『主は吾(あ)れに応えうるものか』 夢うつつの中で聞いた声は、ひどく懐かしい声がした。 美しいと思う気持ち、知っていたはずなのに。それはどういうものだった? 愛おしいと思う気持ち、解っていたと思うのに、もう見えない。 花を見て、美しいと思うことは事実なのに、美しいという気持ちが分からなくなってしまった。 愛おしいと思うのに、胸の奥の方がからっぽになる。 漠然とした心の内の空洞を抱えて、エリカは自室に立ち尽くした。両手で抱いたフォトグラフに写る自分と思い人、士朗を見つめる。持て余してしまうほどに、照れくさく優しい気持ちを感じていた、はずだった。今はもう、何を感じているかも分からないのだけれど。 小鳥のさえずりも、風の音も、朝露の光も、全てが愛しいはずだった。全てが新鮮なはずだった。なのに、どうしたことだろうか。 何か感じるものがあることを願って見たフォトグラフであったが、もう何を感じているのか分からなくて、エリカは困惑気味だった。彼女には既に、この気持ちが困惑と結びつかなくはなっていたけれど。 「エリカ、聞きたまえ。君は託宣を受けたのだ」 セムの声を聞いて、エリカは振り返った。その表情は明らかに戸惑い、憂えているものだった。 実際、エリカは戸惑っていた。彼女の中で、沸き上がってくる感情が極端に少なくなっていた。セムが訪ねてきたことに驚くよりも、そのことに心が揺れていた。 「託宣……」 心当たりがなくて、エリカは淡々と呟いた。その問いに、セムは外套の裾を翻らせてエリカの傍へ歩み寄り、言った。 「女神の『声』を受けただろう。君は選ばれた【姫】君だ」 「女神の声……」 それは夢で聞いたあの『声』のことだろうか。 「君は【騎士】に全てを委ね、そして受け入れなければならない。それが【姫】を選んだものの義務だ」 淡々と、できるだけ平静を装ってセムはエリカに告げてゆく。 「エリカ、君は女神の『声』を肯定した。そうだね」 『主は吾(あ)れに応えうるものか』 エリカは現の狭間で聞いた声を思い出す。そうだ、自分はイエスと答えたはずだ。 エリカはぼんやりとセムを見て、小さく頷き肯定した。 「君は全てを知る権利を持つ。次に見る【夢】が君にすべてを教えるだろう」 「セム、あなたは……」 どうしてこんなこんな事を知っているのだろう。エリカはそう思い言葉を紡ごうとして、また思った。頭をかすめたその疑問に、エリカは少し、戸惑った。 「セムは、私が子供のときからずぅっと、今の姿のままね。どうして?」 「それは私が見護り、道を示す者だからだ。エリカが生まれたときからずっと、君を見てきた。そして、この末の結末までを私は見届けるだろう」 セムはエリカの直ぐ傍まで近付いて、幼いエリカにそうしたようにそっと彼女の頭を撫で、優しく呟いた。 「エリカ、私の末よ。妹とも娘のようにも思っていたよ……できることなら、エリカ、君にこの路を歩んでは欲しくなかった」 セムに頭を撫でられて、エリカは心にまた暖かいものが少し戻ってきたように感じていた。そして、先ほどよりはしっかりとした目でセムを見上げる。 「まだしばらくは時間があるだろう。さあ、君は君の思うことをするといい。君の心は、まだ生きている」 エリカはフォトグラフを抱く手に力を込めた。愛おしいと思う気持ちが、少し分かるような気がした。そして 心を占める空虚な感情が、今ひとたび温もりを取り戻した、そんな気がした。 |