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■砂漠を愛した3人のイギリス人について■

チャプター13でファイサルのセリフに出てくる“砂漠を愛するイギリス人”3人
―ダウティ・スタンホープ・カーツームのゴードン。
日本ではほとんど名前を知られていないと思われるので、ここで紹介したいと思います。

ダウティ(Charles Montagu Doughty, 1843.8.19-1926.1.20)

『Arabia Deserta』(砂漠のアラビア旅行記)の作者。
イギリスサフォーク州のセバートン・ホールで生まれる。
父は英国国教会の牧師、母は牧師の娘。幼少のうちに父母ともに亡くし、
親戚に引き取られて育つ。体が弱く、子供のときからの希望だった海軍入りは
身体検査ではねられ、かなわなかった。学生時代からいろんな国を旅したが、
アラビアの国々を2年ほど旅した。その時に書かれたのが『Arabia Deserta』。
同年代の他の英国人のアラビア旅行者と違っていたのは、彼は単独で、
何の後援も受けず、自力で旅行を敢行したこと。アラビア入りするまえにダマスカスで
アラビア語を学び、ベドウィンたちの歓待を受けながら旅を続けた。
彼のアラビア旅行は苦難の連続だったが、アラビアから戻った後の彼は静かな余生を
すごし、1926年に亡くなった。

○ロレンスとの関連○
ダウティはロレンスと多少なりとも関わりがある。まず、ダウティの伝記を書いたホウガース
―David George Hogarth は、ロレンスがカルケミシュでの発掘をしていたときの指導者であり、
大学時代の恩師。また、彼の著作『Arabia Deserta』をロレンスは熱心に読んでいたと思われるし、
後に同本の解説を書いている。ダウティがなくなった際、ロレンスは「ショー」という偽名を
使って彼の葬儀に参列している。


スタンホープ(Lady Hester Stanhope,1776.3.12-1839.6.23)

スタンホープという人物は他にもいますが、アラビアと関連があったと思われるのは
レディ・ヘスター・スタンホープという人物のみでしたので、彼女の略歴を。
イギリス・ケント州チーヴニング邸で生まれる。父は第3代スタンホープ伯爵、母は
1783年に24歳の若さで宰相となったウィリアム・ピットの妹。母は彼女が
4歳の時に亡くなり、政治家であり発明家でもあった父はたくさんいた子供たちを
放任したので、彼女は1803年祖母が亡くなるまで祖母の元で暮らし、その後は
母の兄であるウィリアム・ピット卿のもとに身を寄せた。政治家であるピット卿のもとで、
彼女は国政にも口出しするようになったが、1806年ピット卿が突然の病で亡くなり、
それまでのように勝手気ままな振る舞いができなくなった。それに加え、親しくしていた
(イギリス陸軍で高名だった)将軍ジョン・ムーアが1808年に北スペインでのナポレオン勢
との戦いで戦死した。悲しみに打ちひしがれた彼女はイギリスを出て、まず地中海へ行き、
そこで知り合ったマイケル・ブルースというスコットランド貴族と恋仲となる。その後は彼とともに
コンスタンティノープル、エジプト、メッカ、エルサレム、レバノンを回ったが、彼女の浪費癖から
その恋人との亀裂を招き、彼はイギリスへと戻っていった。
彼女はその後も旅を続け、1812年9月1日にはシリアのダマスカスへ入城。その時の彼女の
いでたちは顔を隠すどころか男装して馬に乗る、という「そんなことをすれば石を投げつけられかねない」
行動だったが、実際には歓呼の声に迎えられた。人々の多くはこれが異国から来た女王であろうと
考えた。彼女はハーレムに迎えられ、その詳細を記録した初めての人物となったが、もちろんそこは
男子禁制の場所であった。
その後の彼女は、(ヨーロッパ女性としては初めて)古代都市パルミラの遺跡を訪ねたり、
シリアの港ラタキアに居を定めて数年間そこへ住んだりしたが、ずっと旅を共にしてきたメイロン博士が
イギリスへ帰ると、以前招待を受けたレバノンのドルース族の地域の族長の住まいの対面の丘の上に
中世の宮廷のような城を築き、従者を侍らせ、その近隣一帯を支配した。それは1839年に彼女が
亡くなるまで続いた。

参考:日本では彼女の名前は全くといっていいほど知られていないと思いますし、ほとんどの人名辞典
には載っていません。一番詳しいのは『情熱的な巡礼者たち』(ジェイムズ・C・シモンズ著/国文社)ですが、
『世界探検家事典 1 』(日外アソシエーツ刊)にも4ページほどの記述あり。


カーツームのゴードン(Charles George Gordon, 1833-1885)

通称チャイニーズ・ゴードン。将軍。ロンドンのウリッジ生まれ。ウリッジ陸軍士官学校で訓練をうけ、
1852年にイギリス陸軍工兵隊に入隊、1855年から56年にかけてクリミア戦争に従軍。1860年には
中国に行き、太平天国の乱を鎮圧し、それ故に“チャイニーズ・ゴードン”の通称がつけられた。
1877年にはスーダン総督に任ぜられる。1880年に健康上の理由でその地位から退くが、1884年に
は反乱地域にあったエジプト守備隊を救援するために復軍。マフディー軍にハルツームで10か月包
囲され、援軍が来る2日前に殺された。この出来事は大衆の心を捉え、セント・ポール寺院やほかの
場所にゴードンの記念碑が建てられた。
(岩波=ケンブリッジ 世界人名辞典より)

ゴードン将軍については、ある程度厚い人名辞典をひけばその名は載っていると思いますが、
もう少し詳しく知りたいのであれば『大英帝国衰亡史』(中西 輝政著、PHP研究所)を、
詳細を知りたければ『ハルツームのゴードン 同時代人の証言』 (W・S・ブラント著 、リブロポート)
をどうぞ。それと、ゴードン将軍のカーツーム(ハルツーム)での戦いは映画にもなっています。
チャールストン・ヘストン主演の「カーツーム」です。DVDにもなっているので、興味のあるかたは
観てみてはいかがでしょうか。