エスペラントと私

池田ヒサノ

エスペラントの勉強を始めたのは大正10年数え年17歳。当時私は岡山市内の中国民報社の文撰工として働いていました。
その中民の新聞記者に太田郁夫さんという熱心なエスペランチストがおられて、その方を講師とする「世界共通語エスペラント講習会」のビラが社内にはり出されました。

私は世界共通語の言葉に心ひかれて早速入会したのです。会員は、はじめは十人許り集まりましたが、段々減って最後まで残ったのは私一人でした。私自身は楽しくて面白くて、太田先生の紹介で日本エスペラント学会に入会、Revuo Orienta の購読をはじめるほどでしたが、残念なことに間もなく太田先生は結核で亡くなられました。

上京したのは大正13年20歳の春でしたが、前年の大地震で東京市内はガレキの山でした。岡山を出る時「困った時にはここを尋ねて相談しなさい」と中民支局員への紹介状を姉から貰っていましたので、それを持って当時お茶の水にあった支局を訪ねました。

幸いにも支局員のお世話で博文館(今の共同印刷)に、漢字、かな返し(今は一度使った活字は全部鋳込直しをしますが,当時は、かな、数字と別けて再使用しました)で就職出来、住居も博文館の近くに、3畳のかし間を借りて、そこに落ち着くことになりました。

昼間は博文館で働き、夜は神田三崎町の日進英語学校夜間部に通いました。その後、間もなく特別のはからいで博文館欧文課に転職させて貰い毎日が楽しく勉強に、はげみました。

日曜日には2回程でしたが、新小川町にお住まいのエスペランチスト小坂狷二先生のお宅へ伺って Revuo Orienta 発送のお手伝いをしました。

その時小坂先生から「市ヶ谷に森田松栄さんと言う人がクララ会と言って、女性ばかり集めてエスペラントの勉強をしておられるからそちらへ行ってみなさい」と道順まで書いて下さいましたので、教へられたとおり、会合当日喜びと不安の気持ちで出かけました。

大きな門を入って、玄関の戸をあけてまづビックリしたのは、キチンと揃へられた履物の美しい事でした。私は自分のみすぼらしい下駄をふり返って、ここは私の来る所ではない。帰ろうかとモジモジしている時、丁度松栄先生が出て来られて「どうぞ、どうぞ」とすすめて下さるので、ためらい乍らも部屋に入りましたが、居並ぶ人々に圧倒されてしまいました。

メリンス、銘仙、絹物の美しい着物を着飾った奥様やお嬢様ばかり、私は恥ずかしいやら気まり悪いやらで、隅の方に小さくなって座りました。松栄先生が紹介して下さると、皆様は私にやさしく話しかけて下さいましたが、中でも西村まり子さん(父と弟と三人暮しで淋しい家庭の令嬢)は、私が一人で働いて生活していることに大変興味を持たれて、親しくお付合をさせて頂いたものでした。今ではご存命かどうか消息不明です。帰りに松栄先生は私にソッと言われました。「ここは着物や履物の競争をするところではありません。エスペラントを勉強するところですから、又この次もお出で下さい、待っております」嬉しくて涙が出ました。

後日松栄先生が私の下宿を訪ねて下さった時、みかん箱を横にして、ふろしきをかけて机とし、又横にしたみかん箱にはRevuo Orienta 10冊、ノート数冊、初等英語教科書二冊、座ブトンもない有様でした。先生はさぞビックリされたことでしょう。その頃私は朝夕2食付の下宿屋に住んでいました。次の会合日に座ぶとんを一枚頂きました。綿のシッカリ入った大きなフカフカの座ブトンでした。

メーデーには毎年参加しました。当時は芝のお成門から上野公園の広場まで行進したものです。上野の山で観衆の中に松栄先生、西村まり子さん外2人クララ会員が声援して下さったのを想い出します。

埼玉県行田の足袋工場で労働争議が起こりました。博文館労働組合執行部の命令で、印刷課の宮地さんと、労働組合の事など何もわからないまま、組合員になったばかりの私が応援に出かけましたが、工場の争議団員は、全員検束された後で会場には十人ばかりの警官が屯しているだけでした。私達2人はいきがかりで、行田警察署に連行され、宮地さんは留置所に押込められ、私は別室で持物全部を出して調べられました。署長らしい人が入って来て、私の持物を見ていましたが、その中の手帳を暫く見ていて「之は何語かね、英語ではなさそうだが」とたずねるので私は正直に答へました。「エスペラント語です。世界共通語です」「エスペラントって何処にあるんだ?」「エスペラントと言う国はありません」「国がないのに言葉があるのは君おかしいじゃないか」と言うので「私に少しお話をさせて下さい」と言って、ザメンホーフの伝記を得意然と話しました。手帳には予定や感想などギッシリエスペラントで書きこんであるのです。署長らしい人は私をさとすように、「君、こんな運動はやめて学校の先生にでもなりなさい。ワイワイ騒いでも、今日本国がどうにかなるものではない。両親はいるのだろう、結婚して早く親に安心させてやりなさい。もう帰ってよろしい。駅まで送ってやりなさい」とまわりにいた警官に指示しました。私は宮地さんの事が心配で問うと「彼は一寸調べる事がある。今日は泊まって貰うから、あんた一人で帰んなさい」

仕方ないので私は帰ることにしました。四人の警官が駅までついて来て、私が乗った軽便鉄道の小さな木製のガタガタ車輛が、駅の角を曲がって見えなくなるまで、駅前に立っていました。

その頃沖縄県の人で新潮社に勤務のエスペランチスト比嘉春潮さんが、新宿柏木の自宅を開放して、エスペラントの輪読やら討論を、なかなか活気ある集まりで柏木ロンドとよばれていました。松栄先生の紹介で女一人私も参加させて貰いました。中垣さん、泉さん、法華さん等いつも見えていました。大島さん、伊東さん、清見さん等も時々参加されていました。

日曜日など会合のない時は、私はよく神田の古本屋街を散歩しました。私の顔形が当時の日本婦人にはあまり見かけない断髪で前髪をたれていたので、見間違はれて、朝鮮や中国の留学生に声をかけられましたが、何をいっているのか私にはサッパリ判らないので、私は即座にエスペラントで(C^u vi parolas esperanton? と問返すと、どこの国の女かというようにビックリしていました。うるさく言いよってくる学生はいませんでした。

ところで私の原稿や写真がドイツで発行のSATの新聞に掲載されると、ロシヤ、ドイツ、フランスなどから、文通希望の手紙が沢山来ました。日本人形を、キセルやタバコ入れを、日本の着物を送ってくれと言う注文が沢山ありましたが、苦学中の私にはそんな余裕はないので絵葉書でがまんしてもらいました。

海外文通者の住所録や海外出版のエスペラント読本など、昭和20年5月25日の最後の大空襲で灰になってしまい、私自身も着のみ着のままで焼け出されました。したがってRevuo Orienta の会費も払えなくなって、購読を一時中止せざるを得なくなりました。

今当時のことをふりかえってみると、エスペラントのおかげで、私の青春時代はとても楽しく幸福でした。太平洋戦争をはさんで、結婚、出産、終戦、戦後混乱期の食料調達、家事育児等々でエスペラント語の研究や、エスペランチストとの交流などすっかり疎遠になりましたが、4,5年前私を識るなつかしいエスペランチストの方々から、大会出席のお招きを受けたりするようになりました。でも80歳も半ばにいたり、寄る年波で足は不自由になり、難聴にもまして視力も衰へ、エレベーターのない会場や、人のこみあうばしょへはでかけなくなりました。なつかしい思い出の方々、

太田郁夫氏、 森田松栄先生、 岡一太氏、 小坂狷二氏、 三宅史平氏、山鹿泰治氏、 比嘉春潮氏、 中垣虎児郎氏、 福田正男氏、
岡本好次氏、 伊東三郎氏、 泉氏、 法華氏、 大栗氏

中村伯三氏、 殷 武巌氏、 大島義夫氏、 宮崎公子氏、 熊木秀夫氏、 西村まり子氏、 加沢絹子氏