自 分 史豊 中 市 木 下 忠 三
一九〇八年二月、京都市上京区で生まれた。
ここに「道正町」という東西に通る道路がある。その東の方に「木下町」とい
う道路が南北に通っている。
鎌倉時代に道元禅師(一二〇〇‐一二五三)の従者となって、宋の時代に中国
へ渡った藤原隆英(法名道正)といった人が住んでいた。これが私の家の先祖で、
その名をとって現在は、その家を道正庵といっている。東側の部分は昔から木下
という土地で、やはりその名をとって姓を木下と名のった。代々医者が多かった。
応仁の乱(一四六七‐一四七七)でその家は全焼した。明治初年、御所が東京
へ移ったため、私の祖母(一八五二‐一九二二)は道正庵の西約一キロに今もあ
る表千家から来た人であったが、それまで持っていた諸収入のもとを失って、生
活の困難から土地を順次売り払った。このままでは木下家は消えてしまうという
ことを永平寺が知って、残った約四百坪の土地は永平寺の所有となったが、一切
無償で使用を許した。ただし地租等の負担はすべて木下が持つことになり、今日
に及んでいる。今は私のおいが当主となっている。
私はこの家の三男に生まれた。父が何をしていたか、よく職の変わる人だった
から定かではないが、多分そのころは京都の米穀取引所の職員だったと思う。近
くの市立の小学校でなく、それより少し遠い所にあった府立の師範学校付属小学
校へ入ったのが一九一四年で、一九一八年の米騒動は子供心におぼえている。近
くの米屋がおそわれるらしいと言って皆こわがっていたが、結局何事もなかった
ようだった。
一九二〇年、京都府立の第二中学校へ入学できたが、うちから学校までは京都
市の北から南まで数キロあり、かなり遠く、市電で通学したり、たまには自転車
通学もあったが、いずれにしても一時間以上はかかり、自転車の場合は、京都と
いう土地がいかに北から南へ下っているかを、身をもって知らされた。
一九二五年、上級学校へ進学するための学資を得る見込みがなかったので、授
業料のいらない高等師範を受けるために、一月早々初めて東京へ出た。おじの家
へ泊まって受験したが、これは失敗で入学できなかった。
その二カ月程後に、ある篤志家の給費生となることができて、それならばと大
阪の官立高等工業学校の機械科を受験したが、これは成功だった。
その年の夏休みに、中学時代の仲良しだった四人が久しぶりで集まったが、そ
の中のひとり三高へ行ったのが、何かよくわからないことを話した。よく聞いて
みると、彼は社研のグループに入っていて、その話だった。
知識欲の盛んな年代(一八歳)だったから、一同魅せられ、当時刊行されたばか
りの「社会問題講座」の読者になり、また河上肇博士の「社会問題研究」の購読
者にもなったばかりでなく、京都市の三条青年会館なんかで開かれた博士の講演
会にはかかさず聞きに行ったものだった。今でも印象に残っているのは、博士の
特有の抑揚をもった教壇からの講義口調での次のことばである。
「このきわめてrevolutionalな... 」の revolutional という英語を少し早口で
いってのけると、壇上でサーベルをまたの間に立てて、『弁士中止!』の機会を
ねらっている警官にはその英語の意味がわからず、ぽかんとしているので、聴衆
一同よろこんで拍手かっさいだった。
そのころ京大の学生の一人がgvidanto(1) であった研究会で「資本主義のから
くり」を学んだ。
一九二六‐一九二七年ごろ大阪の生野区勝山通りから少し南へ入った二階家に
下宿していた、やはり京大の学生の清水省三という人(この人は戦後初めての知
事選挙に愛媛県から共産党候補として出た)を中心に、大阪の高校や専門学校の
学生たちが四人くらい集まって、社会科学の研究会を持った。週一回くらいで、
そのころ次から次と盛んに出版されたマルクス主義の文献を学んだ。よくわかっ
たかどうか、とにかくよく読んだ。資本論はちょっとかじりかけたが、あの膨大
さには歯が立たなかった。「賃労働と資本」「労賃、価格および利潤」やエンゲ
ルスの著作の「空想より科学へ」その他レーニンの論文など、随分たくさん片っ
ぱしからといってもよいくらい読みふけった。 そのころの大阪の学生で、戦後
の漫才のエンタツ・アチャコを生み出した有名な作家、秋田実は当時の仲間の一
人で、大阪高校だったか外語かの学生だった。
一九二八年ちょうど三・一五のあらしのまっただ中を無事卒業して、不景気で
就職難の時代だったが、うまく口があって、東京へ就職した。またおじの家で一
カ月ほど世話になった後、中央線の荻窪駅の近くに小さな借家を見つけてそこに
住んだ。おじの家は新宿に近かったし、勤務先は、京橋の交差点の第一生命ビル
の三階にあったから、通勤には一時間以上かかった。この荻窪の借家では中学の
同窓で一番仲のよかった男で、三高から東大の経済学部へ入った友人と二人での
自炊生活だった。会社は水道衛生工事の請負会社で、本店は大阪だったが支店長
格の支配人というのが学校の先輩で、彼は採鉱冶金科出身で、水道衛生工事は機
械科出身の者でなければというので、私を採用したというわけだった。
定期券を使っての通勤だったから、新宿で途中下車して、紀伊国屋書店なんか
をのぞいて、新刊の本を見て行くのは日課のようなものだった。
一九二九年一月七日、 これは私には一つの運命の日だった。この日この新宿
の紀伊国屋書店の店頭で見付けた本は「模範エスペラント独習」だった。著者の
小坂狷二(2) は聞いたこともない人だったが、合著者の秋田雨雀は有名人だ
ったので、それにひかれて飛びつくようにその本を買った。
今もこの本は私の本棚の中の一冊で、その表紙の裏には一九二九- 一- 七日より
と記入してある。
当時の高等専門学校では、教科書は全部イギリス発行のものだった。機構学、
力学、数学などすべて英語だった。英和辞典を引きながらの勉強だった。教室で
の講義でも度々英語が出て来た。ただし、その場合、教授はたいてい黒板にそれ
を筆記し、学生はそれをノートした。だが私は中学時代英語は不得手な学科の一
つだった。進級するのに必要な最少限度しか得点できなかった。だから英語に対
する絶望的な感じを持っていた。そこでそのエスペラントというものに何となく
引かれて、さっそく勉強してみた。発音から初歩的な文法は大体理解できた。し
かし、独習では質問することもできないし、割合やさしい文法には何とかついて
行くことができたが、それも -anta, -inta, -onta を使った複合時まで来た時
には、とうとうさじを投げた。私はかつて学生時代、工科を行くにはドイツ語は
必要だと思って講習会に通ったことがあったが、冠詞の der, des, dem, den の
所で、こんなややこしいものは歯が立たないとあきらめてしまったことがあった
が、エスペラントの合成時も一種それに近い感じだった。
一九三〇年三月、こうして何カ月かエスペラントからはなれていたある日、新
宿の歩道で偶然目に留まったのは「プロレタリアエスペラント講習会」の文字だ
った。
魅せられたような気になって、さっそく申し込んだ。これが新宿旭町の二葉保
育園での講習会だった。にぎやかな新宿の表通りから、いくつかの裏道を通った
スラム街の一画のバラック建物で、昼間は付近の子どもたちのための保育園で、
園長は徳永恕(ゆき)という進歩的なクリスチャンで、戦後、美濃部東京都知事
により名誉都民の第一号となった人だった。講師は大島義夫(3) 氏、今もそのこ
ろと変わらぬ物しずかな方で、後年中垣虎児郎氏に「あの静かな大島君のどこか
らあれだけの情熱が出て来るのだろうか」と言わせた人だった。週二回、毎回二
時間の講習会だったが、すでに発音の一通りと初等文法を独習ですませていた私
には、講師の話はみんなよくわかり、今までの英語やなんかのようなあいまいさ
もなく、全くのめり込むように、このことばの学習に没頭してしまった。
この講習会を主催したのは、プロレタリア科学研究会で、新宿の他にもう一つ、
本所の帝大セッツルメントで同時に開かれ、その方の講師は中垣虎児郎氏だった。
同時進行した二つのグループは、その後PEA(4)からPEU(5)に発展するわけだが、
その詳細は「反体制エスペラント運動史」に述べられているから、ここにくり返
す必要はないだろう。
一九三一年 PEUの活動に積極的に参加した私は、五月ごろだったと思うが、神
田警察署に一週間留置されたことがあった。会社の事務所へ刑事が来て、ちょっ
と来てくれ、といって引っぱっていかれたのだった。たしか机の引出しなんかを
かきさがして行ったと思うが、一週間何の調べもなく、最後に一枚の写真を見せ
て、それがだれであるかを言えということだった。それは石内君の写真だったか
ら、それはエスペラントの会合で知っている友人だとすなおに答えただけで別に
手荒なことは何もなく、それで放免だった。
もう一度、その翌年一九三二年に麹町警察署で同様のことがあった。この時は
ちょうど五・一五事件の真っ最中であった。その年の四月に最初の会社はつぶれ
てしまっていて、私は幸いにももっと大きな会社に変わっていた。前と同じ衛生
工事その他の請負会社で、三井系で、現在でもNo.1の大会社だった。その時は日
本橋通りに、今もある、高島屋東京店の第一期新築工事中で、歩道の上に設けら
れた工事現場事務所へ、毎日通っていた時だった。やはり前と同じように刑事が
来て、前回同様の経過で、やはり無事一週間で釈放された。
そのころはちょっと引っぱったら、とにかく一週間はほっておいたものらしい。
情勢がまだその程度のものだったこともよかったのだろう。そのころから翌年に
かけて、弾圧はますますはげしくなり、PEU のような文化団体の合法的な活動す
ら、だんだん困難になって来た。
そんな状態の中で、一九三三年四月、私は社命で大阪支店へ転勤となった。大
阪のPEU はそのころはもうほとんど姿を消していた。
「反体制エスペラント運動史」ではJPEU(5) では私は会計部の責任者となって
いる。それは事実だが、私が特に金を集める才能がすぐれていたというわけでは
なく、戦後中垣さんが私に言ったことばだが、「当時のPEU の人びとは、皆失業
者かそれに近い者ばかりだったから、金をあずけるにはちゃんとした給料のある
君にしかできなかったのだ」というわけだった。
私が大阪へ転勤するまでに、東京での住所は随分変わった。
荻窪‐天沼‐神田錦町‐神田司町‐谷中‐五反田。もう二回くらい変わったと思
うが、今はもう記憶もたしかでない。今は戦災で町の様子もすっかり変わったこ
とだろうが、若いころの思い出の場所に出会うと感慨深いものがある。数年前、
谷中へ行ってみたが、昔あった五重の塔が戦後早い時期に浮浪者のたき火の不始
末で焼けてしまっているのを思い出して、おどろいたことがあった。ここの天王
寺という寺のはなれの一室は、たしか伊東三郎かだれかが、一日非合法の会合に
使ったはずだ。神田錦町の下宿の一室も、一週間ほどだれかが同様の目的で使っ
たことがあった。その一週間を私がどこで過ごしたか、もう忘れてしまった。こ
の部屋には二年近くいたと思うが、たしか山宣が殺されたのも、この近くの宿屋
だった。またこの部屋には塚元周三が一カ月ほどころがり込んでいたことがあっ
た。彼はその部屋代の意味でちゃんとガラス戸の付いた本箱を置いて行った。こ
の本箱は今も宇治市にいる兄の家にあるはずだ(この兄も一九九〇年春八七歳で
亡くなった)。
塚元については戦前もさることながら、戦後、私は九州へ行った時、三度ほど
彼を訪ねた。諫早市の天満川の堤防下の古くからの彼の家は、洪水ですっかり水
づかりになり、大事な資料は皆だめになってしまったとのことだった。これを宮
本正男 (6)に伝えると、それ以後宮本は一切塚元への関心を示さなかった。塚元
は、私が訪ねるたびに、地元の天然うなぎをごちそうしてくれた。数年前、また
訪ねようと思って大阪から電話をかけてみたが、全然不通で、手のつけようがな
かった。多分もう亡くなったのだろう。
五反田へ移ったのは、そのころ私のすぐ上の姉が、そこで長男を生んだころで、
私が毎年のように警察へ引っぱられるようなことがあったので、その監視の意味
があったのはたしかだった。しかし、それも一九三三年四月大阪転勤までの事だ
った。
一九三〇年から一九三三年までの四年間、私はとにかくよく勉強した。通勤と
現場通いの間、毎日何時間かは、たいてい電車の中だったから、私はカバンの中
にいつも辞書とエスペラントの本を入れていた。電車の中だから座っていても、
立っていても小さな声で音読することはできた。知らない語は、何回でもわかる
までは調べた。こうして日本語の意味がわかったら、後はエスペラント文の中で
そのまま日本語に訳すことなく理解して行った。いつの間にかエスペラントで物
を考える力がついたわけだ。とにかく朝から晩までエスペラントにつかりづめだ
った。眠る前のわずかな時間でも、ふとんの中でエスペラントを読んだ。Marta
なんか何回も読んだ。涙を流しながら読んだことをおぼえている。
月一回の柏木ロンドにも参加させてもらった。一九三三年までの三‐四年間だ
から、柏木ロンドの会員としては後期の方で、もう清見さんなんかはいなかった。
ここで読んだ本で、今も覚えているのに Fabeloj de Andersen (7)があった。
比嘉さんにも親しくなった。私が今でも他の人に「私はだれかがエスペラント
で話しかけて来たら、いつでもとにかくエスペラントで答えますよ」と言えるの
は、この四年間の勉強のおかげだった。当時の私たちPEU の仲間たちの間では、
おたがいにエスペラントで話し合う習慣はなかった。またエスペラントの会話を
特に練習することもなかった。
戦後、私は一九六一年ごろ広島市で四年間勤務したことがあったが、その時初
めて外人エスぺランチストと話したことがあった。東京でのPEU 時代からいえば、
三〇年くらいたってからのことだった。会話の経験なんか一度もなかったが、初
めて会ったこの外人エスぺランチストと、自由に物が言えるということに、自分
ながらおどろきだった。
とにかく一九三〇年から三三年までの四年間、私のエスペラントへの没頭は、
自分でもことばについては特に優秀だとは思っていないのに、このエスペラント
がこんなに身についてしまっているのは、若い時の鍛え方が適当だったからだと
思っている。もちろん日ごろ毎日使っているわけではないから、何についてでも
というわけではない。
この東京でのPEU の初期のことで、今も記憶に残っているできごとがある。そ
の一つは何年のことか忘れたが、東京(場所も忘れた)で日本大会が行われた時
のことだ。当時エスペラントの雄弁家として有名だった藤沢親雄が、できたばか
りの満州国について、その王道楽土を持ち上げて、満州国皇帝のことを
“reg^osag^ulo(8)”と言った時、中垣さんがそばに座っていた私に低い声で
「フン Pupo-malsag^ulo(9)だ」と言った。
また、そのころのある秋のことだった。その日は気象学上、まれな豪雨が東京
をおそった日だった。折からはるばる到着したソビエートの砕氷船クラッシン号
の乗組員の一人にエスぺランチストがいるということで、大島さん等とともにそ
の歓迎会に参加した。三十歳くらいのそのロシア人の名前はもうわすれたが、彼
との会話の中で、そのときテーブルの上に出された柿を見て、彼は柿はヨーロッ
パにないから、やはり日本語の kakioというと言った。このロシア人は、船が氷
で閉ざされて動けなくなると、ダイナマイトでそれを砕くダイナマイトの専門家
だった。
これはもう少し早い、PEU がまだ結成されたかされない時、講習会が終わって、
次の講習会も終わって、人数もだいぶ増えて来たころ、春の行楽時期だった。み
んなそろって荒川の河川敷のひろっぱの草原で、丸くなって歌をうたって大いに
楽しんだ。そのころ講習会で習った歌は“Fratoj al sun' (10)”,
“Internacio(11)”, “Kremla sonorado(12)”なんかだった。場所は浮間ケ原
といっていたが、今のどのあたりか記憶はない。しばらくさわいでいるうちに、
どうしてかぎつけたのか、警官の一隊にかこまれて、一部の者は逃げたが他の者
は検束された。私は逃げた組だった。その検束がどのような具合だったか、今は
何も記憶はない。
一九三三年四月、それまで従事していた東京日本橋の高島屋東京支店の工事が
終り、すぐに大阪帝国大学理学部(このとき新築された建物は、今はすっかり取
り払われてしまっている)新築工事の現場担当者となって赴任した。
この工事も一年で終わって、今度は満州へ転勤となって一九三五年四月、まず
大連へ、その年のうちに、新京へ移った。
翌年二月、結婚式を京都の家で挙げた。そして、すぐ任地へもどり、二年後に
奉天へ、一九三九年には長女誕生。さらに二年後には次女誕生。
その年(一九四一年)一二月には、太平洋戦争ぼっ発、その翌年(一九四二年)
四月には、また大阪へもどった。
はじめての大阪時代には、もうPEU とは連絡のとりようがなく、満州時代もさ
らに連絡がとりにくくなった。
新京では、ここのエスペラント会の会員になった。この会の会長は、荒川銜次
郎という老人だった。自分はエスペラントはわからないが、esperantismo(13)は
大好きだと言っていた。奉天では、安部浅吉教授の主催する奉天エス会に所属し
たが、彼は満州エス会のボス的存在で、その息子は現在の文学者安部公房である。
ここでも積極的な仕事は何もしなかった。
そのころ、三宅史平さんが満州視察旅行に来て一度出会ったことがある。エス
ペラント運動の外にいることのさびしさから、それまで会員でなかったJEI の会
員になった。
また東京では、PEU への弾圧はますますはげしかったようで、一九三五年に一
同の記念写真を送ってくれた。この写真はたしか坂井君からだったと思うが、
「反体制エスぺラント運動史」の中に「ポエウの人たち(一九三五年)」として
のっているのがそれだ。
自分も非合法運動をした経験のある宮本は、あのころ、こんな写真を残すなん
てことがあるか?と言ったので、これは一同が、仲間の出獄または釈放をよろこ
んでのものにちがいない、といったら、彼はそれで了解した。
同じころ満州にいて、私よりはるかに活発に活動したらしい田中貞美君とはつ
いに出会ったことはなく終わった。
もう八年も満州にいたのだから、帰らしてくれ、と言って大阪へ転勤させてもら
った。
今時分内地へ帰っても何もないぞ、と同僚は言ったが、構わずに帰った。
戦争中の大阪へ帰ったが、エスペラント運動はもうなく、工事現場も軍需関係
はもう全部他の社員がやっていて、私が担当したのは、資材もほとんど回って来
ない病院のようなものばかりで、その現場への往復を利用して、買い出しをやっ
た。
初めは天王寺区寺田町の近くに住んでいたが、やがて疎開を急がれて、大阪の
町を外れたすぐ北の方、淀川を渡った十三(じゅうそ)のさらに北の三国で神崎
川を北へ、その支流の天笠川の土手下に、一軒の借家を見付けて、そこへ移った。
この家は、大家が隠居所にするつもりで建てた家だったので、八畳の間に違い棚
付きの座敷があった。
この部屋で、しばしばエスペラントの仲間は会合した。今日のKLEG(14)創立の
ための準備の会合もこの部屋で行われた。このことは「KLEG40年史」の冒頭に書
いてある。
やがて、一九四五年八月一五日の敗戦となるわけだが、その年の四月、大阪も
大空襲を受けたが、淀川の北の方までは来なかった。南の空がまっかになったの
を見ているだけだった。ところが六月にはとうとう北の方、うちのまわりも至近
弾を受けて家は大破、応急処置で何とかしのいだが、大あわてで近所の人の世話
で、家族の者を岡山県津山市郊外の大きな農家の一室に住ませてもらって、私は
単身家を守った。津山と大阪とを、週に一度くらい往復した。
とうとう八月一五日となった。その日は津山にいたが、戦争が終わったのなら
こんな所にいる必要はないと考え、その翌日家族一同早速引き上げた。こうして
大阪での生活がまたはじまった。
やがてエスペラント運動も再開され、私の家でのKLEG準備活動もはじまったわ
けだが、その後のエスペラント運動の間、私は大体いつも宮本正男の近くにいた。
そのころ(一九四六年)今までの会社とは別の会社へ移っていた。
一九四五年三女誕生。一九四九年には末娘が誕生した。
一九五四年から一九六〇年までの間、五年間のうち満三年ほどは断続して、沖
縄で米軍の工事に従事した。その間、比嘉春潮 (15) さんの世話で、琉球大学の
学生にエスペラントを教えた。また一九六〇年から一九六四年の間、広島へ転勤
した。そのころまで広島にいた田中貞美君は、その一週間ほど前に大阪へ転勤し
た後だった。
一九七五年八月、妻をがんで亡くした。その時からずーっと今日まで、長女の
世帯と同居して、日常生活の面倒を見てもらっている。
一九八〇年、ごく軽い脳こうそくで、しばらく近くにある国立循環器病センタ
ーへ入院したことがあった。このときの右手右足の麻ひは一週間で治ってしまっ
たから、よかったと思っていたが、歩く力がだんだん弱くなって来た。
福田正男君とは何となく気が合ったとみえて、東北から九州まで随分方々へ旅
行をして回った。
一九八九年、一時体調を悪くして、それまで毎週一回行って仕事を手伝ってい
たKLEG事務所へも、もう体力の限界ですと言って、止めさせてもらった。じっと
立っていることすらできず、何でもない時に、しりもちをつくことが度々あった。
その年の三月末ごろ、とうとう道路脇にあった道路標識のコンクリート製ブロッ
クの上へしりをぶっつけて立ち上がることもできず、ただ痛い痛いと泣き声を上
げているところを、通行人がよって来て、すぐ前にあった外科医院へかつぎ込ん
だ。ここではレントゲンで調べて単なる打撲傷だけだと言って、救急車で近くの
病院へ運んでくれた。
約一カ月の入院で、自力で歩けるようになって退院。その後約ひと月ほど待って
から、今度は和歌山県の南端、那智の滝の登り口にある、町立勝浦温泉病院へ
四〇日間入院した。
退院して10日はど後に、宮本さんはがんで亡くなった。
高槻医大病院の霊安室で、彼の遺がいと対面したときは、思わずふき出る涙に、
どうすることもできなかった。
KLEGでは事務の手伝いのほか、通信講座のgvidantoを勤めた。これはもう約
二〇年になる。今もつづいている。
一〇年余り前から、自分は仏教には縁があると自覚して、日本仏教エスぺラン
チスト連盟に加入した。ちょうどこの連盟が企画した「エス訳仏教聖典」が出版
された時だった。早速一冊もらったが第一ページ目から、文法的まちがいに気が
ついた。理事長にそれを言うと、すぐ改訂版を出さねばならぬが、君もその一員
になれとのことだった。しかし私は仏教については、何の知識もないがと言った
ら、それならちょうどよい人がいるから、その人といっしょにやってくれという
ことになった。
この人は今も無二の親友となった、岐阜県大垣の郊外にいる、浄土真宗の寺の
住職である脇坂智証師である。この人は初対面の時に、次のようなことを言った。
「私は宗教はアヘンであることを知っています。共産党宣言も読んだことはあり
ます。」
宗派の大学でなく、東大の印度哲学科を出てサンスクリットにも明るく、私よ
り一歳上の老人である。私とよく話があった。
仏教聖典改訂の作業を進めるために、二人は随分あちらこちらで話しあった。
一番よく会合したのはこの人のお寺であった。子供の時から寺で生まれたこの人
は、お経についてはすべてそらんじていた。エスペラントの力は私の方が少し上
だったが、初心者に教える程度だったから、他のもっと高度の人々からたくさん
の助力を得て、一〇年余りたってようやく近くこの改訂版は一応世に出ることと
なった。
エスペラントを学び始めてもう六一年になる。年も八三歳になった。その間、
世の移り変わりにもかかわらず、よくも無事に生きて来たものだ。今は実の娘に
身のまわりの世話になって、わずかな年金収入だけでだが何の不安もなく暮らせ
て幸せだと思っている。人間上を見ればきりはないが、そんなことは全然考えて
いない。
エスペラントを友としながら、今後の私の仕事は道正庵の研究をまとめること
だ。専門家でない私だが、いささかの資料は大体手元に集めてある。私の頭の中
での仮の題は「道正庵物語り」。
毎朝、夜明けとともに起き、約三〇分団地の中を散歩する。ひるねを約三〇分。
数年間使っていた杖も、最近もっと必要になったらと、押入れの中へ片付けてし
まった。遺伝性の難聴で、おおぜいのなかでは全く役立たずだ。また、目も白内
障が進行中だが、まだ新聞は読める。交通事故に遭わないよう気をつけて、天寿
を全うしたいと願っている。
(一九九一年一〇月一日)
注
(1) gvidanto: グビダント、案内人、指導者、ここでは講師の意。
(2) 小坂狷二:(おさか けんじ)一八八八‐一九六九、東京市生まれ、日本エ
スペラント学会の創立者、世界エスペラント協会名誉会員、日本エスペラント運
動の父と言われた。「模範エスペラント独習」その他著書多し。
(3) 大島義夫:(おおしま よしお)一九〇五- 東京市生まれ、早稲田大学卒業、
日本エスペラント学会会員、プロエス運動の創立者の一人で、その指導者の一人。
「エスペラント四週間」(大学書林)、「新エスペラント講座」(要文社)その
他著書多し。「反体制エスペラント運動史」(三省堂)の共著者。
(4) PEA:ポーエーアー、Proleta Esperanto-Asocio, プロレタリア・エスペ
ラント協会。
(5) PEU:ポーエーウー、Prolet-Esperantista Unio, プロレタリア・エスペ
ランティスト同盟。正式にはJPEU; ヨーポーエーウー、Japana
Prolet-Esperantista Unio,日本プロレタリア・エスペランティスト同盟。
(6) 宮本正男:(みやもと まさお)一九一三‐一九八九,和歌山市生まれ、労
働運動に従事、沖縄戦で捕虜となり、後関西エスペラント連盟の創立に参加、そ
の指導的役割を果した。「日本語エスペラント辞典」(日本エスペラント学会)、
「反体制エスペラント運動史」(三省堂)その他エスペラントおよび日本語での
著訳書多し。関西エスペラント連盟顧問、世界エスペラント協会名誉会員、エス
ペラント・アカデミー会員。
(7) Fabeloj de Andersen: アンデルセン童話集(パリのエスペラント中央書店
刊)
(8) reg^o-sag^ulo:レージョ サジューロ、王‐賢者の意。
(9) pupo-malsag^ulo: プーポ マルサジューロ、人形(かいらい)‐愚者の意。
(10) Fratoj al sun':フラートィ アル スン,兄弟よ太陽へ、(にくしみのる
つぼ)の歌。
(11) Internacio: インテルナツィーオ、インターナショナルの歌。
(12) Kremla sonorado: クレムラ ソノラード、クレムリンの鐘の歌。
(13) esperantismo:エスペランティスモ,エスペラント主義。学習容易なエスペ
ラントによって世界中の人が話しあうことができ、それによって世界の平和を促
進しようという主義。
(14) KLEG:クレーグ、Kansaja Ligo de Esperanto-Grupoj(カンサーヤ リーゴ
デ エスペラント グルーポィ)関西エスペラント連盟。
(15) 比嘉春潮: (ひが しゅんちょう)一八八三‐一九七七,沖縄県生まれ,
一九一五年エスペラントを学習。「比嘉春潮全集」、「沖縄の歳月」など著書多
し。柳田国男門下の民俗学者、小学校校長、新聞記者、改造社社員。戦前から東
京に居住、プロエス運動に協力した。
|