシーン |
| 1962年4月9、10日 | アルメリアからニハルへ 向かう道路わきの高台 |
夜のアカバ | |
| 31 紙切れだった “宝物” |
1961年6月11、12日 | ||
| 1961年9月28日 | ヨルダン「ホワイト・ロック」 | シナイ半島(地表がデコボコしている風景) | |
| 1962年6月5日 | アルメリアのガタ岬 | 奇妙な形の黒い岩が地面からつきでているシーン | |
| 1962年5月21日 | ロレンスがコンパスを失うシーン | ||
| 1961年6月16〜18日 | ジュベル・テュベク | 砂嵐のシーン | |
| 32 流砂にのま れるダウド |
1961年6月19、21日 再び6月28、29日にも撮影 |
ジュベル・テュベク | 流砂のシーン |
| 1962年5月21日 | スペイン アルメリア ガタ岬 |
ダウドが流砂にのまれた後、ロレンスとファラジが 2人でとぼとぼ歩くシーン |
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| 33 スエズ運河 |
1962年4月28日〜30日 | レタマルからガタ岬の間 の放棄された廃墟 |
廃墟のシーン |
| エジプトの都市 イスマイリア近郊 |
ロレンスとファラジの後姿のシーンは代役。 オトゥールの代役は地元で雇った助手が、マイケル ・レイの代役(ファラジ)は美術スタッフのジョージ ・リチャードソンが代わりを務めた。オトゥールと マイケル・レイの2人はエジプトには行っていない |
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| 34 将校専用バー |
1962年1月17日 | スペインのセビリア。ロケ 地は1929年に開催され たイベロ・アメリカ博覧会 を機につくられた カピタニア |
将校専用バーまでのシーン |
| 1962年1月5、7日 | バーのシーン | ||
| 35 アレンビー将軍 |
1961年12月21〜28日 | アレンビー将軍のオフィスと階段のシーン | |
| 36 戦法を練る2人 |
1962年1月8〜12日 | 中庭のシーン | |
| 1961年12月29日と 1962年1月3日 |
廊下のシーン | ||
| 37 インターミッション |
INTERMISSIONの文字、双眼鏡の中の風景 (チャプター8)、遠くの銃の閃光(チャプター51)は 5月25、26日にスペインのアルメリアに作られた 室内セットで撮影された |
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| 38 新聞記者ベントリー |
1962年6月13、14日 | アルメリアのカルポネラス | ベントリーの到着シーン(アカバのセット内) |
| 1962年4月5,6日 | ファイサルとの会見シーン(上記のよりも大きい セット内で撮影) |
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| 39 鉄道爆破 |
1962年6月10、13日 | アルメリアの東の砂地、 ガタ岬 |
列車の爆発と脱線の瞬間のシーン。第2班撮影隊 のニコラス・ローグとスキーツ・ケリーが4台のカメラ で撮影。そのころ撮影本隊はカルボネラスのアカバ セット内にいた |
| 1962年6月22〜7月4日 | 列車の破壊シーン。スペインからモロッコへ撮影拠 点を移す前の最後のシーンとなった |
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| 40 砂漠の魅力 |
1962年5月1、2日 | アルメリア、タベルナス近 郊の山間の干潟 |
この場所ではロレンスがアリにアカバ攻略を打ち明 けるシーン(チャプター15)とアリがロレンスの軍服 を燃やすシーン(チャプター23)も撮影された |
| 41 顔の立つもの |
1962年5月26〜6月1日 | スペインのアルメリアの 東、ガタ岬 |
列車の脱線シーンと同じ場所だが違うレール部分 が使われた。スペイン国有鉄道は列車の爆破のシ ークエンスのために客車と貨物車を提供していたが、 このシーンのためにも14台の馬用の車両を用意した |
| 42 信管 |
1962年6月1〜6日 | ガタ岬 | ファラジが死ぬシーン。列車の爆破シーンと同じ 場所で撮影されたが、レールのカーブした部分が 使われた |
| 1962年1月15日 | アルメリア | カイロの暖炉の部屋(アレンビーとブライトンが 話し合うシーン) |
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| 1962年4月15〜18日 | セビリア | 石の廃墟の内部(アリとその部下が最近の失策に ついていらだちを見せるシーン) |
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| 43 デラアで囚われた ロレンス |
1962年3月 11、12日(野外) 13、17日(屋内) |
セビリア | 本編には使われなかったが、「トルコ軍の地図の 部屋」のシーンが1962年9月10日にロンドンで 撮影されている。トルコの士官たちが、壁に貼った 地図やロレンスの作戦により被害を受けた鉄道の 様子を写した写真を検証するシーンだった。最初の 列車爆破シーンの直後に入る予定だったらしいが、 そのシーンが入っていたらこのシーンのロレンスの 行動がどれだけ危険なものかがより際立っただろう |
| 44 ムチ打ち |
1962年3月13〜17日 | スペインのセビリア | 屋外のシーンはアルメリアからニハルに向かう途中 の「24キロメーター」と呼ばれる高台に作られた セットで撮影された |
| 45 放心状態の ロレンス |
1962年4月2日 | スペインのグラナダの東 シエラ・ネバダ山脈に あるムラセン山の稜線 |
雪のシーン(第2班撮影隊によって撮影) |
| 1962年4月3日 | シエラ・ネバダ山脈 | 石の廃墟の外観(第2班撮影隊によって撮影) | |
| 1962年4月18〜22日 | アルメリア | 石の廃墟の内部 | |
| 46 ロレンスの決意 |
1962年4月22、23日 | ||
| 47 エルサレム到着 |
1962年9月22日 | イギリス | 軍のブラスバンドがエルサレムの町を行進するシーン |
| 1962年1月 19〜21日と26〜29日 |
セビリアの カサ・デ・ピラトス |
エルサレムのシークエンス(ファイサル王子が退室 するまで)。ベントリーのシーンを含むこれらのシーン は2月28日に再撮影された |
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| 48 心理戦 |
1962年1月 22〜24日、27〜29日 |
セビリアの カサ・デ・ピラトス |
テラスに出る前のシーン。アーサー・ケネディ (ベントリー役)の出演シーンは2月28日に再撮影。 |
| 1962年1月 25、26、31日、2月1日、 3月1、6日 |
テラスのシーン。「アラビアのロレンス」のフィルム の復元は1980年後半になされたが、アレンビーの テラスのシークエンスは音声が一部行方不明なため 不完全な状態のままである。故人となったジャック・ ホーキンス(アレンビー将軍)の音声を似た声の人を 使って再録しようという試みもあったが上手くいかな かった。 |
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| 49 護衛 |
1962年7月18〜26日 | モロッコの ワルザザート |
1962年7月にスペインでの撮影を終え、モロッコに 入った。すべての備品がアルメリアからカサブランカ に貨物船で搬入され、トラックで南に運ばれた。 トラックはマラケシュを抜け、アトラス山脈の標高 3050メートルの道を抜け、サハラ砂漠の縁である ワルザザートへ。人間は4機のチャーター機でマラガ からタンジール、マラケシュへと飛び、車で山脈を 超えてワルザザートへ入った |
| 50 イギリス軍の 作戦会議 |
1962年2月22、23日 | セビリア付近 | |
| 51 ダマスカスへの道 |
1962年7月21日 | モロッコの ワルザザート |
アラブ軍の行軍シーン。「擬似夜景」を使って撮影 |
| 1962年3月16日 | セビリア | ダマスカスへ向かって行軍するイギリス軍のシーン | |
| 1962年7月28日〜8月2日 | モロッコの ワルザザート |
タファスという村の光景と行進するトルコの旅団 | |
| 52 虐殺 |
1962年8月3〜18日 | モロッコ南部の ワルザザートとアッジの 間の地域 |
トルコ軍を皆殺しにするシーン。これがモロッコで 撮影された最後のシーンとなった。キャストとクルー はこの後、イギリスへと戻り、オートバイ事故と追悼 のシーンなどを撮り、撮影を終了した。ワルザザート はこの映画のロケ地に使われて以来、スタジオ機能 を充実させて、今では世界の映画産業の中心地の ひとつとなった。モロッコでのクルーの本拠地はワル ザザート付近のオアシスにある、ベルベル人の古い 砦であるティフィルトートのカスバだっがそれ以来 ティフィルトートは観光地として有名になった |
| 1962年10月6日 | ロンドンのスタジオ | 虐殺の惨状を見たロレンスの恐怖の表情の クローズ・アップ。このシーンを撮って全撮影は終了。 公開のわずか2ヶ月前だった。 |
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| 1962年2月14日 | セビリア・考古学博物館前 | アレンビーがダマスカスに到着したシーン | |
| 1962年2月2、3日 | アメリカーナ広場の ムデハル・パビリオン |
アレンビーの部屋 | |
| 53 混乱のダマスカス |
1962年2月3〜15日 | セビリア | ダマスカスの市役所内の会議室のシーンは 1929年に開催されたイベロ・アメリカ博覧会のため に建設されたロベ・デ・ウェガ劇場の円形の部屋。 アレンビーの私室はアメリカーナ広場の ムデハル・パビリオンで撮影された |
| 54 病院の惨状 |
1962年5月5〜8日 | アルメリアからニハルに 向かう途中の「24キロ メーター」と呼ばれる 高台に作られたセット |
アカバの夜のセットとデラアの夜のセット(チャプター 30、31、44)と同じ場所に作られたセットで撮影。 また道路の反対側に広がる野原は、ファイサル王子 とアウダのテントの内部が撮影された場所。 |
| 55 帰還するロレンス |
1962年2月14〜20日 | セビリア | ダマスカスのアレンビーの会議室と司令部のシーン |
| 1962年10月6日 (撮影最終日) |
ロンドンのスタジオ | ファイサル王子がアレンビーに見せる新聞のアップ のショット |
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| 1962年8月16日 (ロレンス本人の誕生日) |
モロッコの ワルザザート |
ロレンスがダマスカスを離れるラスト・シーン。 ロレンスが乗った車とすれ違うトラックには英国人 軍人たちが乗っているが、彼らの歌っている古い歌 は「Goodby Doly Gray」。その歌を吹き込んだ のはスタッフで、ワルザザートで楽しく盛り上がった 夜に録音したもの |
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| 56 エンド・クレジット |