私とエスペラント

中村伯三


今81年の私の生涯を顧みると、エスペラントの勉強にも、その普及運動にも、少しも熱心だったとは言えないが、その重要な分岐点において、エスペラントがいつも大きな影響をなげかけた事実に驚きます。

とはいっても、それは当然だったといえる理由があります。

私の父有楽が遊楽社という大変進歩的な出版社を経営し、社員の我孫子貞次郎氏が黒坂勝美博士などと協力して社内にエスペラント協会を置いたので、当時の進歩的文化人エスペランチストのほとんどが出入りしていた訳です。

その中でも、社員の山鹿泰治氏が熱心なエスペランチストで同時にアナーキストだったので、大杉栄を始め死刑にされた和田久太郎、古田大二郎などの身辺が危険になると、わが家を安全なアジトとしてうまく使っていた有様でした。

その山鹿泰治氏から、クロポトキンの名著「青年に訴う」というパンフレットを、14歳の夏休みにもらいました。

帝政ロシアの労働者達が、失業におののき、粗末な食事、ジメジメした暗い住宅での生活、長時間のきつい労働、風邪をひいても医者にかかれず結核に移行する姿、これに対するに特権階級の多くの召使にかしづかれた明るい贅沢な生活が見事な抑揚をもって書かれ、感じ易い少年の正義感をしかりと掴んで離しませんでした。この一時間五,六回の熟読で、私の一生は決定され、社会主義の道を選ぶことになりました。

予備海軍機関中佐の飯森正芳という一寸普通のものさしでは計り切れない大人物がよくわが家に現れました。日清戦争後の陸海軍の華やかな時に、17歳という最年少で海軍兵学校に一番で合格したとび切りのエリートでしたが、20才位から人生は何ぞやという、俺は殺人を業とする軍人の道を選んでいるがこれでいいのか、という哲学的思考をするようになり、後にトルストイアン,エスペランチストとなりました。幾度か辞表を提出しましたが、佐官は天皇の朕肱の臣なので自分の都合だけでやめることは出来ず、常に辞表は返却されました。

しかし彼の 平和思想は大変強く、大正天皇が即位されその大観艦式が行われました。その時駆逐艦の機関長だった彼は、汽罐の圧力を一定以上に上げず、艦列を離脱しました。天皇の即位の観艦式で艦列離脱という大椿事となりました。

彼は予想通り処罰を受け、退役軍人となりました。それ以降の飯森さんの生活は、自由人の極地を体現するものでした。日本中はおろか,中国の奥地までさすらい、上海では中国エスペラント学会長の胡愈之さんとつき合い、その生徒呉朗西、黄源氏などが私と60年以上、現在もつき合っております。

この人達との協力で、浙江省嘉興市に、日嘉日語学校を開き、私が日本側の名誉校長をつとめています。その友好は更に進んで、今天津市から若い女性に力を借り、日本の看護婦不足を補うための日中友好看護交流会設立に努力しております。このように81年の生涯に、エスペラントが大きな影響を及ぼしていることに驚いている次第です。