愛用のドールから降りるとそこには珍しくセムが居り、慧靂は少々面食らった。どちらかといえばセムは人を呼びつける方で、自分から出向く事は滅多にしない。このドールの事に関しては殊更、そういった質の人物であった。

「セムさん?」

 何か用でもあるのだろうかと思い尋ねてみれば、セムは少しも表情を変えず、口調を少しも淀ませずにいった。

「待っていたよ、慧靂。付いて来たまえ」

 慧靂の返事を聞かないままに、セムは踵を返す。待っていたという一言に一瞬固まってしまった慧靂は反応が遅れ、歩き出してしまったセムの後を追ったのだった。

 自分の兄である士朗がGrainドールを賜ったのはもう大分前の事であった。やはり自分では兄と並ぶ事など出来ないのだと思ったのは慧靂自身である。自分では特別にはなれないのだ、兄に追いつく事すらできないのではと、半ば諦めにも似た気持ちでいたのである。
 故にセムに呼ばれて期待してしまっている事を、慧靂は否定できなかった。どんな用事があるにせよ、師事するセムがわざわざ出向いてくれた事に少しは認めてもらえているのだと嬉しくなった。

 普段では通る事もないような回廊をセムは進み、その後を慧靂は一定の間隔を保ちながら進んで行く。天窓にはめ込まれたステンドグラスの光を浴びながら、二人は一際大きな扉の前まで辿り着いた。
 長年アーフェンス家に師事しているとはいえ、秘匿されているドール工房に慧靂自身が足を踏み入れたのは僅かばかりでしかなく、これほど奥まで入ったのは一番最初にセムのGrainドール・Sacredを士朗と共にセムに見せてもらった時以来である。
 見慣れないその白い扉をセムが開くのを、慧靂はただ見上げていた。

「何をしているのだね、早く来たまえ」
「は、はい!」

 セムが中に入って行くのに気付かず、呆れたような声をかけられて慧靂は慌てて部屋の中に入って行く。
 そこは不思議な空間だった。
 高い天井には照明が一切なく、天窓から差し込む光のみがその空間に広がりを見せていた。奥に更に続く回廊には金の縁取りの紅い絨毯が長く伸びており、まるで終わりがないように錯覚させられる。
 暫く進んで行くと慧靂は、巨大なステンドグラスの光を浴びた大きな黒い塊がそこに鎮座しているのを見つける。

「これ、は…………」

 慧靂は目の前に立ち、それを見上げて初めて気付く。それは自分が今までに見た事のない型のドールだった。黒色のボディに金で装飾のなされたその機体から、まるで惹き付けられるように目を反らす事が出来なかった。

「Karmaという」

 セムのそのたった一言に、慧靂は我に返ったように振り返った。

「君はKarmaに選ばれた」

 セムは静かに慧靂を見据え、言葉を紡ぐ。

「このKarmaは君の剣だ。君は騎士として立たなければならない、そういう宿世だ」
「オレの、剣……」

 呟いて、慧靂はもう一度ドールを見上げる。

「doLLという制度を知っているかね」

 唐突なセムの言葉に、慧靂はもう一度セムを見た。

「あまりにも古い制度だ。姫に選ばれた騎士同士が争う。
 慧靂、君は彩葉君を愛しているかね?」
「な……?!」
「彩葉君は君を騎士として選んだ。君はそれを受け入れるかね?」

 まっすぐな瞳でセムは慧靂を見つめる。あまりに真摯な瞳に、慧靂は目を反らす事さえ出来ずに息を呑んだ。

「何もせずにいれば、君は彼女を失うことになるだろう」
「っ、そんな……!」
「姫は、いずれ世界に呑まれる。君は彩葉君を失う事が、怖いかね?」

 慧靂は何も言えずに唇を噛み締める。まだ好きだと告げてすらいないのに、何故彼女を失わなければならないのか、慧靂には理解できなかった。

「恐ろしいだろう? 理不尽だと思うだろう?
 自分に出来る事はないか、今、君はそう思っただろう」
「……はい」

 幼い頃から師事する慧靂を、セムはよく知っていた。彼も兄同様、不器用なほどに愚直な青年だ。セムにしてみれば、思考を読む事はとても容易い。

「姫は二人、そして剣もまた二人」

 セムはいったん言葉を切る。そして僅かな間、目を閉じてそしていう。

「もう一人の剣は、君の兄だ。士朗を打ち破れば、彩葉君を失わずに済む……
 酷なようだが、君は選ばなくてはならない。それが騎士に選ばれたものの宿世だ」

 そして、セムは外套を翻し、歩き出す。

「選ぶのは君自身だ。誰も手を貸す事はできぬ。君自身の心の剣に従いたまえ」

 自身の心の剣に従いたまえ、何度もセムに聞かされた言葉だけが、胸の内に重く沈んで行くのだった。