父・坂井松太郎の思いで

坂井泉


2月の雲の多いうすら寒い日、私の勤め先に突然父が訪ねてきた。私達の家族が調布に移転して間もない頃だった。

「お前に話しておくことがある。俺はガンだ」と真顔で言う。わざわざ本人にガンであることを告げる医者もいないと思っていたし、どうせ父の思い過ごしだろうと、そのときの私はあまり真に受けなかった。

「借金は残っていないから安心していい。しかしおまえや、そのえ(妹)に残してやれるものは何もない」
「どうしてガンだと思うの」
「一週間くらい前からものを食べると喉にひっかかる。医者に行ったら食道炎だというがガンに違いない。自分の身体は自分が一番よく分かる」

数日後父は入院し、二度の手術を行い、夏ごろ一時帰宅したときにはほとんど話すことができなくなっていた。そして、夏が終る前に再入院。そのまま自分の書斎を見ることはなかった。

エスペランチストとしての父を意識し始めたのは、私が小学校の頃だと思う。「世界の子ども」という、子どもたちの作文を日本語に翻訳したシリーズがあり、その中のいくつかを担当して、私にも読むように勧めていた。奥付に他の翻訳者とともに名前が列記されているのを誇らしく感じていた覚えがある。

当時北欧や東欧の言語を翻訳できる人材がすくなかったらしく、いったんエスペラントに訳された東欧詩人の作品を重訳して「世界詩集大系」などに載せていたこともあった。

当時珍しかった海外からの郵便物。外国人の来客。何かにつけ特別であることが、その頃の私には自慢だった。

父はよく私を連れて出かけることが多く、何度かエスペラント学会のメンバーと、見学会やハイキングに行ったように記憶しているが、はっきりと覚えているのはいまでも記念写真が残っている撮影所見学だった。どこの撮影所だったかは定かでないが、当時のスター久我美子が撮影中で、その記念写真に一緒に納まっている。
愛用の台付グラスを片手に、出来上がった写真を見ながら「ドーランを塗ると色が白く写るんだなァ」という。そのときの父は妙にはしゃいでいた。日本中がどこも貧しい時代だった。父の酒代にも事欠いていた頃である。

今考えれば偉大な父であったが、子どもの目には酒飲みで、煙草喫みで、夜遅く帰っては母と喧嘩するわがままな父に見えていた。特に妹にとっては私の場合と違ってどこに連れて行ってくれるでもなし、対話も十分でなく、あまりいい印象ではなかっただろう。

当時勤めていた書籍輸入会社「ナウカ」が不景気で倒産し、その後「極東書店」を設立して会社が軌道に乗るまでは、家族5人を養うだけの収入はなく、母は大変な苦労をしたようである。

その後「極東書店」からも別れて「東方書店」を設立し、また苦労をしている。

父がエスペラントを始めたきっかけは「国際プロレタリア運動」の一貫としてであり、マルクス・レーニン主義および毛沢東思想を拡大して行くうえで、世界中のプロレタリアートとコミュニケーションをもつための必要手段としてであった。父がどんないきさつからマルクス・レーニン主義の道を歩み始めたのか、今となっては知る由もない。想像できることは、母一人子一人で育ち、幼い頃から大人とともに肉体労働をし、生活を支えて苦労していたことが、父の中に何かを呼び起こしたのだろう。

私が高校生の頃に、父は一冊の古い雑誌を探しだして来て「もうおまえも読んで分かる歳になったと思うから読んでみろ」と短い小説を指し示した。作者は父だった。『朝鮮の漬物』という題の短編は、父が治安維持法違反で逮捕され、大阪の刑務所にいたときのことが書かれていた。 政治犯は通常独房に入れられるものらしいが、この頃は逮捕者が大量に出て独房に納まらず、もう一人朝鮮人が同じ容疑で房に入れられていた。そこで彼と父は深い信頼関係をつくりだし、彼が強制送還されるときに「朝鮮にはうまい漬物がある、帰ったら必ず居場所を連絡するから、ここを出たら必ず遊びにきてくれ」「日本にはうまい酒がある、一本下げて必ず行く」そう言葉を交しあって別れた。そんな話だったと記憶している。

父が刑務所にいれられていたことがあると知ったのも初めてだったし、近代史で習った治安維持法が父にも関係していたと知ったのも初めてだった。その後、その朝鮮人は所在が分からず、結局二度と会うことはなかった。

「世界中の人がすべて平等に幸せになれるのは共産主義しかない、ソヴィエトや中国はその手本だ。しかし今はどちらも最高段階に行き着く途中の社会主義という段階だ。だから世界中どこにも本当の共産主義の国はない」
ベルリンの壁が崩れ、東欧もソヴィエトも崩壊した今、父が生きていたら何と言っただろうか。