米国総領事・ハリス駐在
嘉永7年(安政元年=1854年)3月、日米和親条約が結ばれ下田が開港された。続いて下田条約(和親条約追加9か条)が結ばれると、玉泉寺と了泉寺が米国人休息所に指定された。
安政3年(1856年)7月タウンゼント・ハリスが米国総領事として下田に来航した。
しかし、幕府が着任を拒否しようとした為数日間もめた。結局条約の日本語訳に誤りがあったことが判り、8月5日、日本最初の領事館が玉泉寺に開設され、星条旗が前庭高く翻った。ハリスは通訳のオランダ人ヒュースケン、召使の中国人と共に玉泉寺にすんだ。
ハリスの使命は通商条約の締結であったが、幕府はなかなか交渉に応じず進展しなかった。健康を害しながらも辛抱強く交渉に当ったハリスは、安政4年5月26日、下田奉行との間に締結した『下田条約』(米国側に著しく不利であった日米通貨比率の是正、長崎の追加開港など)を足がかりに安政5年6月19日、ボーハタン号艦上で日米通商条約及び貿易章程の調印に成功した。米国に続いて、日露、、日英、日仏通商条約が結ばれた。通商条約により横浜が開港されると、安政6年5月、下田領事館は閉鎖され、ハリスはその使命をおえ下田を去り江戸麻布善福寺へと移った。
タウンゼント・ハリス略歴
1804年 ニューヨーク州サンデーヒルに生まれる。
1846年 ニューヨーク市立大学前身フリーアカデミー創設
1854年 清国寧波総領事任命
1855年 日本駐箚総領事に任命さる
1856年 玉泉寺に米国領事館を開設
1857年 江戸城にて13代将軍家定に謁見
1858年 日米修好通商条約14ヶ条を締結
1859年 公使に昇任
1862年 帰国
1878年 ニューヨークにて死去。ニューヨークブルックリン・グリーンウッド墓地に永眠する。

玉泉寺

下田から離れた柿崎の玉泉寺に領事館が置かれた

 玉泉寺ハリス記念館

玉泉寺前庭に星条旗掲揚台

米国・星条旗掲揚記念碑
玉泉寺
1856年9月4日(安政3年8月6日)初めて日本帝國の一角に領事旗を掲げ翌年11月23日までこの地に居住し1858年7月29日江戸条約によって日本の門出を世界に開きたる、米国総領事タウンゼント・ハリス記念の為この碑を建つ。
最後に下田を去りたるは1859年6月30日なり。1927年、子爵・渋沢栄一
(ハリスの日記より)
1856年9月4日(木曜日)、興奮と蚊の為非常に僅かしか眠れなかった。蚊は大変大きい。午前7時に水兵達が旗棹を建てに上陸した。荒い仕事、はかどらぬ作業、丸材が倒れて横桁が折れる。幸い誰も怪我はないと言う。艦から加勢を受ける。旗棹が建った。水兵達がそれを回って輪形を作る。そしてこの日の午後2時半にこの帝國に於けるこれまでの『最初の領事旗』を私は掲揚する。
厳粛な反省、変化の前兆、疑いもなく新しい時代がはじまる。敢えて問う、日本の真の幸福になるだろうか。

美貌のおきち19才
唐人お吉
本名は斎藤きちと言い天保12年11月10日愛知県知多郡内海に船大工市兵衛の次女としてこの世に生を受けた。
四才の時家族が下田に移り住み、14才でその器量を買われ芸妓となりました。新内明烏のお吉とうたわれる程の評判と美貌でした。それが奉行所の目にとまる事となり、17才の時、法外な年俸と引換に心ならずもアメリカ総領事タウンゼント・ハリスのもとへ召使として奉公にあがることになります。その後は幕末・維新の動乱の中、芸妓として流浪の果てに下田に戻り鶴松と暮らし髪結業をめざすが離別。さらに小料理屋安直楼を開業しますが「唐人」という相も変らぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身を持ち崩し、明治24年3月27日の豪雨の夜、川に身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。
『ハリスの侍女として支度金20両がよういされたが史実はハリスがおきちの首筋にできた吹き出ものをきらい3日で暇を出された』。お吉さん以外にも5人程召使として雇われた。世の中で伝えられている唐人お吉の物語はお芝居の事と史実が混在している。
お吉の支度金
安政4年(1857年)、日米通商条約が日本に不利にならないよう、アメリカ総領事ハリスの気分をなごませる事と、ハリスの真意を探る事、その為に当時17才のお吉は幕府側から、ハリスの侍女となる事を要求された。説得役の下田奉行支配組頭・伊佐新次郎が、お吉の恋人(鶴松)を士分扱いにする事などを約束したりして、お吉を説得し遂にうなづかせたのである。
お吉は5月22日、駕籠に乗せられて、アメリカ総領事館の下田柿崎・玉泉寺に向かった。その時お吉には支度金25両が支払われ、年俸120両が約束された。当時ハリスの召使たちの給料が月1両2分だったと言うから、幕府側がお吉にどれだけ期待したか良く判る。
お吉は僅か3日でハリスに暇を出されたと言う。3ヵ月後に解雇され解雇手当を受領した物が残っているようです。

唐人お吉記念館・宝福寺

お吉塚
お吉は身よりも無く、宝福寺の第十五代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」を贈り、境内に手厚く葬り、その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っています。
お吉の悲劇的な生涯は、人間の偏見と権力、その底に潜む罪の可能性と愚かさを身をもって私たちに教えているようです。

稲田寺
鶴松の墓
川井又五郎(鶴松)は幕末開国の舞台に一輪の花と咲いた『唐人お吉』の陰に隠れ、あまりにも哀れであった。領事ハリスの侍女として仕えたお吉と後年旧情を温め仲睦まじく暮らしたのは僅か4年であった。故あって離婚した一年後急死した。お吉は鶴松がが好きだった山桃を供えなきながら冥福を祈ったという。
了泉寺及び了泉寺博物館とお吉塚

道の駅・天城越え
ハリスの泊まった弘道寺
ハリス著『日本滞在記・天城の道』
日本幕府の将軍・家定に拝謁する為、安政4年10月星条旗を先頭に350人の行列を仕立て、7日下田を出発し、天城越えをして江戸へ向った。天城は高さ3500尺、路は余りに検岨で、私は馬から降りて駕籠に乗らなければならなかった。路は往々にして35度もの角度を成し、八人で担ぐ駕籠棒の長さに満たない程曲がりくねった所もあった。山は糸杉、松、樟など見事な樹林で覆われ、蘭科植物も豊富で植物学的に大きな収穫があった。山上で休息した。我々は下田、大島火山、駿河湾、江戸湾の美しい景色を眺めた。下り路は登りの時ほど険しくなかったので、その三分の二を馬に乗った。山を降りると谷地が開け、私は大変綺麗な小瀑布の懸かっているのを見た。湯ヶ島の村で宿舎の寺院に向う瞬間、私は始めて富士山を見た。名状する事の出来ない偉大な景観であった。高さ一万尺。完全壮麗な円錐体を成し、比べる高さの山が付近にない為実際より高く見える。それは雪で覆われ、輝いた太陽の中で凍った銀のように見えた。その荘厳で孤高の姿は私が1855年1月に見たヒマラヤ山脈よりも目ざましく美しかった。私は今日通った道路とは言えない程の通路に周到な注意が払われているのを知った。橋は新たに水流に架けられ、通路は修理され、藪と言う藪は伐り払われ、宿舎では湯殿と便所が私専用につくられ、私を快くする為に万端の注意が払われていた。
タウンゼント・ハリスの日記より
1856年10月4日火曜日(安政3年10月7日)、昨日は一日中よく雨が降った。そして今朝夜明けにようやく晴れ上がった。午前8時に地震があった。檄風を食った様に思われた。何か重いものが倒れた様に家が震動した。又それに相当した音響が伴なった。この大きな衝撃に続いて二三度軽い横揺れがあった。天気は晴朗で穏やかであった。程近い大島の火山はなんら活動を増した様子もなかった。その音響と震動は南東から来て北西へ去ったように思われる。
ストーブを据付けた。それはしょうの無い代物で空気をよく吸い込もうとしない。初めて火を入れたばかりで、その板金が歪み、ひびが入ってしまった。一握りの木炭を投げ込んだばかりなのだが、私の家は今煙だらけだ。まあ幸いにも叱言をいう妻がいない。このストーブは特許品でフィラデルフィアのアボット・アンド・ローレンス商会の製品と見受けられる。非常に粗悪品で送風口を開けておいてさえ潟青炭が消えてしまう。今後A&R商会のあらゆる製品は買わぬ事にしよう。今日私の所に見事な猪が届けられた。私はそれの鞍下肉を食べる。それは世界で最も結構な屠肉である。

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