中垣虎児郎さんのことなど野村正太郎1.マルタ・ロンド 日本の軍国主義者達が、日中戦争を始めた直後、浅草郵便局に勤務していた私は、マルタ・ロンドに入会した。中垣さんは中国留学生にエスペラントを教えていたが、日本政府は戦争を始めるとすぐに、彼を治安維持法違反で検挙し、拘束していた。だから入会したとき、私は中垣さんの顔は知らなかった。 私は父同志が友人で、私より2才上の親友でもあった佐藤亘さんから、マルクス主義とエスペラントを学び始めていた。日中戦争で私は戦争反対の気持を更に強めた。 亘さんが勤めていた京橋の事務所には他に二つの会社の机がおいてあり、一つには北海道のある炭鉱の東京出張所に勤める曽根原博利さんが、そしてもう一つにはこれも北海道に本社のある会社の出張所の責任者であった下村(のちに上山)信夫さんともう一人がいた。彼等は北海道で全協や全農の運動をやり後転向して東京に出たが三人共にエスペラントを学んでいた。亘さんは彼等の影響でエスペラントを始めるようになったのである。 マルタ・ ロンドの会合には、彼等四人の外に、賀川庸夫、中村三郎、森山稔、殷武巌、それに私が加わった。会合は銀座か上野の明治製菓の二階で、月一回開かれた。私が入会した当時は「フンド・デ・ラ・ミゼーロ」の輪読がおこなわれていた。まったく初心者の私には、仲々理解出来ない部分もあったが、とにかくついて行った。 又学会が当時行われていた初等級、中等級の講義にも参加した。 二〜三ヶ月経つと、私も「レブオ・オリエンタ」の通信希望者の中から、チェコスロバキアの学生、フランスの大工、二名と通信することになった。 チェコの学生は、單に切手集めの好きな若者であったが、その後のヒットラーの侵入や戦争の中でどうなってしまったろう。 フランスの大工は社会民主主義者で、二〜三回の通信を交わす内、私に「日本のファシズムの特徴は何なのか」と聞いて来た。そこで私は、「日本のファシズムの特徴は、ドイツと違い天皇制がおこなっていることだ」と答えた。未だ1940年以降と違い、他人の信書を郵便局で公然と開封し、そのむねを書いて封をすると言うことは行われていなかった。 2.中垣さんの出獄歓迎会 1938年8月17日、出獄した中垣さんの歓迎会が、上野明治製菓の二階で開かれた。その時記念に写した写した写真がある。のちに殷さんは、その当日、防空演習が行われていて、窓に暗幕が張ってあったと言うのだが、私は良く覚えていない。 それから5日目の8月22日、私のところに赤紙が来た。兵隊検査のとき、私は一生懸命に痩せて、第二乙の第一補充兵になった。これで現役は遁れられると思ったが、日中戦争開始の一年余り後、第6次補充兵として、9月1日に麻布歩兵第三連隊に入隊することになってしまった。 3.「日記をつけたらよい」
召集令状が来てから入隊迄,9日間しかなかった。私はこんな戦争で、絶対死にたくないと思った。相談するにも、亘さんは入院していて自由に逢えない。そこで下村さんに相談した。 彼の答えはこうだった。 「軍隊に入ったら、エスペラントの技術的な勉強はとても無理だろう。とにかく今は何時の時代にも、エスペラントが自由に使える時が来たら、書くことの出来る材料を蓄えておくことが必要だ。軍隊生活や戦場で、見たり聞いたりしたことを,力むことなく、しかも戦争の本質を、批判的に観察して、しっかり覚えておくことだ。それには日記をつけることが、一番いいのではないか」 幸い私は19才の時から、日記は付けていた。下村さんの言葉を聞いて、私は心が決まった。 4.三十二師団通信隊に所属 入隊してから6ヶ月がすぎた。私は無線通信兵になった。中国に侵略する日本軍の一員として、1939年5月5日、端午の節句に、輸送船「タコマ丸」で芝浦を出発した。 私はその時、岩波新書、ウイトホーゲルの「支那社会の科学的研究」や改造文庫「静かなるドン」(数冊)と共にエスペラントの本ラーゲレーフ原作カーべ訳の「インテルロンピータ カント」とエス和辞典を持った。 この本は、夜間通信所が不寝番につくとき、良く読んだ。勿論、士官には知られないようにしてであった。 やがて1940年6月、私達補充兵も、大正5年生まれの現役兵と共に、東京に帰り、召集解除になった。 5.マルタ・ロンド壊滅 帰ると間もなく、米内内閣が総辞職をし、7月16日、第二次近衛内閣が成立した。 その頃の「逓信広報」には、出版法第十条に基づいて発売禁止になった本の出版社と、出版年月日が列記されるようになった。これらの本の郵送は差止めろと言うのである。河上肇「第二貧乏物語」、野呂栄太郎「日本資本主義発達史」、更に岩波文庫、改造文庫などに収録されているマルクス、エンゲルス、レーニンの著作の名前が、毎日毎日追加されていた。これでは私の本棚にある可成りの本はもう大っぴらに読めなくなってしまったと思った。 その頃、三石清君が私の帰還祝いを大勢の人に呼びかけてくれた。 7月17日の夜、中垣、曽根原、殷、三石、栗栖、中村、それに私の7名が、銀座の「美松」に集まった。2年近くの軍隊生活だったので、久しぶりに志を同じくする人々と逢って話をすることは、本当に嬉しかった。私はみんなが交わす豊かな知識と、世の中の動きを見通した洞察力のある会話に聴きいっていた。中でも中垣さんの、ゆっくりとして、口数は少ないが、しかし急所をついた鋭い話し方に、私は心を打たれた。食事の後に、不二屋に入りコーヒーを飲み、日比谷公園を散策してから別れた。 8月3日、私は、あの夜、「美松」に賀川君が来なかったことが、気掛かりで、高円寺にある彼の店を訪ねた。するとその古本屋は休みだった。私は入口で何度か奥の方に声をかけた。と細君らしいひとが、奥から出て来て、さぐるような眼で「賀川は今おりません」と言った。そこで私は「実は兵隊から帰って来たばかりで、先日の会合にもお見えがなかったので、どうしたのかと思って訪ねて来たのです。しかしお留守ですので、宜しくお伝え下さい」と言って帰りかけると、細君は言いにくそうにしゃべりだした。 「実は十日ばかり前のことです。賀川と私は杉並署に逮捕、留置されてしまったのです。理由はエスペラントの発禁本を隠し持っていたと言うことで、誰か仲間が来るだろうと散々搾られた上、やっと昨日私だけ帰されたのです。でも監視付きで、見張られていて、どこにも行けません。もし三郎さん(中村)の御知合でしたら、彼がどうなっているか調べて下さい」 私は誰にも付けられていないことを確かめた上で、武蔵小山にある中村君の家にむかった。雨は益々どしゃ降りになって来た。やっとのことで中村君の下宿先である幼稚園を訪ねたが、 「 中村さんは、田舎に行くと言って出て行ったきりですよ」 との返事、本当かどうか確かめるすべもなく、とにかく賀川君に連絡するように簡単なメモを残して、沛然たる雨の中を帰って来た。 これは後で分かったことであるが、三石君が私の帰還祝いをやるため、賀川君のところにも集まる予定の人の名前を全部書いたハガキを出したのだそうだ。それが丁度、賀川君の家をガサッていた警察の手に渡ってしまい、その出席者の中から、中垣さんを始め数人のものを治安維持法違反容疑で逮捕したらしい。 私は何かしたい、しなければならないと思った。先づ学会に三宅さんを、そしてトウリスト・ビューローに三石君を訪ねて見た。相談したが、三石君は「俺の知人に憲兵が居るから、様子を聴いて見よう」と言う。しかしそれは好ましくないと思い、催促しても見なかった。三石君は結局聴いた様子はなかった。 私は何時かガサをやられるのではないかと思い、身辺の整理をして、警戒していた。一年近く何事もなく過ぎた。 1941年6月2日、菊屋橋警察の巡査が私の職場の浅草郵便局に訪ねて来た。 「明日の午前9時、東京検事局の岡村検事を訪ねるように」と言って帰って行った。 とうとう来たか、しかし参考人だから大したことは、あるまいと思いながらも、やはり緊張している。 翌日、地検に出かけると、検事の調べ室らしいところで待たされる。しばらくしてノックの音がした。年配の男が入って来た。それが岡村検事だった。 私が立ち上がると、 と言うと、早速中垣さん達の供述調書を前に置いて、私に質問をして来た。私はちらりちらりと調書の内容に眼をやりながら、出来るだけそれに合わせてしゃべった。 質問の一番のポイントは、私の帰還歓迎会の席上で、中垣さんが、 「今は忍耐の時である。いざと言うときのため、我々は今はともかく、エスペラント語の技術を磨いておかねばならない」 ここで私がもし「はいそういうことを聴きました」と言えば、では、そのいざと言う時とはどんな時だとせまって来て、結局中垣さんを治安維持法違反に引っかけるつもりだろうと思った。そこで私はとにかく、そんなことは聴いてないとつっぱねた。すると、君は何故エスペラントを始める気になったのかと聞いて来た。そして更に誰に聞いて始めたのだと言われた。しかし私はとにかく語学を勉強するのが好きで、それにはエスペラントが一番手っ取り早いと思って、勉強し始めたと答えた。 結局それで終わり検事は、しばらくここで待つ様に言って出て行った。やがて出来上がった私の調書を持って入って来て、読み上げながら、再度質問をして来た。
「中垣虎児郎、治安維持法違反の件、承認調書、野村正太郎、年齢、住所─ 私はその調書に拇印を押して、帰って来た。 「中垣さんも、三石くんも、その時のことは何も覚えていないと言っているので、それで丁度よかった」と言われ、私はほっとした。 6.エスペラント学会の手伝い その頃、私はよく学会に出かけた。ある時は「レブオ・オリエンタ」の発送を手伝い、大会が鉄道協会で開かれたときは、弁当運びをやった。尚その会場には、兵隊にとられた三石君が軍服姿で来ていた。 東京エスペラント協会の分離問題がおきたときには、三宅さんと共に学会を守って動いた。 エスペラントの本が仲々手に入らなくなって来た。 日記をくっていたら、次の様な文章が出て来た。 三宅さん「そんなに本が欲しいなら、東中野の川奈に行ってごらんなさい。僕は義理を欠いているので行けないが、何かあるでしょう。」と。
28日 当時、イタリアでエス語が盛んであったが、私は交流しなかった。何時か本当の国際交流が自由に出来る日が来る。その日のために、少しでも日本の良い小説を訳しておこう。そう思って私が「花と兵隊」を訳し始めたが、とても内容が気に入らない。そこで私が短くしかも内容のしっかりしたものをと思い、葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」を訳し始めた。小説は特に言葉のニュアンスを大切にしなければならないと思い苦労した。 すでに太平洋戦争は始まっており、私は1942年9月4日入隊で、再度軍隊に取られることになった。私は三宅さんに聞いて中垣さんを訪ね、別れをつげた。 7.戦后の再会 私は3年間の軍隊生活と、3年間余のソ連抑留生活をおえて、やっと日本に帰って来た。 帰国後、以前から望んでいた日本共産党に入党し、ただちに郵便局に勤めていたこともあって、全逓信労働組合本部の書記になった。大変な時代だった労組は分裂し、第一組合はレッドパーヂで見る見る内に人員も少なくなり、給料も出なくなって来た。私は全逓新聞の広告を取りに各出版社を歩いた。その頃「屍の街」と言う原爆を扱った本も占領下のプレスコードの網をくぐって初めて出版した「はと書房」と言う出版屋が、飯田橋から九段に抜ける道にあたのでよって見た。意外にも中垣虎児郎さんがそこの編集長をしていてお互いの再会を喜びあった。勿論本の広告はもらった。その後いよいよ食へなくなって妻が古本屋を始めたとき、自分の蔵書をトラック一杯分私に寄付してくれた。ありがたかった。 私は区議になっていた。久しぶりで西新宿の一角で、昔のエスペランチストの会合があって、私も出席した。 中垣さんも来ていて嬉しそうに その後中垣さんが沼津の老人ホームに入ったと風のたよりに聞いたが、都議になっていた私は、忙しさにとりまぎれて、とうとう伺うことも出来ないでいる内、中垣さんが亡くなったと聞いた。それは亡くなってから大分時が経ってであった。あんなに世話に もなったのに私は今でも心残りでならない。 今年秋の旧友会で会長の春日正一さんが 戦後、主として政治活動にかまけてエスペラントに深入りすることもなく来てしまったが、今更めてその重要性を認識しなおしている。
|