エスペラントとの出会い

宮崎 公子


1920年,私は小学校5年生で満州の長春に住んでいた。父は某会社の社員だったので社宅住まいをして暮らしていた。

街に出ると満人、朝鮮人、ロシア人とさまざまな服装をした人たちが歩いていた。
中でも日本人は威張っていた。小学校も日本人小学校があって他の国の人は許されていなかったのか一緒でなかったように思う。
一人っ子の私は学校から帰ると、街の友だちの家によく遊びに行ったり、また、友だちをうちに連れてきたりして遊んだものだ。

今の小学生たちのように塾通いなどは夢にも思ったことがなかった。伸びのびとした大地の自然の中で暮らしていたのである。

それでも、家に帰って一人になると少女ながら考えこんだ。なぜ、近所に住すんでいる支那服の子と遊べないのだろう、またロシア服の子と話ができないのだろうかとガラス窓を通してションボリ眺めていたものだった。父も母も私のこの寂しさをさほど気にとめている様子でもないようだった。

夏休みになると毎日学校に行っているようには行かない。子どもなりに手持ちぶさたになると、社宅の娯楽室に行っては学年ちがいの子とピンポンをしたり、ママゴトをしたりしていた。

この頃、友だちの家に内地(日本のことを内地と呼んでいた)から来たという学生服の人が娯楽室に姿を現したのである。

その辺りにある新聞や本に手を差しのべる様子でもなく、ぼんやり私の方を見ていたので、私もそばに近寄って話しかけた。
「お兄さんは何の勉強をしているの。」
するとその人は
「ぼくは病気になるバイキンの勉強をしているんだよ。伝染病のバイキンはこの満州にも沢山いるんだよ。それから他所の国にもいるんだよ。」
と話しながら手に持っていた小さな薄い本を読もうとしている。
「それ、何を勉強しているの?」
と私はたずねた。

すると学生さんは
「これはネ、エスペラントと言って、これを勉強して覚えるとどこの国の人ともお話ができるようになる、お手紙のやりとりもできるんだ。覚えるのも簡単ですぐ覚えられるんだよ。」
といかにも楽しそうに私に話してくれた。そして、何やら読んでくれたのだが記憶に残っていない。

心の底に残った学生さんのエスペラントの話は今も生きているが、夏休みを利用して満州にきたその学生さんはその後、このエスペラントを続けてやっておられるかどうか出会うこともなく70年経過してしまった。

小学生の私はそれっ切りエスペラントのことを忘れてしまった。

6年生の時に父が本社勤務というので東京に移ることになり、私たち家族は東京の牛込に引越した。1921年の初秋のことである。
のんびりとした10年間の満州生活に慣らされた私にとって、東京の町の 生活はなかなかなじむことに骨の折れる毎日だった。
今でこそテレビ、ラヂオで小さい子どもまで世界中の報道が眼から耳から入るが、当時は新聞か号外でなければわからない時代で、秋も過ぎた11月原首相が東京駅頭で刺殺されたことなど、号外売りの激しいあわただしい声が、街にひびき渡ったことで私は驚いたのである。
それまでは新聞などには殆ど関心なくぼんやり暮らしていた少女だった。

世の中のことが、だんだん心に見えるようになったのか、1923年国際婦人デー記念集会が神田のキリスト教青年会館であったとき、出かけて行ったが、私が子どもなので入口の警官が私を抑えて
「子どもはこんな所に来なくていいんだ。子どもが聞く話ぢやない。」と、ひどくどなられて追い帰されたことがあった。

子どもながらに私は好奇心を挫かれて憤慨したものだった。

この年の9月、関東一円に大地震があり東京の下町一帯は火の海となり、それに乗じて鮮人騒ぎが起こり、朝鮮人が多数引張られて殺された。
地震でガスも水道もとまったのだが、朝鮮人が井戸水に毒を流しこんだと言い触らせて、警官や町内の自警団員たちが怪しげな者はみなつかまえて引き連れて行った。
眼の前で殺されるのを見たという人もいた。

そして、この混乱に乗じて亀戸警察署では社会主義者が何人か殺されたり、また、無政府主義者の大杉栄一家も殺された事件があった。

このようなショックな事が私の胸を痛め、とりあえず社会主義の勉強をしなければと、図書館や本屋に行っては漁り読んだものだった。
社会主義者や朝鮮人を目のかたきにしているのはなぜだろうと考え始めた。

手当たり次第に乱読をするうちに私はいつも出かけて行く本屋で「模範エスペラント独習書」を見かけた。
6年前の大学生が話してくれた万国共通のことばエスペラントの文字をこの眼でしっかりと見ることができたのだ。
これを勉強してロシアの人と通信してみよう。その本を買い読んで行くうちに、国際文化研究所の外国語夏期大学の広告を「国際文化」でみつけ、エスペラントの講習を受けるようになった。

この1929年の講習会ではじめて進歩的な人びとと共に勉強をして、
「万国の労働者団結せよ」をおぼえたのであった。

心の底に眠りつづけていたエスペラントはながい眠りから目醒め、再度の山東出兵などが始まったりして、社会が戦争準備の気配に気付いた私は、先ずエスペラントで文通を始めねばと、社会主義のロシアに向けて手紙を書いたのは、サマラ市に住む女性ゾヤという人だった。

一ヶ月以上たったであろう或る日待ちに待った手紙がきたのである。社会主義国からの見しらぬ人からエスペラントの手紙が届いたことは、この上もない喜びであったと同時に、大きな希望を与えてくれた。

文通を重ねるうちに彼女は銀行員で、賃銀も男女平等、革命後の自分たちの生活はよくなった等、日本では全く考えられないことを手紙の度毎に書いてきた。
ゾヤとの文通でどれ程私ははげまされたことかわからない。

1928年から29年にかけてはプロレタリア文化運動も大きく進展して、その波は多くの人の心を把えて行った。

私もその中の一人であったのだろう。
治安維持法改悪や山本宣治代議士が神田の旅館で刺殺されたこと等々、憤怒を感じ決意らしい気持ちを持ったのもこの頃である。

社会主義、共産主義者に対する弾圧がひどくなるに連れて、エスペラントの国際通信も検閲がひどくなる中で、私の文通は途絶えさせなければならなかった。

だが、彼女と再び連絡がとれたのは敗戦後ずっと経過した1970年すぎてからのことであった。

横須賀の松葉菊延さんが世界大会に参加され、ソヴエトの女性エスペランチストに会ったとき、昔、日本の女の人と文通していて、今どうしているのだろうと私の名前をハッキリと言ったが、あなたは知っているかという手紙が届いた。

文通を始めた頃から40年以上月日のたった時で、当時はサマラ市だったのに、クイヴイシエフ市とかわっていた。すぐに私は手紙を送った。

日本が中国、アメリカと15年間戦争を続けたこと。その結果、原子爆弾の投下を受け、日本の天皇が降伏し敗戦になったこと。核兵器全面禁止運動のために、活動していることなど書き送ることは山ほどあった。
40年間の空白を埋めるには書く時間が不足した。

ソヴエトでスターリン時代にエスペラントを学んでいた人たちが、どのような扱いを受けていたのか、そのことについては何も書いてよこさなかった。
ザメンホフのホマラニスモに共鳴し平和運動を続けているようだった。

ヒロシマ、ナガサキからのアピール署名行動が始まった時も支援してくれて、沢山署名をあつめてくれて送ってくれたりしてが、その後、病気が悪化したのか、ぷっつりと便りが来ないようになった。
今でも時どき思いだされてならない。

1931年の秋、農民運動に日夜没頭していた伊東三郎と結婚したが、半年もたたぬ間に彼は検挙され、たらい廻しの挙句、起訴されて、豊多摩刑務所に送られたのが1932年6月下旬であった。
無事でいる同志のことや、刑務所に未決として入っている伊東の世話などで、エスペラント学習どころではなかった。侵略戦争が続いている間中、被告やその家族は警察から目をつけられていた。

侵略が進むなかで、日本共産党中央委員岩田義道が警視庁で拷問で殺されたと知ったのは、私が長男を産んだばかりの未だ床にいた時であった。大きな衝撃をうけたのも無理はないことだった。
今で言う産休に入る直前までわづか一ヶ月そこそこではあったが、岩田さんの家のお世話をしていた。
家を解散するときに彼は「丈夫な赤ちゃんを生むんだよ。僕が名付け親になってあげるよ」と言われたことを思い出してずいぶん悔しい思いをしたのだ。

この翌年、小説「三・一五」「蟹工船」「党生活者」などを書いていた小林多喜二が築地署で検挙され虐殺されるなど、心の痛むことが続くし、一方、中国侵略は激しくなるし、面白くないことばかりで過ごしたが、1945年8月15日、天皇の無条件降伏のラヂオの声を聞いて私は思わず「万才、万才」と叫んだ。

私たち家族は1938年に東京を後に、私の郷里熊本に疎開し、そこで敗戦を迎えようやく自由の身となったのであった。

この後、GHQ(連合国総司令部)により治安維持法等の撤廃、政治犯の釈放、農地改革法などの指令が日本政府に出され、このとき婦人参政権が公布されたこともつけ加えておかねばなるまい。

1946年に私は日本共産党に入党し、それを軸にして、いろいろな運動に参加してきたが、生活が安定していないので(自由時間が欲しいためパートで働いていた)かなり苦労の連続であったが、私なりに日本の平和と独立、そして自由と民主主義を、ほんとうに克ちとるよう努めてきたし、今からも続けて行かなければならないと思っている。

エスぺラントの分野でも、ごく僅かな力ではあるが、ベトナム戦争のときにベトナム人民支援運動や、ヒロシマ・ナガサキからのアピールの国際署名活動等の大きな連帯行動に参加した。

その他、文通、翻訳など独習による知識の範囲での活動だからお粗末なものだが、「世界平和運動(MEM)日本支部」に所属、「日本エスペランチスト平和の会」の会員として細々と学習を続けている。

ここでつけ加えることを忘れてならないのは所沢エスペラントロンド( (TOER)のことである。このロンドをつくろうではないかと私にも声をかけてくださったのが殷武厳さんだった。

その当時、私は余りエスペラントの本を見ていなかったし、どうしたものかと考えたが、とも角歩き出すことだと決心して結成に参加した。
月一回の定例会に参加する人は十人前後だったが、皆ほんとうに誠実な心豊かな人ばかり。

1981年からずっと今でも続いているTOERは、灯を消すことなく緑の星を高くかかげて、万人の幸福のため先輩の遺志をついで、エスペラントの発展のために連帯して行くことを確信している。

私も自分のため、またTOERのために、しっかりとエスペラントをつかんで生きて行こうと心がためをしている。

砂漠の嵐作戦開始。

ここまで書いてきたとき、中東イラクを中心に、大変な化学兵器戦が起こった。テレビ報道もホドホドに聞くことにして、心を静めてかからなければならない。
大きな目標をめざして歩こう。

1991年1月18日
(追記)金友会の代表世話人として中村伯三氏、殷武巌氏両氏のこのたびの出版計画に対して心から感謝し、それにむくいるために記憶を呼び戻しながら書き続けました。PEUという組織をしりながら他の事にかかわっていたので殆んど知らないと同じで、今度のこの計画が実現すれば大きな実りといえるでしょう。期待しております。