神保町界隈

大島 義夫


東京にうまれて1カ月とそこをはなれたことのないわたしにとって、東京はわたしの古里であるわけなのだが、それは古里であるような、またそうでないような、まことに、つかみどころのない存在としてしか受けとられないのである。

古里といえば、そこには、生まれたときからの馴染みふかい山や川や家々があり、またそこで語られることばがある。そして、それらがかもしだす情感をささえとして、古里のイメージが想い浮かべられるのがふつうなのだが、この東京という病的に肥大した町は、そのだらしのない広さと、はげしい変容のために、古里として、わたしの心に描きだされるには、あまりにもまとまりのないのである。

わたしは大正のすえに、いまの住み家に落ちつくまで東京の山の手地域を何回か住む家をかえてきたのだが、かつての住みなじんだ家々は、今、ことごとく、東京の街から姿を消しさっている。

関東震災があり、戦争があった。
道はそのままであるにしろ、かつての家々をとりまく周辺のすがたはすべてなくなっている。町々の名もなくなっている。だが、そうはいっても、東京というとりとめのない大きな町はわたしにとってやはり古里なのである。

わたしは小学校2年まで牛込の山伏町に住み、すぐ近くにあった市カ谷小学校に通った。それ以前には、同じ牛込の納戸町や弁天町に住んでいたのだが、そのころのことははっきりとはおぼえていない。そして大正3年に、わたしの家は池袋の近く、雑司ガ谷の鬼子母神のうら手に家を建てて引っこした。そこはまだ畑があちこちに残っていた郊外で、池袋の駅はさびれた小さな、田舎の駅にすぎなかった。

その年の1月ごろ、池袋駅のまえにあった豊島師範の付属小学校に入るため、わたしは、父につれられて編入試験をうけにいったが、そこへ行くには家のそばを走っていた市電にのって、水道橋で乗りかえて、巣鴨に出、そこから院線(いまの国鉄)にのって池袋まで往復したのだから、万事のんびりしていたことが想像されよう。

小学校をおえてから、わたしは早稲田の中学に通った。
鬼子母神の境内をぬけたあと、目白台の日本女子大のわきを通ってから目白通りを横切り急な坂を下りて神田川をわたるか、鬼子母神のケヤキ並木をまっすぐぬけてから坂を下り、太田道灌が歌をおしえられたところと称する山吹の里の跡のわきの橋を渡り、堀部安兵エが叔父のカタキを討った馬場跡を通るかして、学校へいった。

そして中学をおえたころ、関東震災にあった。そしてその地震で家がいたんだので、大正の末年にいまのところへ引っこしたのであった。そこは、震災後にひらけた住宅地で、豊多摩郡和田堀内村といった。

それまで、東京の西の郊外の住宅地といえば東中野あたりまでであった。中央線の電車は中野どまりで、中野のつぎの駅は荻窪で、そこへは汽車を利用しなければならなかった。
それが、震災のおかげで、人々は中央線沿線に移住しだし、高円寺・阿佐ガ谷の駅がつくられた。わたしの家もその流れにのって、市外に移り、高円寺の駅から南へ入り、青梅街道をこえたところに引っこした。その街道には、新宿から荻窪まで私営の電車が単線でノロノロ走っていた。

それから、50年そのあたりは杉並区と呼ばれるようになり、住む人の数は50万をこえ、11名の共産党区議をもつ住宅区域になってしまった。
引っこしたころの田園的な面影は、ほとんどなくなり、古里はゴミため的な都会生活のなかに埋もれてしまった。

しかし、だだっぴろい東京の街なかを転々として日々をすごしてきたわたしにとって、いわば古里的な想いを抱かせてくれるところが東京にはいくつかある。
牛込や雑司ガ谷、よく泊まりにいった親類のいた浅草蔵前あたりなどがそういう地域であり、いま、それらの土地をときたま通りすぎながら、変貌をかさねているその周辺のただずまいに、アキれながらも、そこに暮らしていたころのことを、なにかと想いだし、古里的情感にひたるのである。

そういう地域の一つとして、神田はわたしには馴染みのふかい場所である。もっとも、神田といってもそれはその中心部からははずれた神保町界隈である。

神田の中心は、関東震災まえまでは、なんといっても須田町をめぐる地域であった。須田町の電車交差点のすぐそばに広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像が建っていた。
いまはないその銅像の主人公たちは、日露戦争のとき、ロシヤ艦隊のこもっていた旅順港を閉鎖するために沈めた運送船から脱出しそこねて死んだ将校と下士官であった。

その二人の像は軍隊の階級身分をはっきりさせて、将校は望遠鏡を片手に石の塔の上に外とうの裾をひるがえしてすっくと立ち、下士官ははるか下に腰をおろして足をふんばっていた。
東京の街の中心にそびえる軍国主義精神昂揚のシンボルであった。

このあたりは、上野・日本橋と九段・両国の街道が交差する地点で、むかしから下町の交通の中心となっていた。神田駅の近くに多町(たちょう)の青物市場があり、日本橋へいく通りの裏にはいろいろな商品を扱う問屋が群がっていた。
そして須田町周辺は下町の庶民的な盛り場の一つとなっていた。交差点のすぐそばにはせまい路地のつきあたりに立花亭という寄席があり、銅家の裏手には大衆向きの食べ物やがあった。
そのいくつかは戦災で焼けずにいまでも残っている。そばの「やぶ」、鳥の「ぼたん」、あんこうの「伊勢源」、汁粉の「竹むら」などは、震災あとに立てなおされたとはいえ、裏通りに、一郭をなして、それぞれに、古い面影をいまに残している。

そういう賑やかな中心地にくらべると、神保町界隈は古本屋や印刷屋・製本屋など、小さな商売屋を中心とした書生向きの街であった。
また、その周辺には、明治・中央など夜学のさかんな私立大学や電機学校・正則英語などがあり、大ぜいのゆたかならぬ若者たちが、朝に晩に往来し、神保町あたりにも流れていた。

だが、形はまずしいにしろ、そこは、東京の街のなかでは、庶民的な文化的な生活のいとなまれていた街であった。
そして、そこでは、また、日本の社会史につながる、いつくかの事件が発生した。

わたしたちに、かかわりのある出来事をとりあげていえば、1906(明治39)年6月12日には、黒板勝美・我孫子貞次郎たちが一ツ橋の学士会館で日本E協会を創立し、9月28日にその第1回大会が美土代町の神田青年会館で開かれた。
美土代町はスルガ台から下りてきた交差点小川町と神田橋の中間にある。神保町と地つづきの町である。

そのときの大会では、黒板勝美や浅田栄二が講演し、大杉栄が「桃太郎」を朗読し、彼の生徒千布利雄がespをまなんだイキサツをespで述べた。又、大会へは外ム大臣や商業会議所からアイサツが寄せられた。
この集会は、黒板を中心に、そのころの先進的なインテリを主として、はなばなしく展開されたE運動の打ちあげた最初の花火であった。出席者の数は、130名に達し、新聞は大きく、この文化的事件を報道した。

つづいて、あくる1907年11月には、神田橋近くの和強学堂で第2回大会がひらかれた。青年会館と和強学堂がどこにあったのか判らないが、いずれも私設の集会場で、その建物の一部は「Japana E-isto」の古い号に写真がでている。

そういう集会場の1つで神保町のとなり、錦町辺にあった錦輝館では、あくる年、1908年6月に、有名な「赤旗事件」が起った。そこで開かれた山口狐剣出獄を記念する会合が閉会するにあたって「主義者」たちのなかの急進派が「無政府共産」「社会革命」などと書いた赤旗をひるがえし革命歌を高唱して街頭に出て、警官隊と衝突し、大杉栄、荒畑寒村、山川 均、堺利彦たちが捕えられた。

その旗をたてた一人は中曽根源和であった。かれは、のち獄中でesp.を学び、出獄ののち柏木ロンドに加った。そのとき捕えられた人たちのうちには、大杉のほかに大須賀さと子というesp-istinoも加っていた。

この事件がキッカケになって時の内閣(西園寺)が総辞職し、そのあとに長州軍閥の桂太郎の内閣ができ、主義者への弾圧がはげしくなり、それが大逆事件の遠因となった。

それからだいぶ時間がたって、1928(昭和3)年ごろ、錦町の貸席でひらかれたesp-isto の会合で、わたしは比嘉春潮に紹介され、柏木にあったその家へ通うようになった。
その貸席がどの辺にあったか、思いだせないが、そのあくる年、治安維持法に反対した代議士山本宣治が右翼におそわれて殺された宿屋の近くであったようである。

Esp.の日本大会も戦争まえには、いくたびか神田で開かれた。神保町の教育会館、淡路町の多賀羅亭、などが会場にされたし、小さな集まりは学士会館やYMCAでも開かれた。
多賀羅亭は小川町から須田町へ行く道にあった。かなり大きなレストランで、そこで1929年の日本大会の第2日がひらかれた。

そのとき柏木ロンドがはじめて人々のまえに姿を現し、大会提案として獄中にあった解放運動ギセイ者たちにesp.書を差し入れる件を提案し、清見陸郎が提案理由を説明し、泉茂雄が賛成のことばを述べたが、検事堀真道が異議を申したて、小坂狷二のとりなしで決議はしないが、資金カンパはみとめることとされた。

また、そのとき、わたしたちはSennacieca Revuoにのせられたドレーゼンの階級的E運動についての論文の訳をトーシャ版刷のパンフレットにしたものを売った。それは、わたしが訳し比嘉春潮が原紙をきって刷ったものであった。